まったく、「女性の品格」がどうとかと言われているさなかにこんなことを書こうなんて、時代錯誤もいいとこです。
内田樹氏は、フェミニズムの問題を、どうやら女の「自己意識の確立」という問題としてとらえておられるらしい。
女だけでなく、たぶんそれこそがすべての人間の問題なのだと考えているらしい。
愛されていることに気づくこと、自分の存在が他者によって承認されていることに気づくこと、他者から欲望されていることに気づくこと、そういう「気づき」によって人間は生かされ生きているのだ、というのが「内田哲学」なのだそうです。
くだらないと思いませんか。
薄汚いことばかり言いやがって、と思いませんか。
この人にとって「他者」は、自分を愛してくれるために存在しているらしい。自分を承認するために存在しているらしい。誰もが自分に対して欲望を抱くに決まっている、と自惚れていやがる。
僕の被害妄想かもしれないけど、この人は、人の心の中に土足で入り込んでくるような書き方をする。
僕は、自分のことを、誰からも愛されていない、誰からも承認されていない、誰からも欲望されていない、と思っている。
他人の心の中などわからないし、愛とか承認とか欲望などということもよくわからない。自分自身の中にそんな衝動があるのかどうかもさらにわからない。
内田氏の言うことは、けっきょく「能力」の問題なのです。内田氏にはそうやって世界や人間を解釈する能力があるが、僕にはない。
内田氏くらいのえげつない自惚れを持っていないと、愛されているとか承認されているとか、そんな途方もないことなど自覚できないですよ。
内田氏は、えらい。自己意識を確立していらっしゃる。
そして僕はといえば、情けなくて、途方に暮れるばかりです。
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人間が生きてゆくために何が必要か、そんなことはわからないですよ。
なぜなら、われわれは「すでに生きてある」存在であるのだから、「生きてゆくために」という問題など考えようがないじゃないですか。
人間ほど怠惰な生きものもいない、と言った哲学者がいるが、それはたぶん「すでに生きてある」という気分が誰の中にもあるからでしょう。
誰もがそういう気分とたたかって仕事に出かけてゆく。
だから、「生きてゆくために何が必要か」という問題は、人それぞれでいいのだと思う。いちいち内田氏に「検閲」されるいわれはないし、教えていただくほど彼が正しいことを言っているとも思えない。
フェミニストの女性たちは、「自己意識の確立」のためにたたかっているのか。それが最終的な解決(勝利)になるのか。
僕にはよくわからない。
ただ、女というのは、そんな人種ではないだろう、とも思う。
自己意識の確立は社会的なテーマかもしれないが、それがほんとに個人や女を解放するのだろうか。
僕は、女というのは、自分を「検閲」し「処罰」し、自分を消してしまうことのできる人種だと思っているし、そこにおいて女を尊敬している。
人間は自己意識だ、と言って迫ってくる内田氏よりも尊敬している。
女の悪意は本格的だ。
彼女らは、自分も男も、そしてこの世界も、検閲し処罰する。
だからこそ、すっきりと自分を消してしまうことができるのだし、死ぬことにもむやみにうろたえない。
それに対して自分を消すことのできない男たちは、ふだんはえらそうなことを言っていても、土壇場になったら醜くうろたえる。
悪意は大切です。それがあるから世界は輝いて見える。
心の中に「嘆き」を持っている人間でなければ、世界は輝いて見えない。
おためごかしに愛だのヒューマニズムだのと言っているのは、ただのナルシズムだ。そうやって自分に酔っているだけのことだ。
正義ぶって、なに言ってやがる。
自己意識を確立するかどうかではなく、世界が輝いて見えるかどうか、そちらの方が僕の気にかかることです。
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ヴァギナ、という言葉はあまり好きじゃない。言葉の響きとして、なんとなくのこぎりの歯のようなものがくっ付いていそうな凶悪な感じがする。
じっさい、ヴァギナに食いちぎられるペニス、というかたちの民話が世界中にあるらしい。
たとえば、山の中で道に迷った男が美女と出会って、その住処に連れてゆかれる。しかしその女はじつは妖怪で、誘惑したあげくにヴァギナの中のペニスを食いちぎり、男を殺してしまう、というような話です。まあ最後に誘惑に負けない賢い男が出てきてその妖怪を退治するという展開になるのだが、それによってヴァギナの悪意と優位性を克服したというかたちにはならない。ペニスの挿入を我慢してやっつける、というだけのことです。
男にとってヴァギナを克服することは、けっしてかんたんなことじゃない。もしかしたら、永久に不可能であるのかもしれない。だったらもう、女を奴隷にするか殺してしまうしかない。この社会が男社会であるのなら、それじたい男が女に対する負い目を克服していないことを意味する。
男は、女と母親と、二重に女に対する負い目を負っている。
女が抱く男=ペニスに対する悪意と、男における女=ヴァギナに対する負い目は、根源的なものかもしれない。
ヴァギナの中に入ってきているペニスは、体の中の「異物」です。だから彼女たちは悪意を抱く。しかしそれは、彼女たちがみずからの身体を処罰するためのもっとも有効な道具でもある。それによって処罰し、カタルシスを汲み上げる。
