「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?27・武道の極意

ジェンダーブラインドネス」・・・・・・女にとって自分は「謎」である、とはどういうことなのか、ということが内田樹氏はよくわかっていない。
内田氏にとっては、女もまた内田氏と同様に自分を解き明かそうとする薄汚いスケベ根性で生きていると思っている。「謎」が「謎」でなくなる理路があると思っている。そんなものがあるなら「謎」ではないのだ。
内田氏にとっての「自分」が「自分という意識を持っている対自的な自分」であるのなら、女にとっての「自分」は「自分という意識を持たない即自的な自分」なのです。それを「自分」としているから、永遠に「謎」であるほかないのでしょう。
そこで内田氏は、フロイトも示すことができなかったその答えを、俺が説明してやるという。まったく、この脳みそが薄っぺらな学者は、人間は誰もが自分と同じように「自己意識」に執着して生きていると思っていやがる。内田さん、たいていの人間は、あなたほどスケベったらしく「自己意識」に執着して生きているわけではないのですよ。
誰もが「即自的な自分」というけっして解き明かすことのできない「謎」を抱えているのですよ。そしてその「即自的な自分」でわれわれはセックスをし、スポーツをし、さらにはたとえば歩くとかコップを取るとかまな板の上のねぎを刻むとかの、そうした日常生活のほとんどの無意識的な行為をおこなっているのです。
「自分という意識を持たない即自的な自分」によって身体はどう動くのか、そこのところを語れなかったら、どんな身体論もただ観念的なだけです。
女は、みずからの身体を支配しようとする衝動が強い。しかしだからこそ、そんな自分を「処罰」して「即自的な自分」になりきってしまうこともできる。そうやって彼女らは、男よりもずっと深いセックスの快楽を汲み上げている。
バレエや日本舞踊から社交ダンスやストリートダンスまで、「舞踊」というカテゴリーにおいては、女ならではの美しく優雅な動きが表現される。基本的に舞踊においては「身体能力」の心配をしないで「即自的な自分」だけで動いてゆけるからでしょう。しかし、スポーツの動きは、多くの部分が「身体能力」の上に成り立っている。そういう身体能力を気にしながら動いているから、スポーツのときの女の動きはどうしてもぎこちなくなってしまう。ダンスであれほどしなやかに動けるなら、スポーツでももっと自由に動けるだろうと思うが、スポーツは身体能力の上に成り立っているからそうはいかない。逆にいえば、スポーツにおいても、身体能力の心配(つまり身体そのもの)から自由になっているときにしなやかに素早く動くことができるのです。
スポーツであれダンスであれ、その動きのしなやかさは、「身体=自己」に対する意識ではなく、「空間=世界」に対する意識の上に成り立っている。意識が「身体=自己」を忘れて「空間=世界」に憑依してしまうこと、それがスポーツやダンスの醍醐味であり、女のオルガスムスであろうと思えます。
「運動神経」とは、身体能力のことではなく、「身体=自己」のことを忘れて「空間=世界」に憑依してゆく能力のことです。
というわけで、内田氏によるあきれるほど薄っぺらで観念的な武道の身体論について、考えてみます。
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「ひとりでは生きられないのも芸のうち」の中で内田氏が、「敵をつくらないテクニック」という武道の神髄について語っています。
まったく、くだらないことほざきやがって、というのが正直な感想です。
いや、僕は、武道の心得なんか何もないですよ。あまり興味もない。でも、身体についてのことなら「直立二足歩行」のこととともにたっぷり考えてきたし、運動神経なら、たぶん内田氏より僕の方がずっと上です。
運動神経の鈍い人は、体を動かすことは自分の意志(=対自的な自分)で体を支配することだと思っている。自分の意志で動かそうとするから、動きが鈍い。体なんて、勝手に動くものです。そのとき「意識」は、世界に「反応」しているだけです。体のことなんか、忘れてしまっている。忘れて「即自的な自分」になりきっているときに、素早くたしかに動く。
火事場のばか力、という。どこまで体のことを忘れられるか。どこまでやけくそになれるか。どこまで観念的対自的な自分を捨てて「無意識的即自的な自分」になりきれるか、そこが勝負です。
まあこういうことは、「他者を愛している自分」「愛されている自分」をまさぐる自己意識が命の内田氏には、わかるまい。
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「敵をつくらないこと」、これが武道の極意なのだそうです。
そして内田氏はこれを、たんなる精神的な訓話ではなく、「純粋にテクニカルなことである」という。
