気まぐれで、今日だけタイトルを変えてみました。
迷惑とは、迷い惑う、ということです。僕は、途方にくれている。みんなは僕のことを、「おまえの内田批判の態度は下品だ」というけど、内田樹氏の書くものを読んで、誰も僕ほどには「そんなくだらないことばかりいうのはやめてくれよ」と悲鳴を上げてはいないでしょう。
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女にののしられたら言い返したって無駄だ、抱きしめるかひざまずくしかない、と前回書きました。
僕は「ジェンダー・トラブル」を肯定する。たとえそれがどんなにとんちんかんでヒステリックなことであっても、肯定する。困ったものであっても、肯定する。内田氏は、そういうことを言ったりしたりする女性を批判していい気になっているが、そのていどの批判をしていい気になっているなんて、よほど頭が悪いか人間が下品な証拠だと思う。
それらが理不尽で筋が通らないことくらい、僕にだってわかる。しかし、人はなぜそんな理不尽で筋の通らないことを平気で主張するのだろう、という問題は、内田氏がごたくを並べるていどの反論ではちっとも説明がつかないのですよ。
僕は、内田氏がまちがっているとは必ずしも思わない。ただ、安っぽくてていどの低いことばかり言ってやがる、と思うだけです。
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女はもともと体温の上下動が激しい体質をもって生まれてきます。
だから感情の起伏も激しいのだが、その体質のために、むかしは乳幼児の死亡率も女のほうが高かった。
女は、生まれたときから、自分の身体に煩わされて生きている。だから、身体に対する悪意が、男よりもずっと強い。
そして、思春期がくると、月経が始まる。
ますます身体が鬱陶しくなる。
女は、みずからの身体を処罰する。
一部の若い女性による手首を切りたがる傾向だけでなく、子供を産もうと決心したり子育てをしたりすることだって、ひとつの自己処罰であろうと思えます。
あんな恐ろしいことをよくできるものだ、と思う。自己処罰の衝動なしにはできないことでしょう。そして女は、その恐怖を快楽に変えてしまう。
子供を産めば、体型は大きく崩れる。
乳房のかたちが自慢だった女性が、子供におっぱいを吸われてぺしゃんこにしぼんで垂れてしまうことだって、けっしてめずらしいことじゃない。
女にとって子を産んで育てることは、とてもリスキーな行為です。
しかし、女の体の美しさというのは、男が感じているだけで、女じしんにとってはそれほどでもないらしい。
銭湯で自分の体を鏡に映してじっと眺めている男って、けっこう多いですよ。たぶん、女よりも男の方がそうした傾向は強いのではないだろうか。
女の場合はただチェックしているだけだが、男は、うっとりと眺めている。
女はそれが男にアピールできるものだという自覚はあっても、ギリシア神話ナルキッソスのように、自分自身がうっとり眺める対象にはなっていない。だから、子を産んで体型が崩れることを怖れないのでしょう。
女は、「検閲」し「処罰」することを習性として持っている。
化粧をすることも、自己処罰だといえなくもない。
自分の体を徹底的に支配し管理しようとする。
そういう衝動がですよ、いったん男社会に向けられたら、そりゃ強引でヒステリックにもなるでしょう。
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村上春樹は僕の大好きな作家であるが、「女は何を欲望するか?」で内田樹氏が引用している「海辺のカフカ」の部分は、ちょっと気に入りません。
あるフェミニストのグループが四国の古い図書館にやってきて、女性専用のトイレがないとか閲覧カードの順番が女の著者は後回しになっているとか、いろいろクレームをつけるのだが、図書館員の男はむっとして、こう反論します。
「・・・・・・もちろん不備はあります。限界だってあります。しかし及ばずながら精一杯のことはやっているのです。僕らができないでいることを見るよりは、できていることのほうに目を向けてください。それがフェアネスというものではありませんか。」
これは、ちょっと違うと思う。この図書館員は、自分たちが社会の正義を背負ってやっているという甘えがある。この世の中には、どんな理不尽なクレームを受けても、ひたすらごめんなさいと謝るしかない立場の職業についている人は、いくらでもいる。「できていることに目を向けてくれ」なんて、甘ったれているし、それじたい他者を支配しようとしている。どこに目を向けようと、他人の勝手です。
