内田樹という迷惑・生きることの意味について

「生きることの意味」などというものがあるのですか。そんなものを、あなたは知りたいですか。この世の中には、そんな嘘くさい思い込みに淫して生きた結果として、鬱病になったりボケ老人になったりEDになったりするのではないだろうか。
内田樹氏は「街場の現代思想」の「あとがき」で、「生きることの意味」をいろいろくだくだしく語ってくれています。
まず、「生きることの意味は何か?という問いに答えるのがむずかしいのは、答えが無数にあって収拾がつかないからである。」という。
単細胞の俗物が、何をかっこつけたことほざいていやがる。
これが、「哲学者」のせりふですかねえ。
「無数にある」ということは、「何もない」からいくらでもでっち上げることができる、ということです。
「生きることの意味」を哲学的に深く誠実に問おうとするなら、誰だって「意味なんかなあんもない」という結論にたどり着いてしまう。これが、現代哲学の常識のはずです。
そして内田氏もそんなことはわかっているのだけれど、彼の日常感覚が生きることの意味を自覚することの上に成り立っているから、「ある」ことにしておかないと生きてゆけない。なんと言っても、そういうことにしておいたほうが得して生きてゆける世の中なのだ。たとえそれがただの「強迫観念」であっても、それを信じ込んだやつが勝ちなのだ。だから、誰もがそれを求めてやまない。
内田氏に、何が真実か、ということを考える頭はない。どうすればこの社会でうまく生きてゆけるか、という問題があるだけです。つまり内田氏には、哲学をする度胸なんかない、ということです。ただの俗物なのだ。俗物だから、「生きることの意味」とか「よりよい社会の未来」とか、そんなかっこつけたことばかり考えている。
僕なんかバカだから、たとえば、人と人がぶつかりそうになったらなぜよけようとするのだろう、というようなことをえんえんと考えてしまう。僕はバカだけど、内田氏よりは哲学する度胸があると思っている。
哲学をしようとするなら、「生きることの意味などというものはない」という人間存在の闇と向き合うしかないのだ。そこから「人間」という概念をどう立ち上げてゆくか、それが現代の思想や哲学の課題なのだ。
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人間がもし死なないで永遠に生き続けるとしたら、「生きることの意味」もなくなってしまう。「人間は死ねるから幸福なのだ」と内田氏は言う。
こういうのうてんきな発言は、胸くそ悪い。すべての人間が、老いさらばえるまで生きてゆくことができるとはかぎらないんだぞ。16、17の、人生のいちばん溌剌としているときに死んでゆかねばならないものもいる。生まれてすぐに死んでしまう赤ん坊もいる。そういうものたちの「人間はどうして死なねばならないのか」という問いに、あなたは、なんと答えるのか。やっぱり「人間は死ねるから幸福なのだ」と、ごうぜんと言い放つのか。
死ねるから幸福であるのなら、今すぐ自殺したっていいではないか。どんな屁理屈をこねようと、「死ねるから幸福だ」と言っているかぎり、自殺を否定することはできないのだ。それでも自殺を否定しようとするのは、そんなことを言いつつ、あなたが死ぬことを「怖い」と思い「いやだ」と思っているからだ。人間のこの感情は、そんなりくつではどうすることもできないのだ。
ひといちばい死ぬことを「怖い」と思い「いやだ」と思っているやつが、「人間は死ねるから幸福なのだ」だなんて、ちゃんちゃらおかしいのだ。「怖い」「いやだ」とおびえきっているから、そんなへりくつで自分を宥めごまかそうとするのだ。
死が幸福な事態であるか否かの意味など問うてもせんないことだ。そんなりくつを納得すれば、死ぬのが「怖い」とか「いやだ」という感情を拭い去ることができるというのか。そうはいかない。この感情の水源そのものを問うしかないのだ。そんなおためごかしを言って済ませてしまおうとするのは、哲学をする度胸がないからだ。
われわれが死ぬかどうかなんて、わからないんだぞ。死んだことがないんだもの、わかるはずがないじゃないか。したがって「死ねることが幸福である」かどうかも、誰にもわからないのだ。この生は。そういう「不可知性」の上に成り立っているから、誰もが死ぬことを「怖い」と思い「いやだ」と思うのだ。
