日本人がみずからのアイデンティティを確かめようとするならもっと縄文時代のことを考えるべきであるように、ヨーロッパ人もまた、彼らのアイデンティティの根源がネアンデルタールにあることに気づくべきであろう、と僕は考えています。
ヨーロッパの女のヒステリーやレディファーストの慣習は、ネアンデルタールから始まっている。彼らのそうした観念のかたちも白い肌も、未熟な文明しか持たない原始人がけんめいに氷河期の北ヨーロッパを生き抜いてきたことの成果なのだ。
ネアンデルタールの女たちは、五人子供を産んでも生き残るのは一人か二人という条件で産みつづけていった。それはまさに、狂気と紙一重の行為であったことでしょう。
内田樹氏のように「死者とコミュニケーションを持つのが人間性の基礎である」などとたわけたことを言っていたら、たちまち発狂してしまうだろうという世界です。
ネアンデルタールは、「家族」という単位を持たず、集団で子供を育てていた。
暖かい気候の下でゆっくりと成長してゆくネオテニー形質であるアフリカのホモ・サピエンスの子供と違い、ネアンデルタールの子供は、極寒の季節を生き急ぐように成長してゆく。そして彼らの母親はつぎつぎに子供を産んでゆくから、いつまでもかまってもらえなかった。
子供を猫かわいがりせずに突き放して育てようとするヨーロッパ流の子育ては、ネアンデルタールから始まっている。
ネアンデルタールの群れでは、子供たちは、子供たちだけの社会をつくっていった。それは、母親にかまってもらえないということもあっただろうが、同時に、母親のヒステリーから避難するという意味もあったにちがいない。
ヨーロッパの男たちは、早い段階で母親から自立するが、同時に母=女に対する怖れをいつまでも引きずってゆく。おそらくそれが、レディファーストの慣習になっているのだろうと思えます。
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しかし怖れているのは、子供たちだけではなかった。
母親の方もまた、子供を育てることを怖れていた。すぐに死んでしまうかもしれない子供を、なかば絶望しながら育てていた。彼女にとって子供は、すぐ死んでしまうかもしれないからこそなお愛さずにいられないし、すぐ死んでしまうかもしれないからこそ愛してはならない対象でもあった。
たぶんヨーロッパの母親は、今なおそういう二律背反の中で子供と向き合っている。
彼女らは、根源において子供を怖れ拒絶している。それがなければ、子供を突き放して自立をうながすというヨーロッパ流の子育てはできない。
出産するとは、体の中の異物を拒絶してゆく行為です。われわれの生は、「拒絶反応」の上に成り立っている。
原初の人類は、みずからのこの「拒絶反応」を罰するかたちで不安定な直立二足歩行をはじめた。みずからを処罰することが人間性の基礎であり、そこにおいて「快楽」が生まれる。たとえば、他者の身体とのあいだに「空間」をつくろうとするのはひとつの他者に対する「拒絶反応」であるが、われわれはみずからのその反応を処罰するかたちで他者と抱きしめ合っている。
アジアの母親は、自分の中の他者を拒絶しようとする衝動を罰するようにして子供を抱きしめてゆく。
しかしヨーロッパの母親は、そうやって自分を罰すること(子供を抱きしめること、愛すること)が禁じられているため、ときに拒絶の衝動が暴走してしまう。
ヒステリーとは、他者を拒絶しようとする衝動が暴走してしまうことなのではないだろうか。
ネアンデルタール(=ヨーロッパ)の子供は、母親のそういう不安定な気持ちのもとで育てられるから、早くから自立するほかなかったし、大人になっても母親に対する怖れを引きずってゆくことになる。
内田氏は、人間は他者の「承認」を得ることによってみずからのアイデンティティを確認してゆくと言うが、そうじゃない。他者を拒絶し、他者から「拒絶」されていることを受け入れることによって自立してゆくのだ。アイデンティを確認するとは、他者から隔絶して存在していることを自覚することなのではないだろうか。
われわれは誰からも「承認」されていないし、誰も「承認」していない。
人間は、根源的に他者を「拒絶」している。
「拒絶」し合っているから、街の雑踏の中でもぶつかり合わずに歩いてゆけるのだ。ぶつかりそうになって思わずよけるのは、他者を「拒絶」することだ。
われわれは、生きものとして空腹や息苦しさを「拒絶」している。飯を食うことや息をすることは、そういう鬱陶しい身体を「処罰」することです。
この生は、みずからの身体を「拒絶」し「処罰」してゆくことの上に成り立っている。
それは、「自殺」することではない。飯を食い息をすること、抱きしめあってセックスをすること、そうやって身体に対する意識を消してゆくことが「身体を拒絶=処罰する」ことであり、生きるいとなみなのだ。
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100人から150人で定住生活をしていたネアンデルタールの群れにおいては、誰もが顔見知りだった。氷河期の寒さの下では、みんなで体を寄せ合っていないと生きてゆけなかった。
しかし平均寿命が30数年で、乳幼児の死亡率がとても高いという条件の暮らしにあって、死は日常的な出来事だった。人はつぎつぎに生まれ、つぎつぎに死んでいった。つまり彼らは、深く愛し合うほかない環境で、愛し合ってはならない環境を生きていたのだ。あまり愛しすぎると、その人の死が耐えられないものになってしまう。
彼らは、男たちが狩に出かけて居留地にいないとき以外は毎晩のようにセックスしていたのだろうが、パートナーがいつも同じという関係はつくらなかった。誰もが明日も生きてあることがわからない身であり、その関係をつくることは不可能だった。また、深く愛着することは、深く悲しむことと同義だった。彼らは、他者に深く愛着しつつ、愛着することを断念していた。
ヒステリーは、そういう二律背反を生きるところから生まれてくるのであり、ネアンデルタールの女たちは、ことさらそうした「愛着」と「拒絶」の振幅が大きかった。
われわれは、根源的に他者を拒絶している。「拒絶する」というかたちで他者を愛する。抱きしめあうことは、「拒絶する」ことである。そのとき意識は、「拒絶する」ほどに他者の身体ばかりをありありと感じている。抱きしめあうことによって、「拒絶」の衝動が消費される。
ヒステリーは、「拒絶」の衝動です。離れているより抱きしめあったほうがよりダイナミックに拒絶の衝動が消費される。拒絶して体の熱を上げることが、抱きしめあうという行為だ。それは、単純にみずからの身体の充足(安らぎ)をめざしているのではない。身体の消失をめざしている。
氷河期の北ヨーロッパで寒さに震えながら生きていたネアンデルタールは、体の熱を上げて体のことを忘れてしまおうとした。そこから、ヨーロッパ女のヒステリーの伝統が始まっている。
男たちが狩に夢中になって体を熱くしているあいだ、洞窟で待っている女たちはどうやって体の熱を上げることができただろう。もうヒステリーになるしかなかったし、ヒステリーになるほかない「嘆き」を深く豊かに抱えて生きていたのだ。
ネアンデルタール人の正体」という本で、ある学者が、「ネアンデルタールはあまり知能が高くなかったから、死者の埋葬に際しても、悲しいようなそうでもないようなとてもあいまいな表情をしていたのだろう」というようなことを言っています。こういうくだらないことをいう学者のあほさ加減というのは、まったくうんざりさせられる。知能が低いのは、そういう安っぽい分析しかできないおめえの脳みそなんだよ。「埋葬」という行為に際して、人類の歴史上ネアンデルタールほど激しく切なく泣き暮れた者たちはいなかったのだ。だからこそ「埋葬」という行為が生まれてきたのであり、だからこそヨーロッパ女はヒステリックなのだ。
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