内田樹氏は、「結婚はエンドレスの不快であるが、そんな他者と共生してゆくことにこそ意義がある。共生することは人間性の根源である」と言っています。
だったら彼は、今すぐにでも世界一のブスで根性悪(こんじょわる)の女とだって結婚できるはずです。相手なんか誰だっていいじゃないですか。とにかく「共生」することが大事で、エンドレスの不快でも共生できるんでしょう?
あの後期印象派の画家であるゴッホは、病気で枯れ木みたいにやせこけた年増の娼婦にプロポーズしていったのですよ。そういうえらそうなことを言うのなら、そこまでやって見せてくださいよ。いや、やらなくてもいいんだけど、少しはゴッホに対して恥ずかしいと思ってもいい。そこまで言うのなら、誰でもいいから今すぐ結婚するというくらいの態度は見せてほしいものです。「エンドレスの不快」をしょってみせてくださいよ。それが最低限の、あなたみずからの思想に対する責任というものでしょう。
あんなえらそうなことを言わせておいて、それを実行しない内田氏を許すまわりの連中もどうかと思うけど。
いや僕だって許さないというわけじゃないけど、くだらないやつだとは、しんそこ思う。
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家族とは、共生することを「拒絶」する場です。共生することを拒絶しあいながら共生してゆく場です。
家族とは、安心して「拒絶反応」を表現できる場です。
だから、たとえばセックスにおいて拒絶反応を表出する機会が失われると、ある種ゆがんだかたちでそれが表出されることになる。
現代のように女が主導権を持つ一部の家族では、女=母=妻の「拒絶反応」としての「検閲」が厳しくなって、家族が息苦しいものになってしまう。だから子供たちは自分の部屋に引きこもり、「個食」などという形態にもなってくる。休日に子供を連れて遊園地に行くことだって、子供がちゃんと「幸せ」を味わっているかと「検閲」する行為でもある。
女は、みずからの身体を「検閲」し「処罰」して生きている。女は「検閲」し「処罰」することを本能として持っている。そういう生きることそれじたいに対する「拒絶反応」を持っている。生きることを「拒絶」しながら生きてゆこうとする。だから「幸せ」が必要になる。子供に「幸せ」を与えることは、「不幸」に対する「拒絶反応」、すなわちそういう強迫観念を植え込むことでもある。現代の「ニューファミリー」の挫折は、「男=父」と「女=母」が結託してこういう傾向を肥大化させてしまったことにあるのだろうと思えます。みずからの身体を「検閲」し「処罰」しようとする衝動は、女ほどラディカルではないにせよ、男だって持っている。これは、人間性の基礎であろうと思えます。腹が減ってきたかと「検閲」する。寒くなったか暑いか、痛いところはどこかと「検閲」する。人はそうやって生きている。
人はみずからの身体を処罰し消してゆくことによって、世界を祝福してゆく。世界を祝福することは、みずからの身体を処罰し消してゆくことにほかならない。自己=身体に対する幻滅を持っていなければ、世界を祝福してゆくことはできない。「処罰の衝動」は諸刃の剣です。
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かといって家父長制ならいいとも言えない。そういう制度が強化された国は、戦争ばかりしたがる。
現在の欧米諸国が今なお「戦争の論理」を否定できないのは、言語そのものがすでに男の論理に沿うかたちで成り立っているからだろう、と僕は思っている。欧米では、レディファーストの慣習と引き換えに、女の言葉が歴史的に抹殺されてしまっている。
もちろんイスラム諸国も、女を抑圧することの上に戦争の論理を成り立たせている。
そして日本列島では、「やまとことば」という女の言葉を温存しつつ家父長制度を強化させてきた。
明治から昭和にかけての戦争の時代は、武家社会だけのものであった家父長制度が国民生活の全体に浸透していった時代でもあった。
男中心の社会では、戦争の論理が幅を利かせる。
女が中心になると、「検閲」や「禁制」が厳しくなる。
「拒絶反応」の暴走。
これが、第二次世界大戦の日本において、男たちは戦争に出かけ、女たちが銃後の国民生活を守るという国のかたちになっていたのではないだろうか。
すなわち人間性の基礎は、「共生」を志向することではなく、他者に対する「拒絶反応」の上に成り立っているということを、われわれは思い知るべきなのではないだろうか。
他者と抱きしめ合うことの快楽は、「拒絶反応」の上に成り立っているのだ。
憎悪以上に深い他者に対する関心はない。他者に対する関心は、ほおっておくと、かならず憎悪(あるいは幻滅)にたどり着いてしまう。というか、関心とは憎悪(あるいは幻滅)の別名なのだ。関心とは、「拒絶反応(違和感)」を対象に向けることにほかならない。
