僕の知り合いの男の愛人は、まるで教養のない女で、さっぱり話が通じないし、おとなしい女でもあるのだが、スケベな話をするとけっこう乗ってきて、ときにはっとするような気のきいたことも言うのだそうです。
ふだんの暮らしでは何もかもとろいくせに、男に抱かれたときの反応だけは鋭くて、ちょっと怖くなるくらいなのだとか。
フェラチオなんかなんにも技巧的ではないのだが、妙に迫力があるという。
彼女は、何度も会社を首になって、わたしのような役立たずの女はこの世に存在する資格がないと思って生きてきたのだとか。
彼女は。教養的な言葉は持っていないが、セックスに関する言葉=感慨は豊富に持っている。彼女が言うには、オルガスムスのあとは、体じゅうにきれいな水が流れているような心地がするのだそうです。
そんなとき僕の知り合いの男は、このばか女のどこにそんなことを言うセンスがあるのか、と不思議な気分になる。
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ベッドの上の彼女は、すぐに「お願い、もう入れて」と言う。たいていの女がそんなせりふは口にするものだが、彼女の口ぶりには、ことのほかせつなさがこもっている、と彼は言う。それは、男にねだっているというより、ただそう言って自分のせつなさを表現しているだけのように聞こえるのだとか。
彼女の愛液は、とても粘り気が強く、しかも量が多い。だから、膣の中がいったん濡れてしまうと、とてもむず痒くていたたまれなくなるらしい。
ほんとかどうかは知りません。彼が勝手にそうだろうと想像しているだけです。
ただ、「いたたまれなくなる」という思いだけは、ほんとうらしい。
生きてあることそれじたいの「いたたまれなさ」というのがある。
二本の足で立っていることは、とても不安定で居心地の悪いことです。生きものとしてもそれは、胸・腹・性器などの急所を外にさらしている姿勢なのだから、われわれは根源的に存在そのものの「いたたまれなさ」を負っている。
その「いたたまれなさ」から急きたてられるようにして人類は歩き始めた。
彼女が若いころから「やらせ女」だったのは、そういう「いたたまれなさ」をひといちばい抱えていたからでしょう。教養も金もなく、おしゃべりでもなかった彼女は、そういうかたちでしか「いたたまれなさ」を解消するすべがなかった。
彼と一緒に道を歩いていていきなりキスをされたりおっぱいを触られたりするのが、彼女は好きなのだそうです。つまり、そんなとき、たがいに「いたたまれなさ」を抱えて生きているというそこはかとない連帯感を感じるからでしょうか。
一度、夜の丸の内を歩いているとき、ビルビルのあいだの狭いところに彼女を引っぱってゆき、立ったままセックスをしたことがあるのだとか。
真夏だったから体中から汗を吹き出させた彼女は、終わったあと、はにかんだ顔で「またしたいわ」と言った。
彼らは、ホテルのエレベーターの中で、抱きしめ合ってキスをする。前戯はもう、そこからはじまっている。
彼女が「もう入れて」というとき、すでにオルガスムスに落ちてゆく用意が整っていることを意味する。濡れてきたヴァギナは、ふだんよりなお鬱陶しいものになる。そうしてペニスを迎え入れることによって、まるで消えてしまったような心地になる。その落差のダイナミズムが快感になり、オルガスムスへとたどり着く。
「五分でイク」と彼は言っていた。入れたとたんイってしまうこともある。
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生きてあることの「いたたまれなさ」は、女のほうがよく知っている。
しかしそれをどういうかたちで解消してゆくかは、人それぞれです。
男の庇護のもとで安定した暮らしをしようとするのも、「いたたまれなさ」を抱えていればこそでしょう。男社会を検閲せずにいられないフェミニストだって、生きてあることそれじたいに苛立っている。
以前渡辺淳一氏が、クリトリス感覚だけでヴァギナの快感を知らない女はペニスに対する悪意を持っている、といっていたが、そういう問題ではないような気がします。ヴァギナの快感こそ、ペニスに対する悪意がなければ生まれてこないのではないでしょうか。
そのとき彼女は、ペニスという凶悪なものでヴァギナを処罰している。ヴァギナそのものに快感があるとは、僕は思わない。暴れまわるペニスばかり感じてヴァギナのことを忘れているのが快感なのではないだろうか。ペニスがただ愛しいだけなら、抱きすくめてじっとしていればいいだけです。言い換えれば、ヴァギナを処罰してくれる凶悪なものだから愛しいのでしょう。
女は、ペニスを憎みつつ愛している。だからそれは、いつでもただ憎むだけの対象になってしまい得る。
女にとってのヴァギナはおそらく誰にとってもいたたまれないカオスであり、それをクリトリスで解消しようとペニスで解消しようと人それぞれだろうし、そのへんの仕組みは渡辺氏が言うほど単純なものではないような気がする。どちらにしても、ヴァギナのいたたまれなさにたいする忘れ方の問題なのではないだろうか。クリトリスが気持いいというより、クリトリスに意識が集中することによって、ヴァギナの存在が消えてゆくことが気持いいのではないだろうか。そうやってからだが軽くなってゆくような気持よさがあるのではないだろうか。それほどに女は、自分の体を鉛のように感じる体験をしているのではないだろうか。
女が抱くペニスに対する執着は、悪意の上に成り立っている。
ヴァギナなんか、ペニスが暴れまわらないとペニスの感触を感じないほど鈍感なところなのではないだろうか。女にとってヴァギナは、その存在を感じないほうが心地よいのだ、たぶん。
したがって、やさしいペニスでは癒されない。硬くて凶悪な方がいいのだ。
やらせ女に「そんなに自分を粗末にするものじゃない」などと説教しても意味がない。粗末にしないと彼女は救われないのだ。いや、世間の女性が結婚して子供を産むことだって、負けず劣らず自分を粗末にすることでしょう。
人が老いてゆくことに耐えられるのは、この生が「自己処罰」の上に成り立っているからだ。
オルガスムスとは、自分を粗末にする(=処罰する)ことの醍醐味なのだ。
自分を意識することの鬱陶しさ、というのがある。そういうことを女は深く感じているし、男は逆に、その自己意識でアイデンティティを持とうとする。
フェミニズムは、男のそういう観念傾向に対する挑戦であるのでしょう。
欧米のフェミニストが「女は自分を語る言葉を奪われている」というときの「自分」とは、男のような「自分を見つめる自分」ではなく、「世界を見つめてわれを忘れている自分」なのだ。ペニスばかりを感じて、みずからの鬱陶しいヴァギナのことを忘れている「自分」なのだ。欧米には、世界を分析する男の言葉だけがあって、世界に対する感慨を表現しようとする女の言葉がない。
内田樹氏は、「自分を愛することのできる人間が他者を愛することもできるのだ」というが、僕は、ぜんぜんそうは思わない。そうやって自分に執着することを正当化しているだけじゃないか。内田氏の思想に「他者」は存在しない。薄汚い自己愛が渦巻いているだけです。世界は、みずからに深く幻滅しているものによって祝福されるのだ。
女は、自己処罰する。女は、みずからのヴァギナの存在を鬱陶しがっている。そういう傾向は、きっと、レズビアンの「おなべ」だって、どんなとんちんかんなフェミニストだって持っているにちがいない。
存在することの「いたたまれなさ」こそ、じつは男であろうと女であろうと等しく背負わされている人間性の基礎であると僕は思っている。
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