身体は、無数の原子で構成されている。気持がリラックスしているとき、原子は揺れ動いているのに対して、緊張しているときには固まって動かなくなっている。だから、リラックスしなければならない。そして相手もリラックスしているとき、両者は一体化して、より素早くたしかな運動体になる。揺れ動く原子の量が増えれば増えるほど、運動はすばやく確かになるというのは、生物物理学の法則なのだそうです。相手もリラックスさせて一体化し、原子の絶対量を多くすることこそ、武道の極意である。だから、敵をつくらない、というわけです。
運動神経の鈍いやつが、みずからの観念世界に居直りながらでっち上げたへりくつです。
相手もリラックスしていたら、それだけやっつけられる可能性も高くなる。あるいは、永久に勝負はつかない。武道は、社交ダンスじゃない。やるかやられるかの真剣勝負でしょう。
ふたりとも完璧にリラックスしていたら、まちがいなく強い方が勝つ。そんな最初から決まりきっている状態をつくって戦うのが、武道の極意なのですか。あほらしい。勝負のあやというものがあって、強いから勝つとはかぎらない。それがあるから戦ってみるのでしょう。
相手を嫌ったり敵だと強く意識しているときほど体が固まってしまう。戦う相手がいることをよろこべ、感謝しろ。そのときこそ身体の「反応」は、より素早くたしかになる。それが「敵をつくらない」ということではないのですか。
ひとりで体を動かすより、相手と向き合っているときのほうが、素早くたしかな動きになる。とうぜんです。内田氏はそれを、両者が一体化して揺れ動く原子の量が増えたからだというが、そんなことじゃない。体の動きは、自分の意志で動かすよりも、相手の動きに「反応」するだけで体のことを忘れてしまっているときの方が素早くたしかになるに決まっている。そのときそれだけ自分の体に対する意識が薄くなっているからであり、体のことを忘れているときのほうが体は素早くスムーズに動くのです。
われわれは、他者に気づいているときにはじめて自分を忘れることができる。すなわち「自分という意識を持たない即自的な自分」になることができる。自分ひとりだけだと、自分という対自的な意識がついてまわって、どうしても素早くたしかな動きができない。
べつにふたりが同じ動きをしているのではないのですよ。まったく、漫画みたいなことをほざきやがって。運動神経の鈍いやつにかぎって、そういう妄想を描きたがる。体がスムーズに動くということは、体を支配することではない。体が勝手に動くということです。われわれの身体は、孤立して存在している。他者と一体化することなんか、誰にもできない。他者と抱きしめ合うことは、一体化することではない。自分の体が消えて、相手の体ばかりを感じることです。
セックスの醍醐味は、みずからの身体が孤立して存在している事実、すなわちけっして一体化することはできないという絶望の上にもたらされる。一体化して原始の量が二倍になるなんて、インポ的論理です。運動神経の鈍いやつのたわごとです。
一体化してしまったら、他者を他者として認識することができないじゃないですか。こんなこと、中学生でもわかる道理です。だいたい内田氏の「他者論」は、いつだって他者を喪失したたんなる「独我論」にすぎないのですよ。「自己意識」の砦に閉じこもって、そこから一歩も出ることができていない。
攻撃するがわと交わすがわは、それぞれ性格の違う動きをしているのです。自分の体が動くための原子の量は、けっして増えない。相手と一体化してすばやく動くのではない。「反応」してすばやく動くだけのこと。ちゃんと反応できるほどに、体のすみずみまで原子が揺れ動いているか、ということでしょう。
一体化してしまって他者を他者として認識しない武道なんて、いったいどれほどの存在理由があるのか。内田氏のごときインポ的運動オンチに、武道の何がわかるものか。
たとえば、目の前にごみのような何かが飛んできて思わずよけた、という体験は誰にもあるはずです。そのとき、考えるよりも早く体が動いていた。体が動いてから、飛んできたものに気づいた。
それはべつに「原子」の量が増えたからじゃない。体のことなんか何も考えていない状態で体じゅうの原子が揺れ動いていたから、素早く動いただけのことでしょう。飛んできたごみと一体化してダンスしたわけじゃない。
相手と「一体化」することなんか、誰にもできない。そんな漫画みたいなことをいっちゃいけない。一体化していると思うナルシズムがあるだけのこと。自分の体は、自分の体が持っている原子の量だけでしか動かない。
内田氏は、みずからの存在の「根源的疎外」というものを体験したことがないのでしょう。他者のことはわからないから愛することができるのだとかなんとか口先だけでかっこつけたことをほざいているが、その「わからない」ということを骨身にしみて体験したことがないのですよ。だから「一体化する」などという間の抜けた言葉を平気で吐くことができる。
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「敵をつくらない」とは、「防御しない」ということです。
これが、この国の伝統です。太平洋戦争の戦い方しかり、日本サッカーのディフェンスのもろさしかりです。
なぜ防御しないのか。
防御する体のことなんか忘れてしまうことが極意だからでしょう。体が消えてしまえば、防御という意識は成り立たない。