自分が死ぬかどうかということは、死んでしまってからしかわからないことだし、死んでしまったらわかりようもないのだ。
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死という未来をはっきりとイメージし、そこから現在この生を見つめれば、自分が今生きてあることがどんなに貴重でいとおしいものであるかがわかる、と内田氏は言う。
たとえば、こんなこと。
「私たちが愛するすべてのものは、壊れ、失われ、消え去ることを宿命づけられている。私たちがなめらかな肌や緑の黒髪や皓歯(こうし)を愛でるのは、それが加齢とともに確実に失われるからである。」
まったく、気取り屋のインポ野郎が。
この人は、若くて美しい娘を目の前にして、彼女がしわくちゃのばあさんになることを想像するのだそうです。そうしたら、現在の彼女の若さや美しさがいかに貴重でいとおしいものであるかがわかるだろう、という。それが、女性の美を愛でる普遍的な心の動きなのだそうです。
あほらしい。そんな想像が浮かんだら、しらけるだけでしょう。
僕はバカだから、そんな想像はようしない。それが永遠のものであるかのように錯覚して、ひれ伏す気持になってしまう。
われわれが街ですれ違うだけの女性に思わず見とれたり振り返ったりしてしまうのは、その女性がしわくちゃのばあさんになった姿を想像するからですか。
そうじゃない。その瞬間が永遠のように錯覚して立ち尽くしてしまうからだ。
彼女がしわくちゃのばあさんになってしまうなんて、いったい誰が言えるのだ。この先もずっときれいなままかもしれないじゃないか。ぜったいそうなると、いったい誰が言えるのか。彼女の「未来」は、まだ来ていないんだぞ。そうなると決め付ける権利が、内田さん、あなたにはあるというのか。
彼女がもし明日死んでしまったら、彼女がしわくちゃのばあさんになると証明する機会は、永遠に失われるんだぞ。
「未来は予測不能である」という厳然たる事実に対する「畏れ」というものが、あなたには決定的に欠落している。だから「哲学する度胸」がないのだ。
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さらに内田氏は、こんなことも言っている。
「(人が美しいカットグラスを愛でるのは)、それが手から滑り落ちて床に砕け散り、それが<もう割れてしまったグラス>になった瞬間に私が感じるであろう喪失感と失望を私が想像的に<先取り>しているからである。」
自分じゃ「文学センス」を披瀝しているつもりかもしれないが、三流の風俗小説じゃあるまいし、こんなセンスなど「文学的」でもなんでもない。つまり、ただ「所有欲」の危機を感じるから美しいと言っているだけじゃないか。そういう「喪失感」とか「失望」などというものを「先取り」して想像することは、守銭奴のセンスなのだ。その「美しい」という認識は、たんなる「執着」であって、「感動」ではない。
砕け散って、なお美しいと思うかもしれないじゃないか。
われわれは、そんな「失望」や「喪失感」を先取りすることはできない。そんな感情は、砕け散ってから、体験する。なぜなら、それが砕け散るかどうかは、砕け散ってからじゃないとわからないからだ。
まだ砕け散っていないかぎり、砕け散るかどうかはわからないのだ。
そのカットグラスの美しさは、「失望」や「喪失感」を先取りすることの不可能性の上に成り立っている。美しいカットグラスは、われわれの「砕け散る」という予感を否定して、まるで「永遠」に存在しつづけるかのような気配を見せている。そのときわれわれは、「未来」を喪失して「今ここ」に立ち尽くしている。
たとえば、自分が今100万円持っているとする。しかしそのうちの90万円は借金の返済に当てなければならない。したがって自分が今所有している実質は、10万円である。しかしそれでも、100万円持っているという充足感がどこかで疼いている。そうやってつい返しそびれたりしてしまう。彼は、100万円持っていることに感動してしまった。感動するとは、ようするにそんなようなことだ。べつに芸術家だけのものじゃない。
感動とは、「未来」を喪失して「今ここ」の輝きに立ち尽くすことであり、「今ここ」こそが「永遠」なのだ。
