「ひとりでは生きてゆけないのも芸のうち」か?32・悪人正機説

内田樹氏を批判する人の多くは、社会学的な政策論争みたいなものを仕掛けてゆく。そんなとき第三者は、どっちもどっちだ、と思うしかない。
僕は、社会がどうなればいいのかとか人間はどう生きてゆけばいいのかということなどよくわからない。
人間とは何か、ということが気にかかるだけです。
そして、内田樹なんてただのあほじゃないか、と思う。
僕は、知識や教養という面で「自分の土俵」を持っていないから、つねに内田氏の土俵に上がっていって批判しているつもりです。自分の塹壕を捨てて敵陣で戦うのは、いっちゃなんだけど、けっこう大変ですよ。
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内田樹氏の新しいブログに、親鸞の「悪人正機説」に対する解釈が語られていました。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というあの有名なフレーズのことです。
内田氏は、こう言っています。悪人は、自分が他人や社会のせいでこうなってしまった、と考えている。それは、レヴィナスのいう他者に対する「始原の遅れ」を自覚していることを意味する。それに対して善人は、「自力」で善人でありえていると思い上がっている。だから、そんな善人でさえ「往生」ができるのなら、もっと根源的に「他力」の往生を願っている「悪人」ならなおのことできないはずはない、と。
「善人」と「悪人」をこんなステレオタイプなわけ方をしてしまうのは、頭が薄っぺらな証拠です。というか、人間を見くびっている。あなたの考えることは、卑しい。
内田氏が「他者に対する始原の遅れ」と言うとき、ラカンレヴィナスの、「私」という存在は「他者の欲望を欲望する」とか「他者の愛を愛する」というような言説のことが頭にあるのだろうが、とにかく「他人のせいでこうなった」と考えることは「始原の遅れ」とはちょっと違うのですよ。
「他者の欲望を欲望する」なんて、他者の欲望を自分の欲望に当てはめて類推しているだけのことだ。ショーウインドウのマネキンがはいているミニスカートを自分もはきたいと思うとき、「マネキンの欲望を欲望している」のですか。マネキンに「欲望」なんかあるのですか。
そのとき彼女は、マネキンのミニスカートを「素敵だ」と思っただけです。「自分もはきたい」と思うことは、「欲望」を模倣することではない。純粋に「姿」を模倣することであり、それは、「自分の欲望」なのです。自分と社会(時代)との関係から生まれてくる欲望なのです。
すべての悪人は「他人や社会のせいでこうなった」と思っているなんて、内田さん、あなたの考えることは程度が低すぎるんだよ。中学生のレベルなんだよ。
知識が中学生のレベルだと言っているのではないですよ。思考回路が中学生のレベルだと言っているのです。中学生の思考回路しか持っていないやつが大学教授の知識を持っていやがる。そこが怖いところです。中学生の思考回路しか持っていないから、その豊富な知識を駆使してかんたんにくだらない結論にたどり着いてしまう。
べつに、内田氏だけじゃないですけどね。世の中には、そういう人間がいくらでもいる。
本気で自分の罪を問うていったら、けっきょく自分のせいでこうなっただけだ、という結論に行き着いてしまうのですよ。他人のすることをまねしたのは「自分」なのだ、まねしなければならない必然性など何もなかったのだ、まねしない人間だっていくらでもいるのに、自分はまねしてしまった・・・・・・親鸞は、そういう煩悶を解決したかったのだ。そういう煩悶から救済にたどり着く道筋を模索していったのが「悪人正機説」でしょう。
中学生レベルの思考回路しか持っていない大学教授のおちゃらけた観念ゲームでわかることじゃないんだよ。
