内田樹という迷惑・この国の武道とオリンピック

柔道無差別級金メダリストの石井慧は、「スポーツじゃない、勝負です」と言った。
彼は、決勝までのすべての試合を一本勝ちで通過してきたのに、決勝だけは、あくまで勝負に徹し、相手に二つの「指導」を受けさせて優勢勝ちをおさめた。
そのとき彼は、みずからの技にも身体能力にも淫しなかった。
そんなものは、どうでもいい。勝てばいい。殺すか殺されるかだ、と言った。
一本を取りにいく、というような相手をなめたことはしない、勝負に徹することが相手に対する敬意だ。もしかしたら、一本を取ろうと思えば取れたのかもしれない。でも彼は、武道そのものと相手の選手に対する体ごとの敬意をこめて、あえて勝負に徹した。
こんなすごい勝負師が、どうして日本から出てきたのだろう。
いや、もしかしたら宮本武蔵は、こんなタイプの武道家だったのかもしれない、と思わないでもない。
「ここで負けることは、死を意味する」・・・・・・石井慧という選手は、このことを誰よりもクリアにイメージできる武道家らしい。
彼は、内田樹とかいう似非武道家のように、死を10年先20年先のこととしてイメージするような、そんなぬるいことは考えない。死が「今ここ」の裏にぴったり張り付いているということを、「この生のかたち」として、誰よりもクリアに認識している。
道家とは、ほんらいそういう人種であるはずだ。
自分の技や身体能力を表現しようとする意欲などさらさらない。いかに相手の技と身体能力を消す(=殺す)かということに徹する。それは、宮本武蔵の流儀でしょう。
現在の日本柔道の関係者はみな、「一本を取るのが柔道ほんらいのかたちだ」と口を揃えて言う。
しかし石井慧という選手は、そういうスポーツショーのレベルを超えて、「殺すか殺されるか」という武道の本質にまで迫って見せた。
相手の技や身体能力を徹底的に封殺してゆく。これこそが、日本の武道の流儀なのではないだろうか。負けが「死」を意味するのなら、もうそうするしかないではないか。
相撲の「ぶちかまし」も「突っ張り」も「おっつけ」も「組み手」も、つまるところ、みな相手の技や身体能力を封殺するための行為であるはずです。そうやって「封殺する」というかたちが、他の武道以上に如実に現れるところに、裸で取っ組み合う相撲という武道の醍醐味があるのではないだろうか。
そこに、相撲の「スリリング」がある。
野球は、戦後になって、相撲以上に盛んなプロスポーツとして発展してきた。だから、たんなるアメリカ野球の模倣のレベルを超えて、すでに日本的な野球のかたちが完成しつつある。
それは、「相手の技や身体能力を封殺する」という戦法やプレーにある。
直球を打つのが得意のバッターに直球を投げて「男と男の勝負」を挑むなんて、そんな大リーグ的な感傷は、日本野球においては許されない。徹底的に変化球を投げ込む。ストライクなんか投げない。ボールの球をストライクに見えるように細工をしてバットを振らせる。相手が強打者なら、フォアボールになったって、かまやしない。勝負を避けた、なんて批判など知ったこっちゃない。
一塁ランナーには、盗塁させないようにしつこく牽制球を投げる。しつこく牽制球を投げておけば、ダブルプレーが取りやすいし、バッターもじれてくる。
相手の技や身体能力を封殺しようとする、そんなことばかりしているから、日本の野球は時間がかかる。
時間がかかっても、勝負なんだもの、仕方がない。
数年前のサッカー日本代表のフランス人監督トルシエは、「日本には、<引き分け>の文化がない」といった。
その通りだ。もともと日本人の死生観に、死んだら「天国」や「極楽浄土」に行くという信憑はない。古代の人びとは、死んだらわけのわからない「黄泉(よみ)の国」に行くだけだ、と思っていた。
死か生か、勝ちか負けか、どちらかだ。「天国」や「極楽浄土」という「引き分け」の決着などイメージできない文化なのだ。
相撲で、二人が同時に倒れ込んでいっても、必ず勝ち負けをつける。勝ち負けをつけないと、観客も納得しない。勝ち負けがついたことに安堵する、そういうカタルシス止揚してゆく文化なのだ。
喧嘩両成敗は、「引き分け」ではない。二人とも「負け」なのだ。二人とも腹を切れ、と命令することだ。
武道とは、勝つか負けるかの勝負をすることであって、戦うことじゃない。これが、日本列島の文化なのだ。
相手に戦うことをさせない・・・・・・そういう「戦い」を否定した戦法こそ日本的なのだ。
そうやって「真珠湾攻撃」をした。
日本人は、戦いたいのじゃない。勝ち負けの決着をつけたいのだ。
「引き分けの文化」なんかない。
勝てないのなら殺されても仕方がないし、そういう覚悟はできている、とほんものの武道家は考えている。
石井慧は、そういう武道家なのだ。
一本を取るのが日本の柔道だなんて、おちゃらけたこと言ってんじゃないよ。
べつに負けたっていいんだけどさ。「よくがんばった」と拍手するのも日本人さ。しかしそれは、負けることが「死」を意味するほどの悲劇だからだ。思い切り悔やんで泣けよ。その姿は美しい。
「負けても悔いはない」などというひとりよがりなせりふを、選手本人の口からは聞きたくない。
10年前のフランス・ワールドカップで全敗した日本人監督はそんなことを言っていたけど。
ほら、今もあつかましく日本チームの監督をしている「あの人」ですよ。