カットグラスは、割れしまうものだからこそ、そのとき体験させられる、割れてしまう「未来」を想像することの不可能性に、なおいっそう驚きときめいてしまうのだ。
恋する二人は、いずれ別れるであろう「未来」を先取りして想像しているでしょうか。そうなるかもしれないのに、そんなこといっさい忘れて抱きしめ合っているだけでしょう。いずれおたがい幻滅し合うに決まっているのだから、せめて今だけはこの仲良くしている時間を大切にしよう、なんていじましく計算しているのですか。彼らが情熱的であればあるほど、「未来」などいっさい忘れて抱きしめ合っているはずです。
だから、内田氏の言うことは「インポの論理」だというのですよ。
「今ここ」に「永遠」を見るという体験をするとき、われわれは「死の恐怖」から解放されている。夢中で抱きしめ合っている恋人たちは、別れの「喪失感」や「失望」に対する予感などにとらわれてはいない。
つまり内田氏は、死を「喪失感」や「失望」として見ている、ということです。内田氏にとって「死を覚悟する」ことは、そのときの「喪失感」や「失望」に恐れおののくことであるらしい。内田氏は、誰よりも確かに死を覚悟し、誰よりも激しく恐れおののいているらしい。
まったく、とんだ茶番劇である。
ひといちばい死を怖がっているくせに、私は死を覚悟している、なんていばっていやがる。内田氏の「覚悟している」というせりふなど、「怖がっている」と白状しているのとおなじなのだ。
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人が「うつろい(滅び)ゆくもの」に魅了されるのは、滅びてゆくことの喪失感や失望に耐えられないからである、と内田氏は言っている。
カットグラスが砕け散る瞬間の美しさは、もしかしたら、無傷のままでいるとき以上に美しいのかもしれない。そのときひとは、二度と戻らない「一瞬=永遠」を体験する。すくなくともボードレールは、そのように言っている。
内田氏にとってそれは、ただの「喪失感」と「失望」に恐れおののくだけの体験らしいのだが、文学のわかる人はそのように言っている。
世阿弥が「萎れたる姿こそ花なり」と言うとき、無傷のままの華やかな姿よりもそれが「滅んでゆく」姿にこそ美=花がある、という感慨を表出している。つまりボードレール世阿弥は、同じことを言っていることになる。
美しいものが滅びてゆく姿こそ「美しい」のだ、と。
そのとき人は、それが滅びてしまったあとのことをイメージしているのではない。滅びてゆく一瞬一瞬に立ち尽くしているからこそ、せつなく美しいのだ。そんなことはあって欲しくないし、あるということがリアルに実感できないのに、観念的にはそれを知っている。その落差において、せつなさがこみ上げてくる。
われわれは死んでゆく。そんなことはあって欲しくないし、あるということがリアルに実感できないのに、それでも死んでゆかねばならない。
死につつある一瞬一瞬に立ち尽くすこと、それがこの生を輝かせる、とボードレール世阿弥も言っている。そしてそれは、みずからの生が輝くことではない、この世界の輝き(=美)を体験することである、と。
この世界が輝くとき、「私」という意識は消えている。したがって「私の死」も忘れてしまっている。死につつある一瞬一瞬を生きるとは、「私の死」を忘れて生きることだ。死につつあることを意識しつつ、死を忘れることである。
死んでしまうことがわかっているのなら、さっさと死んでしまえばいい。どうせ生きていることになんの意味もないのだから。しかしわれわれは、世界の輝きを体験しているとき、みずからの死を忘れている。死んでしまう身であることを失念している。
世界の輝きに立ち会っているものは、どうしてもみずからの死をリアルに実感できない。われわれは、世界の輝きを体験してしまって、みずからの死をリアルに実感できないから自殺しないのだ。
死のことがわかってしまったら、誰だって「滅んでゆく」過程をはしょってしまうのであり、それが「自殺」という行為なのだ。
死のことがわかっているつもりの内田氏には、「滅んでゆく」という体験はできない。「滅んでゆく」過程の一瞬一瞬に立ち尽す感性はない。だから、文学がわからないのだ。