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内田氏がなぜ「他者の欲望を欲望する」という言説を「これいただき」と思うのかというと、自分の中にある他人の気持ちがかんたんにわかったつもりになる傾向や、すぐ他人の気持をもてあそぼうとする傾向を正当化できるからです、たぶん。ようするに、自分を変えたくないのですね。ここが、「自己意識」にこだわる戦後世代(60歳くらいから40前後までの世代)のえげつないところであり、アキレス腱でもある。しかし、意識は一瞬一瞬生起するはたらきです。昨日の自分と今日の自分が同じであらねばならないわけなど何もない。生まれ変わったつもりでラカンレヴィナスを問い直してみる、疑ってみるという根性がないのですね。根性というより、誠実さというか、率直さというか。
僕もいちおう戦後世代だから誠実でも率直でもないけど、ラカンだろうとレヴィナスだろうとソシュールだろうと内田樹だろうと、ひとまず疑いますよ。哲学するとはそういうことだろうし、かんたんに「これいただき」なんて思わない。だいいち僕のようなだめ人間は、いつも生まれ変わらなければと思って生きている。
「他者に対する始原の遅れ」とは、他者の「心」に影響を受けるとかということではなく、「すでに他者は存在している」と気づくこと、それだけのことです。「自分」という意識は「他者」に気づいたあとにしか発生しない。影響を受けるとか受けないとか、そういう問題じゃない。意識は、一瞬一瞬生起する。飴のように一本の線となって過去から未来へとつながっているのではない。たったいま生起した「私」という意識は、すでに他者の存在に気づいてしまっている。「私」はすべての他者に遅れてこの世界にさまよいこんだ存在である、という認識。「私」のあいまいさに比べて「他者」は完璧な人間のかたちをしているという驚き。だから、ミニスカートが流行する。人間の模倣行動の激しさは、悪人だろうと善人だろうと関係ないことです。誰もが模倣行動の衝動を抱えて生きている。「共同体」は、そこから生まれてきた。まあ、こんなことをつついてゆけばきりがないですけどね。
とにかく「善人」だろうと「悪人」だろうと、「他力(阿弥陀如来による救い)」を願う人は願うし、願わない人は願わない。世の中の人間が、そう安直に分けてしまえるものか。自分だけが「複雑」だと思っていやがる。
誰の中にも「自力」をたのむ心と「他力」にすがる心が錯綜している。
「善人」の中にも、自分が善人でありえているのは皆さんのおかげです、私の心の中など邪悪なものがいっぱい渦巻いている、たまたま悪事をはたらかないですんでいるだけです、と考えている人はいくらでもいるでしょう。
「悪人」のすべてが「俺が悪事をはたらくのは社会や他人のせいだ」と思っているなんて、親鸞はぜったいそんな安っぽいことは考えていなかった。ただ、そういう「状況」から悪事が生まれてくる、と考えていただけでしょう。誰のせいでもないと苦しんでいる「悪人」はいくらでもいたはずだし、そういう人が救済される思想の道筋をつけたかった。そうやって苦しんでいる人間から順番に救われてゆくべきだと思っていたのでしょう。
「いわんや悪人をや」は、たぶんそういう思想の表現なのだ。
悪人だって人間ですよ。悪人は人間のくずだと決め付けていやがる。悪人はみんな「自分は他人や社会のせいでこうなってしまった」と嘆くような、そんなていどの低い人間ばかりなのか。そんな低次元のところで嘆いているだけなのか。そうはいかない。良きにつけ悪しきにつけ、社会も他人も恨んでいない悪人だっていくらでもいる。悪人なんてそんな恨みがましいことばかり考えている人種さ、と決め付けていやがる。あなたより心の清らかな悪人はいくらでもいるんだぜ。とくに中世は「悪人」だらけの世の中だったからこそ、真摯に煩悶している悪人もたくさんいたのだ。
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僕の娘や息子は、僕のようなしょうもない父親に育てられてほんとうに気の毒だ、どんなに僕を恨んでもそれは正当だ、と思っている。
でも、彼らは、少しも僕を恨んでいないらしい。
どうやら人間は、自分に与えられた状況を受け入れ肯定してゆく心のはたらきを持っているらしい。だからとしをとっても生きてゆけるのだし、死んでゆくこともできる。
