女は、男を処罰したがっている。男に難癖をつける、それが、女の愛でもある。そんなところにもフェミニズムの一面はあるのではないかと思います。
フェミニズム運動は終わったのではない、定着して一般化し、いまや一部の知的な女だけの主張ではなくなってきている、ということでしょう。
フェミニズムは、もはや「学ぶ」時代ではなく、誰もがそれを実践して生きている時代になりつつある。
たとえば、ファミリーレストランハンバーガーショップなどで女子高生が四、五人集まって何を話すかといえば、もう男の悪口のオンパレードです。「あいつ笑える」とか「きもい」とか「ばかじゃねえの」とか、まわりの男たちのようすを微に入り細に入りチェックし、聞いているみんなが「受けるう」と言ってはやし立てる。そのにぎやかなこと。みごとに「検閲」し、「処罰」している。彼女らの男をチェックする視線は、じつに高度で辛らつです。
それに比べたら、男子なんか、あまっちょろいものです。誰がかわいいとかブスだとかいまいちだとか、類型的で全然迫力がない。
主婦のグループだって、亭主や男一般の悪口の交換会みたいなものになる場合が多い。
いまどき亭主ののろけ話をする主婦なんかいない。彼女らに、養ってもらっているという意識は希薄です。亭主を飼っている、と思っているだけです。亭主なんか、猟犬みたいなものです。
いまや、女子高生や専業主婦でもフェミニズム思想を持っている時代です。
彼女らは、男と対等になりたいのではない。男を「検閲」し、「処罰」しようとしている。良くも悪くも、それが男に対する愛のかたちなのだ。
したがって、かつてのヒステリックでとんちんかんだったフェミニズムの言説こそ、もっともラディカルだったのです。それこそが、正統的なフェミニズムの遺産なのだ。
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男女の性差などない、と言ってもせんないことです。
男の気を引こうとするファッション情報が売り物の「キャンキャン」という雑誌がもてはやされている時代です。もしかしたらむかしよりももっと男と女の関係が気になっている時代であるのかもしれない。
彼女らは、男と対等になりたいのではない。男を「検閲」し、「処罰」したいのだ。
女は、ペニスを「検閲」し、「処罰」する。
男は、女にフェラチオをさせるとき、女を征服している心地になる。
しかしそのとき女は、征服されていると自覚しているのではない。自己処罰しているのだ。そして同時に、ペニスを処罰している。
深くくわえ込むことは、深く自己処罰することであると同時に、深くペニスを処罰することでもある。そうやって、射精=死に追い立てている。
西洋では、フェラチオの文化が古くからあった。
もしもそれが男の征服欲だけでなされるものなら、男尊女卑のアジアでこそ発達してしかるべき文化でしょう。しかしそうはならずに、レディファーストの文化の、女が生意気でヒステリックな西洋で発達したということは、それが男が女を征服するためだけの行為ではないことを意味する。
その行為の本質は、女の自己処罰とペニスに対する悪意にある。
西洋の女の、男に対する悪意の根は深い。
男尊女卑だから男に悪意を持つのではない。男がちやほやしてくるからだ。男がちやほやしてくるということは、女にとって自己処罰の機会が奪われることを意味する。だから西洋の女たちはたぶん、みずから進んでペニスをくわえ込んでいったのだ。そうやって、みずからに刑罰を課した。
セックスをおぼえた女の多くが、誰から教えられたわけでも、男に命じられたわけでもないのに、いつの間にか自分からペニスをくわえ込むようになってゆく。
フェラチオをされるということは、それだけ膣挿入の機会が後回しになってじらされることです。下手したら、そこでもう射精してしまうこともある。
女は、フェラチオだけで射精させてしまうことに、ひそかな快感を抱いている。現代のフーゾク産業でそれが定番のサービスのひとつになっているのは、女にとってそれがちょっと楽しい行為だからでしょう。70年代にあらわれた「ピンサロ」は、まさにそのサービスが売り物だったわけで、そこから一気にフーゾク産業が多様化していった。
女がちやほやされる時代になって、日本でもフェラチオの文化が定着していった。
西洋でフェラチオが発達したのは、レディファーストの文化が基礎になっている。それは、男の征服欲を満たすための行為として生まれてきたのではない。生意気でヒステリックな女が進んでしていったのだ。
レディファーストの文化だからこそ、西洋の女の男に対する悪意の根は深い。
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働くことは、自己処罰する行為です。だから、家事によっては自己処罰できなくなった女たちが、私たちにもやらせろ、と主張するようになってきた。
その女たちが、男社会を「検閲」し難癖をつけるのは、フェラチオをするのと同じです。彼女らは、自分たちがしいたげられていることを発見することによって自己処罰の快楽を汲み上げている。自分をしいたげられた存在に置くことが、フェラチオの快楽です。だから西洋の女は、これ以上無理だというところまで喉の奥深くペニスをくわえ込む。日本の女がそこまでできないのは、単純に喉の構造だけの問題ではない。社会の構造の問題なのだ。
女は、ペニスを「検閲」する。口にくわえ込んで「検閲」している。気に入ったペニスなら、深くくわえ込むことができるし、射精したものを飲み込むこともいとわない。そうやって自己処罰しながら、快感に打ち震えている。
女は、うっとりと見とれるということをしない。つねに「検閲=チェック」している。男だけでなく、自分じしんの体もさらに入念に「検閲=チェック」する。
そして「処罰」する。「処罰」して、はじめて自分を忘れる。自己処罰することができるからこそ、自分を忘れて深く快楽の中に沈んでゆくことができる。
それに対して自己処罰できない男は、つねに自分にこだわって生きている。自分をしっかり持っているといっても、自分に甘いだけのこと。女たちがそういう男たちに違和感を覚えるのは、当然のことです。
自己処罰できない男は、女によって処罰してもらう必要がある。そうしないと、どこまでも「自我」が肥大化していってしまう。フェラチオは、女による男を処罰する行為なのだ。西洋の女の歴史は、男にやられっぱなしだったのではないはずです。男がちやほやしたからこそ、女の自己処罰の衝動がひとり歩きし、みずからペニスをくわえ込んでいったのでしょう。
フェミニズムとは、男を「検閲」し「処罰」する運動です。その理論がとんちんかんだろうとなんだろうと、「検閲」し「処罰」することが大切だった。
女はすでにみずからを「検閲」し「処罰」している。「検閲」し「処罰」することが女の生きる流儀なのだ。
女子高生のグループがまわりの男たちを細かに「検閲」して悪口いいまくるのも、彼女らがすでにみずからを「処罰」している存在だからです。たとえば、真冬でも短いスカートで太腿の肌をさらすことは、自己処罰する精神においてはじめて可能になる。そして自己処罰できない男たちに、うんざりしている。
彼女らは、男子を呼び捨てにする。それは、ちやほやしてもらうことを拒否している態度です。そうして、うっとりと眺めるよりも、「処罰」することを選択した。フェラチオとまでは言わないが、まるで手のひらの中のペニスのように男子たちをもてあそんでいる。
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