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内田氏は「死んだあとの私」をリアルにイメージできるのなら、生きてある一瞬一瞬がいかに貴重であるかがわかるだろう、という。つまり、「死んだあとの私」は「最悪」の事態になっている、ということだ。だから、生きてある一瞬一瞬が貴重でいとおしいものになる。であるなら、死ぬことの恐怖はどんどん募ってゆく。死ぬわけにいかないのだもの。
生きてあることに「意味がある」とか「貴重でいとおしい」とかというとは、そういうことなのだ。
われわれは、それでいいのか。
「生きてあること」は、貴重でもなんでもない。「意味」なんか、なあんもない。それでもわれわれに「未来」のイメージも「死」のイメージもないのなら、「今ここ」に立ち尽くすしかない。「今ここ」に立ち尽くしたとき、「未来」も「死」もうまく実感できない。
それが、「美」という体験であり、「世界は輝いている」という体験なのだ。
生きることが「貴重だ」とか「いとおしい」なんて言っているやつは、世界の輝きに「感動」なんかしていない。ただ守銭奴のように、意地汚くみずからの生に「執着」しているだけなのだ。
世界は輝いていると感じているとき、われわれはみずからの生も死も忘れている。
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大人たちから見れば、ニーとやフリーターの現象が示すように、いまどきの若者は、仕事も恋愛も結婚も遊びも、やる気があるのかないのかよくわからない。それがなぜかという問いに答えた内田氏のこの論稿の結論は、えらそげにまあ、こんな感じです。
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今の時代がしんどいのは、若い人たちに「未来」がないからである。もっとはっきり言えば、若い人たちが「死んだあとの自分」というものを自分自身の現在の意味を知るための想像上の観測点として思い描く習慣を失ってしまったからである。今の若い人たちに欠けているのは「生きる意欲」ではなく、じつは「死への覚悟」なのである。「生きることの意味」が身にしみないのは、「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。
私が若い方々に勧奨することは、とりあえずひとつだけである。それは、自分がどういうふうに老い、どういうふうに病み衰え、どんな場所で、どんな死に様を示すことになるのか、それについて繰り返し想像することである。困難な想像ではあると思うけれど、君たちの今この場に人生を輝かすのは、尽きるところ、その想像力なのである。
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こんな愚劣なことをえらそげにほざく大人が牛耳っている世の中なんだもの、若者がしんどいのは当たりまえだろう。
この人は、いつだって、自分は賢く正しくて、若者は愚かで間違っている、というスタンスでものを言ってくる。それは、自分のことを、若者が目指すべき未来像として描こうとする強迫観念なのだ。そうやって自己正当化し、さらには今の若者より自分のほうが正しい若者時代を送ってきたということに、何がなんでもしようとしている。
薄気味悪いと思いませんか。ここまでくればもう、病気だと思う。
どうして若者が、あなたと同じに「死んだあとの自分を思い描く」ような薄汚いスケベ根性(強迫観念)を持たなければならないのか。大人と同じようにそういうスケベ根性を持っていれば、そりゃあこの社会では生きやすいだろうが、それが人間性の本質であり正義であるかのような言い方をされると、ほんとにむかつく。
こういう思考はほんとに愚劣だ、としんそこ思う。そしてこの思考によって人は、死に対する恐怖を無意識の中に募らせ、ボケ老人や鬱病やEDになったりしていっているのだ。
「やる気」がどうのということじたい、ナンセンスなのだ。われわれは、すでに世界の輝きを体験してしまっている。だから、いまさら「やる気」なんか起こしようがないのだ。目の前に人参をぶら下げられた馬じゃあるまいし、われわれは「生きることの意味」を信奉して生きているのではない。「すでに生きている」のだ。すでに世界の輝きの中に置かれてしまっているのだ。
哲学者ともあろう人が、「生きることの意味」だなんて、よくもそんな安っぽいことをいえるものだ。