人間は、憎悪(あるいは幻滅)それじたいを快楽に昇華してゆく装置を必要としている。
憎悪(あるいは幻滅)それじたいが愛着にならねばならない。「拒絶反応」それじたいが愛着になる関係がある。
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われわれは、他者を「承認」しない。違和感(拒絶反応)を持って見つめる。その違和感(拒絶反応)それじたいが他者に対する愛着でありときめきになる。
他者とは、自分ではない人間のことである。それ以上でも以下でもない。だからわれわれは他者を、自分のように愛することはできない。他者は、自分ではないのだ。
われわれは、自分を愛することを知らない。自分に幻滅している。われわれは、愛することを知らない。われわれは、他者もまた幻滅とともに見つめている。しかしその幻滅は、自分に対する幻滅、すなわち自分そのものが消えてゆく幻滅なのだ。われを忘れること、その解放感とともに他者を見つめているとき、その幻滅=違和感は、ときめきでもある。
われを忘れること、すなわち他者を拒絶しているわれを喪失するとき、他者は肯定される。そこに他者が存在していると認識すること、それじたいがときめきになっている。
ときめきとは、自己が消失する体験である。自己が承認される体験ではない。
認識することそれじたいのときめきによって、他者が肯定される。他者が美しいからでも、自己を承認してくれるからでもない。
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原初、家族は女と子供だけで構成されていた。そこに男=父が家族の一員として挿入されたことによって、女は、セックスによって安定的に拒絶反応を発動(排出)してゆく場を得た。
女は、ペニスやを受け入れつつ拒絶してゆく。
「入れて」と言ったくせに、ペニスが入ってきたとたん「いや、だめ」という。
男と女のセックスのかたちは、社会によって微妙に違うはずです。西洋の女があたりまえのようにしているフェラチオは、昔の日本にはなかった。
そこには、地理環境や歴史が作用している。で、そうした男と女の根源的な関係のかたちが、社会の構造をつくっていったのだろうと思えます。社会の構造がセックスの仕方を決めたというのは、考えられない。なぜなら社会が生まれる前に、すでに男と女はそれぞれの地域性を持ったセックスの仕方をしていたにちがいないのだから。
五万年前の北ヨーロッパネアンデルタールとアフリカのホモ・サピエンスとでは、セックスの仕方そのものが違ったはずです。
たとえば、まわりに肉食獣がうようよいるアフリカのホモ・サピエンスは、セックスであまり汗をかきたくなかった。汗の匂いで居場所を嗅ぎつけられてしまう。
一方ネアンデルタールは、寒さから逃れるために、セックスによって体温を上げようとした。だから、内容も回数も時間も、いろんな意味で、しつこいセックスの仕方をしていたのでしょう。そしてそのしつこさが、高度な共同体をつくってゆく原動力になった。
アフリカの国家建設がヨーロッパに比べて大きく遅れをとったのは、セックスの仕方や男と女の関係が比較的単純で明快だったことにもよるのかもしれない。男と女の確執が少なかった。
それに比べてヨーロッパでは、男は女のヒステリーに手を焼きつつしつこいセックスを挑んでゆく(あるいは付き合わされる)という、そうした確執のダイナミズムが国家建設のエネルギーになり、女の言葉が抹殺される結果を招いた。
社会の共同性が発達すると、女の言葉が奪われてゆく。
日本人は公共心がない、という。それだけ共同性がゆるやかな社会だったのでしょう。だから、女の言葉であるやまとことばが温存されてきた。あるいは、国家をつくる前にすでにやまとことばが完成されていたから、それにあわせた共同性しかつくれなかった。
そこで日本的なセックスのかたちの特徴はといえば、たぶん女が主導するかたちが、よその地域以上に濃いことにあるのではないかと思えます。
そのかたちの上に、現在のフーゾク産業のシステムが成り立っている。
古代の天皇家の婚姻は、ほとんどが姉と弟のような関係というか、年上女房なのです。最初の天皇であり神武天皇の母は、祖母の妹、すなわち父の乳母というか養育係をしていた女性になっている。一般庶民もおそらくそうだったのでしょう。姉が弟にセックスの手ほどきをしてゆく、これがこの国のセックス文化の原型らしい。そしてそれが、ゆるやかな共同性の社会の構造をつくっていった。
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