「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?34・もういちど雑感

先日読んだのエロ小説の一節です。年上のお姉さまに誘惑される若者の話です。
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ホテルに向かうタクシーの中で、映子はまた肩を抱いてきた。
浩はその白い首筋に顔を寄せ、思い切り息を吸った。
夕焼けの匂いがした。
品川の高台に建つホテルの部屋に入るとき、映子はちょっと怖い顔をしていた。
そうして中に入るなり、いきなり浩のズボンのファスナーに手をかけてきた。
夏だというのに浩はもう三日も風呂に入っていなかった。
それは困る。いっぱい汚れている。白い恥垢だって亀頭のふちにこびりついて、きっとものすごく臭い。
「だめです」
と言ったが、そうすればすべてが水の泡になってしまうようで、からだがこわばり、逃げられなかった。
まずは夕焼けのような甘いキスから始まると思ったのに・・・・・・浩はベッドに倒れこみ、呆然と天井を仰いだ。
むき出しにされたペニスは、そのやわらかい手のひらの中で、たちまち棒のように屹立していった。
生温かい息が亀頭に吹きかかってくるのがわかった。
次の瞬間、一気に根もと近くまで口膣粘膜に包まれていった。
そのフェラチオは、とても長い時間続いた。
映子は、ひたすら頭を上下して深くくわえ込んできた。
浩は、けんめいに射精してしまうのをこらえた。
こらえながら、ペニスをくわえ込む女の顔を盗み見た。
ようやくペニスを離して顔を上げた映子は、浩と目が合って、にっこりと笑った。
そのかたちのよい唇の端から唾液がこぼれ出ていた。
浩は、泣き出しそうな顔をして、また天井を仰いだ。
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許さない女が許している場面です。まあ、彼女がこんなことをするのはたんなる趣味じゃなく、あるわけがあったのだ、という話です。ああこういう許し方もあるよな、と思いました。
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この世の中には内田批判に興味がある人などほとんどいないのだろうし、僕のブログを見てくれている数少ない人の中にはひとりもいないのかもしれない。
いいかげんにやめにしたら、という声がどこかから聞こえてくるような気がします。
僕の友人は、僕と内田氏のあいだに立って困り果てているらしい。彼は内田氏のファンで、内田氏のように考えて生きてゆけたらと願っている。でも反対のことを言う僕だってまんざら嘘を言ってるとも思えない。彼はいつも内田氏のように考えて生きていきたいと願いつつ、けっきょくそんなふうには生きてこれなかった。僕のいうようなことには目をつぶって生きていきたいのに、どこかですでに気がついてしまっている。
もしかしたら彼のほうが僕よりずっとつらい生き方をしているのかもしれない、と思うことがある。
内田氏のような人間がのさばっている世の中が、いい世の中かどうか僕にはわからない。しかし、とにかく僕にとっては、目障りでしょうがない。こういう人が二流三流で頑張っているのなら、それはそれでほほえましいとも思うのだが、なんだか一流ぶってしゃしゃりで出てこられると、めちゃめちゃむかつく。
人間というのは、そんなものじゃないだろう、と思う。おめえの薄っぺらで低級な頭で決め付けられたかあないんだよ、と思う。
この人は、ようするに、なにがなんでも自己正当化して生きていきたいのでしょう。人間とは何かということも、この社会のあり方も、自分が正当であることと符合していなければならない。自分の正当性が証明されるような思想をこの社会に植え付けたいらしい。なにがなんでも自分は正当な人間であると自他ともに認められる存在であらねばならないという強迫観念があるらしい。この社会は、自分の正当性が認められるようなかたちで存在していなければならないと思っているらしい。一種のファシストです。
そして彼の場合、そんなふうに思っているからこそ、正当じゃないというポーズをとりたがる。そうして、いやいやあなたこそもっとも正当な人間です、とみんなに言わせようと煽動してくる。
こういう小ざかしく小ぎたない詐術が、ぼくは気に食わないのです。
なんだかんだといっても、内田氏は世の中の甘い汁を吸って生きているし、僕の友人はいつも半分しか吸えない生き方ばかりしている。
誰も内田氏ほどかっこつけた人間にはなりきれない。そうかんたんに自分の胸の底で疼いている気分をごまかしてしまえない。
内田氏はたぶん、多少の紆余曲折はあっても社会的にはうまく立ち回って生きてきたのでしょう。でも、個人的な世界での充実した体験をどれだけしているかというと、疑問です。他人と「社会的な関係」を結ぶのはあきれるほど上手だが、では彼がどれだけ「個人的な関係」において充実した体験をしてきたかといえば、未知数です。本人も、そこのところで自慢できるほどのカードはあんまりもっていないと自覚しているのかもしれない。
自分の秘書との関係や大学の教え子やサークルの仲間や知識人たちとの交流などは、しょせんは「社会的な関係」です。
個人的な関係とは、たとえば、女のパンティに必死にすがり付いてゆくとか、そういう愚かな行為に象徴される何かです。尊敬されたり愛されたりするのではなく、幻滅するほどの愚かさを「許される」体験です。そこにおいて、人間性の基礎としての「快楽」が発動する。
もし彼が大学の小使いさんか何かで、それなのに女子大生から愛を告白されたというのならおおいに尊敬もするが、マスコミに露出しまくっている教授がまわりからちやほやされることなんか、ちっともすごいと思わない。そんなの当たりまえじゃないですか。僕だってその立場なら、きっとちやほやされるでしょう。誰だってされるさ。世界でいちばんげすな人間でもきっとちやほやされる。
まあ、誰もが出世したいとか金が欲しいとか幸せになりたいとかみんなにちやほやされたいとか、いろいろ願いはあるのだろうが、一生に一度くらいは身も世もない恋がしてみたいとか、これで死んでもいいと思えるようなセックスがしてみたいとか、胸の底にはそういう疼きもあるじゃないですか。
僕が人間を考えるときはそこから出発するのであって、「他者の承認」がどうとか「愛」とか「自己意識」がどうとか「共生」がどうとか、そんなコケ脅かしの言葉で他人を脅迫してくる言説など、ほんとにくだらないと思う。ただのインポの論理じゃないか、と思う。