合気道なんか、まさに体を消去するテクニックです。相手がぶつかってきたら、よける必要も逃げる必要もない、タイミングよく自分から倒れてしまえばいい。そうすれば相手は勝手につんのめって転がってしまう。防御はしない。相手がやっつけに来たら、やっつけられてしまえ。それが、結果的に相手を倒す方法である。まあ、そんなようなことでしょう。
リラックスするとは、「体が消える」ということです。したがって相手と一体化することなんか、論理的に成り立たない。
この国の文化は、身体が消えてゆくことの官能が止揚されている。
理由はいろいろあるのだけれど、たとえばこの国の国土はもともと平原はすべて湿地帯で、古代までほとんどの人が山間地で暮らしていたために、「走る」という文化が育たなかった。走ることのできるズボンと、走れない着物の違い。
そういうわけで、この国では、「歩く文化」が発達した。走ることは、意志によって体を支配してゆく行為です、それに対して歩くことは、歩いている体のことは忘れて、まわりの風景を眺めて楽しむ行為です。
体のことを忘れてしまうのが、直立二足歩行の快楽です。
だから、「体が消えてゆく」という感覚が、深く文化にしみている。
また、地平線の向こうから見知らぬ「異人」がやってくる大陸における他者とのコミュニケーションの基本は、「防御」しつつ「攻撃しない」という身振りを見せることです。そういう「駆け引き」の上にコミュニケーションが成り立っている。
しかしそうした「異人」のやってこない海に囲まれたこの島国では、ひたすら警戒しない駆け引きしないことが、客をもてなす作法になっていった。
自分を捨ててもてなすことの美徳が止揚されていった。
そういう文化の上に、「体を消す」という武道のかたちが洗練されていった。
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内田氏は、次のようにいう。
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武道的な身体運用ができる人間は身を修め、家を済し、国を治め、天下を平らげることができると古来信じられてきた。
それが、戦国時代に武道がプロモーション・システムとして採用されてきた理由である。
戦場での殺傷技術に優れた人間には政治的統治能力があるとみなされたのには共同主観的には合理的理由がある。
それは他者の身体と感応して、巨大な「共身体」を構築する能力が戦場における殺傷能力と同根のものであることについての社会的合意があったからである。
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何いってるんだか。
武道が武士の就職活動の「プロモーション・システム」として採用されてきたのは、武道に長けた人間は「自分を消す」ことをよく知っているからです。つまり「滅私奉公」というやつです。武人は、そういう「忠誠心」が強く、裏切るということをしない。支配者にとってこのメンタリティは貴重です。殺傷技術があって忠誠心もあるなら、そりゃあ家来に採用したくなるでしょう。「国を治め、天下を平らげる」能力も野心もない人種であることの証明として、武道の心得が求められただけのことです。
現在だって、そういう働き蜂として体育会系であることを求める会社は少なくない。
国を治めているのは、いつだって文人であり官僚じゃないですか。
優秀な文人は、けっしてプロモーション活動をしない。なぜなら「身を修め、家を済し、国を治め、国家を平らげることができると古来から信じられてきたから」、存在そのものにおいて裏切る可能性を持っている。そういう意味で、支配者にとってはもっとも脅威であると同時に、もっとも味方にしたい相手でもあった。
三国志で「諸葛孔明」が三顧の礼を持って蜀の劉備に迎えられたのが、その典型です。
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「他者の身体と感応して巨大な<共身体>を構築する能力」なんて、運動神経の鈍いやつのただのいいわけであり、おとぎ話に過ぎない。下手なやつにかぎって「勝ち負けなんかどうでもいいじゃない、みんなで楽しもうよ」といいたがる。それは「巨大な共身体」を妄想しているからです。
自分の体を支配することにこだわってばかりいるから、そんな妄想がふくらむのだ。
みずからの身体を動かすよろこびなどというものはない、みずからの身体が消えてしまう瞬間のときめきがあるだけです。それは、「他者の身体に深く気づく」ことによってもたらされる。「他者の身体に深く気づく」という体験は、みずからの身体が孤立して存在し、誰とも一体化できないという事実の上に成り立っている。
この国の「社会的合意」は、「身体を消す」ことにあった。文化も武道も、その身振りが追求されていった。
忍術で、「ドロン」と消える。これがこの国の武道の極意であり、「社会的合意」です。
他者や世界に深く気づいているとき、みずからの身体(自己意識)は消えている。
内田さん、あなたは「自己意識」が消せないから運動神経が鈍いのであり、「自己意識」が消せないからあなたの思想は「近代の擬制」にばかりとらわれて、「根源」すなわちあなたのいう「人間性の基礎」に届くことができないのですよ。