同じように「悪人」だって、他人や社会のせいでこうなったと思っている人間ばかりじゃないはずだし、自分が悪人だとも思っていないあつかましい人間もいっぱいいる。
とにかくそうやって「善人」なんてこんなものだとか、「悪人」なんてみなこうだとか、そんな人をなめたようなことばかり言うもんじゃない。
まったく、胸くそわるい。
だいたい、誰が「善人」で誰が「悪人」かなんて、そうかんたんには言えないでしょう。とくに中世のような混沌とした時代なら、なおのことです。人びとは、そうかんたんに誰は善人で誰は悪人だなんていわなかったはずですよ。自分の家族や親戚や友だちの中に、泥棒のひとりやふたりはみんないたにちがいない。
その人の人格に「善人」とか「悪人」というレッテルを貼りたがるようになったのは、江戸時代以降のことです。
中世の人は、そうむやみに他人の人格など忖度しなかった。
この場合の「善人」と「悪人」とは、人を殺したことがあるかどうかで分けられている、という説もあるが、きっとそうなのだろうと思います。
だから弟子のひとりが、悪人が往生できるのなら好きなだけ人を殺してもかまわないということですか、と親鸞に聞き返した。
つまり親鸞が問題にした「善と悪」というのは、内田氏の言うようなのうてんきなものではなく、もっと切羽詰ったものだった、ということです。
僕なんかと違っていろんなえらい坊さんと友達づきあいしたり対談したりしている立場なのに、どうしてそのていどの薄っぺらな解釈しかできないのか、と思う。あほじゃないのか、と思う。
そして親鸞は、その人がなんと思おうと、人を殺してしまうのはその人の「自力」のはからいだけではすまないいろんな契機や因縁があるのだ、と言っている。「悪人」は、自分の犯した罪に身悶えして苦しむ体験をする、それが阿弥陀如来誓願に気づく契機になる。悪人であろうとあるまいと、そういう体験によって人は「他力(阿弥陀如来誓願)」に気づかされるのだ、と言う。
それに対して「ひとりでは生きられないのも芸のうち」で内田氏はこう言う。「私は自分の弱さや醜さをくまなく観察して熟知しているが、気にしない。うまく折り合って共生している。そうやって自分を愛し、自分を愛するように他人を愛している」と。
こんなことを言っている人ですからね。その人の語る「悪人正機説」の解釈なんてこのていどのものだ、ということです。
「自分の弱さや醜さ」に気づいているのなら、身悶えしろよ、という話ですよ。平気でいられるということは、気づいていないも同じなのです。平気でいられるていどの「弱さや醜さ」しか持っていないつもりらしい。
僕は、自分に幻滅していない人間は虫が好かない。人間は自分に幻滅するようにできている、と思っている。自分に幻滅しているからこそ、世界が輝いて見えるのだ。
親鸞がみずからを「愚禿(ぐとく)」といい、妻帯して出家しなかったのは、人間の煩悩にまみれて自分にうんざりするという体験をしなければ「他力」への道は開けないという思いもあったのかもしれない。そうして、「<自力作善>の人には阿弥陀如来誓願、すなわち<他力>に気づく契機はない」と言っている。
内田氏にとっては、レヴィナスだろうと親鸞だろうと、自分を正当化するための道具だというくらいにしか思っていないらしい。なんでもかんでも自分の都合のいいように解釈してしまう。他人を見くびって、自分を正当化することばかり考えていやがる。絵に書いたような「自力作善」の人間のくせして、誰よりも親鸞の言う「他力」を生きている人間のつもりでいやがる。
そうしてそのブログの最後は、俺なんかなんにも考えないでも自然な自分の人間性だけで親鸞の言うことの本質に気づいてしまうんだもんね、といいたげな書き方で締めくくっている。
知識オタクが、かっこつけて臭い芝居してんじゃないよ。
この人はいつも、「私は勉強なんか何にもしていませんよ」というポーズをすぐとりたがる。勉強していないんだったら、教え子の女子大生とあやまちのひとつやふたつはして見せろよ、ちゅうの。そんな度胸も情熱もときめきも愚かさもないくせに、気取ったことほざいてんじゃないよ。
内田さん、大学教授が、愚かな人間の領分まで取り上げちゃだめですよ。それは、フェアじゃない。