「今ここ」の世界に反応して生きているものには、「やる気」も「生きることの意味」も必要ないのですよ、内田先生。誰もが、あなたと同じように自分の人生を輝かせようというスケベ根性だけで生きているとはかぎらないのですよ。自分の人生の輝きが大切なら、会社なんか辞めないさ。彼らは、すでに「世界の輝き」を体験してしまっているのだ。
現代の若者たちのそういう存在のしかたを、すこしは考えろよ。
彼女とエッチすることに夢中になってしまったら、会社に行くことなんか面倒になってしまうでしょう。若者のそうした傾向を、なんの権利があってあなたが否定するのか。そりゃあ人生設計をしたほうがうまく生きてゆけるに決まっているけど、それができない愚かな若者は、あなたよりはるかにヴィヴィッドに世界の輝きを体験している。そうやって「他者」を否定することばかりやっていないで、たまには自分のみすぼらしさも見つめてみろよ。自分に幻滅するということも体験してみろよ。そしたら、世界の輝きが見えてくる。
「未来」を喪失して「今ここ」に立ち尽くす彼らの「愚かさ」を少しは尊敬してやれよ。ちょっと考えれば、それは尊敬に値することだと気づくはずだよ。
気づかないとしたら、あなたの頭がいかれているからだ。
よりによってそんな気色悪い強迫観念を、若者に押し付けることないじゃないか。
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内田氏は、「自殺する人間は、死んだあとも生き延びるつもりでいる」という。しかし、そのような倒錯した考えを持ってしまうものと、死のことがわかったつもりになってどんどん生に執着してゆき「死の恐怖」を膨らませていっている内田氏と、はたしてどちらが病的であるといえるだろう。
どちらも、「死」がわかったつもりになっている。それこそが病理なのだ。
「死ぬことの意味」を考えるものは、かならず死んだあとも生き延びることをイメージしてしまう。「死は消失点である」などと内田氏がかっこつけたことを言っても、心の中ではすでに死の世界をさまよっている。人間とは、そういう生きものなのだ。
誰も、死の世界をさまよってしまう無意識から逃れられない。だからこそわれわれは、「今ここ」に立ち尽くす「美という体験」を必要としているのだ。
「死は消失点である」と言ってしまえば、それでもう体ごとそんな認識を得ているというわけにはいかないのですよ。人間の「心」というのはそんな単純なものじゃないし、観念が一方的にコントロールできるものでもない。
「死は消失点である」という体ごとの認識を得ることは、洋服を着替えるようなわけにはいかないのですよ、内田さん。あなただって、いやあなたこそ、誰よりもあさましく死の世界をさまよっているじゃないか。「死は消失点である」ということは、この生を輝かせるなんの材料にもならないのですよ。「死は不幸である」と認識して、はじめてこの生が貴重なものになる。あなたは、消失することは不幸な事態である、と認識しているのですよ。「喪失感」やら「失望」で頭の中をいっぱいにして死んでゆこうとしているのですよ。あなたの意識はすでに死の世界にさまよっているのであり、ほんとうに消失点であると認識しているのなら、さまようことなんかできないのだ。「死ぬことの意味」がどうとかこうとかと騒ぎ立てることは、「消失点である」と認識していないのと同じなのですよ。
消失点に、「意味」なんかないのですよ。
人間の観念は、不可避的に死の世界をさまよってしまう。いいですか、内田さん。親鸞はここからはじめたのですよ。「消失点である」と言ってスカしているのは、あなたくらいのものなんだよ。
親鸞は、「死んだあとのことはぜんぶ阿弥陀如来にまかせてしまおう」と言った。人間の観念が不可避的に死の世界にさまよってしまうものであるのなら、もう、そのようなかたちで「死ぬことの意味」を問うことを放棄(放下)してしまうしかない。つまり、あなたよりはるかに切迫して死と向き合いつつ、それでも「死ぬことの意味」は問えない、と言ったのです。
「死ぬことの意味」がどうとかこうとかという言説がのさばっているかぎり、自殺しようとするものはけっしてなくならない。「死ぬことの意味」を問うから、自殺という結論に導かれるのだ。
内田氏だって、すでにもう立派に自殺予備軍なのだ。