内田樹という迷惑・女の社会参加

内田氏によれば、フェミニストの女たちが社会参加しようとするのは、「いくばくかの<権力>や<財貨>や<情報>や<名声>や<文化資本>」を得るためなのだそうです。
そして、すでにそれらをじゅうぶんに手に入れている彼は「そんなことはたいしたことじゃない」と言う。たいしたことじゃないのに、そんなことに汲々としているおまえらはていどが低い、と。
彼女らを、そんなことの亡者のように言う。
お願いだから、そうやって他人を安く見積もるのもいいかげんにしていただきたい。
それで自分の優位性を主張しようなんて、やることがせこいじゃないか。
彼女らにとってのいくばくかの「権力」も「財貨」も「情報」も「名声」も「文化資本」も、つまるところ社会参加したことの「結果」であって、「目的」ではない。彼女らが社会参加しようとするのは、彼女らなりの「女としての実存」の問題があるからでしょう。
上野千鶴子氏は、自分が手にしたそれらのものを吹聴しているだけじゃないでしょう。彼女は彼女なりに女としての「実存」や「アイデンティティ」を懸命に模索し、説いている。その内容の是非はともかくとして。
彼女らは彼女らなりに、生きてあることの緊張感や負荷を求めて社会参加してゆくのであって、単純に権力や財貨だけを目指しているわけでもなかろう。そんな問題にすりかえてフェミニストを批判しようなんて、いじましすぎる。
女は、生きてあることの緊張感や負荷を必要としている。このことに専業主婦もフェミニストともないと思う。
彼女らは、そういう緊張感や負荷を求めて、子を産むことや家事労働を引き受ける。
何もないまどろみの中に置かれたら、彼女らは、たちまち退屈してしまう。
「女房なんてもう空気みたいな存在です」と言ってまどろんでいるのは男ばかりで、女のほうは、もっと緊張感や負荷のある関係の中に身を置こうとする。そうやって、亭主にうんざりしてゆく。
亭主が会社に行って、胃がきりきり傷むようなしんどい日々を送っていることに対して、女房たちは一片の同情も持っていない。むしろそういうストレスを抱えて生きてゆけることを、うらやましいとさえ思っている。
うらやましいと思えるくらい、女は、緊張感や負荷に耐えられる神経を持っている。緊張感や負荷に耐えることが、女の実存なのだ。
だから、社会参加したいのだ。
単純に「いくばくかの<権力>や<財貨>や<情報>や<名声>や<文化資本>」だけを求めているのではない。
何かを求めて、というその人間理解が卑しいのだ。
何かを求める以前に、何かから逃れようとする衝動がはたらいている。
内田さん、すべての人間があなたと同じように「何かを求めて」というスケベ根性だけで行動していると思ったら、短絡的すぎますよ。
どんな人の行動にも、何かから逃れようとする「応力」がはたらいている。
彼女らが社会参加したいと願うのなら、それは、家族の中のまどろみという退屈から逃れたいからであり、生きてあることの緊張感や負荷を引き受けたいからでしょう。それは、彼女らの「実存」の問題なのだ。
あらゆることが自動化した現代の家事労働なんか退屈なだけだ、と彼女らは思っている。子を産むことだって、徹底的に病院で管理されて、いまや命がけの仕事ではなくなっている。ただの「子を産む機械」になって子を産んだって、面白くも何ともない。
まあ、子を産もうとするモチベーションが上がらない原因は、ほかにもいろいろある。
彼女らを社会参加の方向へと追いつめている何かがある。内田さん、彼女らの揚げ足取りばかりやっていないで、そういう「時代」なり「構造」なりを問いなさいよ、構造主義者なんでしょう。
彼女らは、内田氏のように「私は清らかであるか」と自分を問うようなことはしない。女であるなら誰だって、「すでに穢れている」という自覚はどこかに持っている。
すでに穢れていると自覚している彼女らは、「みそぎ」の行為として社会参加を願う。
家事労働や出産が、もはや「みそぎ」になりえない時代になってしまったのだ。
彼女らは、どこかのインポ野郎みたいに清らかぶって生きることなんかできない。