女にとってペニスに対する「悪意」は、それじたい「愛」でもある。
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フェミニズム運動も、おそらくそうした根源的な悪意の上に成り立っている。単純に男社会だから、というだけのことではないような気がします。もっと根源的な男との関係において、彼女らは悪意を抱いている。そしてたぶん、その悪意こそが、彼女らの愛でもある。
内田氏をはじめとする世の良識ぶった知識人のように、フェミニズム運動における女の主張や行動が、理論的に破綻しているとかとんちんかんだとかヒステリックだとか、そういう批判をして鬼の首でも取ったようなことを言ってもせんないことです。とんちんかんだということ自体、その悪意が根源的であることを意味している。
内田氏からすると、ほとんどの女は思慮が浅く感情的だからそうやってとんちんかんな主張や行動を繰り返すのだといいたいのだろうが、思慮が浅く感情的になるのは根源的だからです。
賢くスマートに理論武装しているとすれば、それこそ根源的ではなく、あくまで作為的で必然的な根拠を持たないからです。
内田氏は、賢くスマートに理論武装している女の理論家を持ち上げ、とんちんかんなことを言っている相手は切り捨てているのだが、問題はそんなことにあるのではないと思えます。
賢くスマートに理論武装しているということは、それだけフェミニズム運動の必然性に対する「確信」が希薄である、ということを意味している。
フェミニズム運動は、女が根源的に抱いている男に対する悪意の上に成り立っている。
だから、とんちんかんであればあるほど、本質的で根源的なのだ。
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女はなぜペニスを食いちぎろうとするのか。
ペニスは、ヴァギナの中で射精し、やがて萎れてゆく。もしかしたらそれは、食いちぎられるのと同じことかもしれない。
ゴールにたどり着いた女の膣は、強く収縮する。その瞬間、萎れてしまったペニスはその動きとともに吐き出される。そして男は、ふと「食いちぎられた」ような心地を覚える。
男が女を征服したことの証しとして射精したと思うのは間違いで、射精させられたにすぎない。
たいていの男は、なんとか射精するまいとがんばる。
でも女は、けんめいに腰をゆすって射精に追い込んでしまう。射精に追い込もうとする本能を持っている。
言い換えればそれは、女じしんがみずからの身体を処罰する行為でもあるわけで、だから容赦しないのかもしれない。
結合したときの男は、ペニスが膣の壁に包まれている感触を確かめようとしたりするが、女はひたすら最後の瞬間をめざして腰を振り立てる。
男は、持続しようとする。女は、終わろうとする。つまり、みずからの身体を処罰してしまおうとする。
最後のオルガスムスは、女にとっての処罰されることの恍惚であり、そのとき深い闇に落ちてゆく。そうやって、身体が消えてゆく。
終わりのカタルシスは女のほうがずっとよく知っている。
終わったあと女は、そこでカタルシスの余韻に浸る。しかし射精したあとの男なんて、虚ろで無力な存在になっているだけです。だから、終わりたくない。でも、終わらされてしまう。
ただの日常のいさかいにしろ、セックスにしろ、女が男を容赦しないのは、それが自己処罰でもあるからだろうと思えます。
ヴァギナは、ペニスを射精に追い立てる。その象徴として、「食いちぎる」という話が語られてくる。射精してしまったペニスなんて、食いちぎられたも同じです。
女は、ペニスを処罰する。
女は、この世界を処罰する。
そして女じしんが、「処罰されるもの」でもある。
女は、みずからの身体を許さない。そして、処罰する。処罰するとき、世界は輝いてあらわれる。
「自己意識の確立」がフェミニズム運動の本当の目的かどうかはわからない。内田氏の説明によれば、ボーヴォワールをはじめとして歴代の多くのフェミニストが「人間とは自己意識である」というヘーゲルの影響を受けているのだとか。とすれば、今なお多くのフェミニストがそういう目的を掲げているのかもしれない。
しかしそれじたいが男社会の制度に吸収されてしまうことでもある。「自己意識の確立」という迷信は、ヨーロッパの宿業であるともいえる。したがって彼女らがそういうたてまえを持とうとするのもとうぜんかもしれないが、けっきょくは自分も男も処罰しようとしているのではないだろうか。そういう意味で僕は、とんちんかんな「ジェンダー・トラブル」も支持する。
おそらく「自己意識の確立」という制度的スローガンこそ、フェミニストたちの敵なのだ。
女にとって「自己=身体」などというものは、さっぱりと処罰してしまうべき対象なのではないだろうか。
自己意識を確立した人間は、自分もまんざらではないといつも確かめながら生きている。そうして、世界に対する感受性を喪失してゆき、やがてEDになったりする。
世界は輝いている、ということは、べつに世界の平和と繁栄を謳歌するとか、そんなことではないですよ。たとえば、電車に乗って、近くに立っている女の子の顎のかたちがすてきだなあとつい見とれてしまうとか、そういうことです。
あなたなしでは生きてゆけない」などと薄気味悪いことをほざいているお方に、そういう体験はあるのでしょうか。
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