フェミニズムのこうした「検閲的なマナー」に救いはなく、フェミニズムをますます退潮化させる原因になっている、と内田氏はいうのだが、たぶん退潮化なんかしていない。こうした態度は、すでにフェミニズムだけでなく、社会全般に広がっている。「一億総クレーマー時代」などという人もいる。
べつに、フェミニズムがクレームをつけたがりの風潮をつくったのではなく、時代がそういう傾向になってきたのでしょう。そういう時代には、フェミニズムもそういうかたちであらわれてくる、というだけのことでしょう。
フェミニズムは、「退潮化」したのではなく、一般社会に「定着」したために目立たなくなっただけだ。
戦後の資本主義経済の拡大とともに起こってきた時代の検閲的な風潮を女がいちはやく察知してフェミニズム運動が起こり、やがてその検閲的な態度が一般化したためにフェミニズム運動が目立たなくなってきた。
女はもともとみずからの身体を検閲して生きているために、「検閲的なマナー」を習性として持っている。
たとえば、自分の出したうんちをそのつどまじまじと見て自分の健康状態をチェックする。こういうことが習慣になっている女性はけっこう多い。しかしたいていの男は、そんなことはようしない。
これは、厄介な問題です。内田氏が、本を出版して、こうすればいい社会になる、ニートやフリーターなんかろくなもんじゃない、といっていることだって、ひとつの「検閲的なマナー」です。
その図書館員がヒステリックなフェミニストに対して「できているところに目を向けてくれ」と言ったこともまた、「検閲し返すマナー」です。
内田氏や図書館員が、俺は正しいことを言っている、と正義ぶったってだめです。みんな正義ぶっているのです。
正しいかどうかなんか、誰にも決められない。正義ぶるかどうかの問題なのだ。
内田氏を先頭ランナーとして、誰もが正義ぶる世の中になった。
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女は、自分の体を検閲し、処罰する。そしてそれが、女の快楽になる。
ヴァギナの中にペニスを入れることも、ひとつの自己処罰です。ペニスを入れることにしても子を産むことにしても、男が体験すれば恐怖と苦痛だけであろうことを、女は快楽にしてしまう。
もちろん出産の苦痛は並大抵のことではないにちがいない。それでもたいていの女が、また産みたいと思う。男だったら、二度とごめんだと思うはずです。
それほどに女は、自分を処罰しようとする。
検閲し処罰することが、女の生きる流儀なのだ。
だからペニスも、徹底的に射精に追い込もうとする。手と口とヴァギナで。
女がペニスを舐めまわしたりくわえ込んだりするのは、ペニスを「検閲」している態度なのだ。それは、男にやらされているのではない。たいていの女は、その行為を、教えられなくても自分からおぼえる。自分からやりたがるようになる。
女にとって、ペニスを握りながら眠りにつくのは、とても安心することらしい。しかし男は、いい気になってはいけない。それは、処罰の対象を手のひらの中に確保していることの安心なのだ。
女が結婚したがるのは、幸せになりたいからではない。みずからの処罰を体験し、処罰の対象を確保する場だからだ。子を産み育てることが幸せなことなものか。だから、結婚を目前にした女が幸せという価値だけでそれを考えようとするとき、マリッジ・ブルーに浸されてしまう。いったいどこに幸せにあるのか、と。
女にとっての結婚が本質的に自己処罰だから、見合い結婚とか政略結婚というものが成り立っていたのだ。だから、恋愛結婚するもののほうがマリッジ・ブルーにかかりやすい。
結婚に「幸せ」なんか何もない。自己処罰して「不幸」になる恍惚があるのだ。
「勝ち組」「負け組」という。子を産んだ主婦には、私たちのほうが「恍惚」を知っている、という優越感がある。私たちのほうが幸せだ、というのは、たんなる「たてまえ」にすぎない。だから、ほんとにそのことを知っている主婦は、けっして自分が「勝ち組」だとは思わない。
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女はけっして男に同情しない。男にとって耐えがたい苦痛のほとんどが、女にとっては快楽だからだ。
家庭の主婦は、毎日満員電車に揺られて会社に行くお父さんを尊敬しているが、同情なんかちっともしていない。
フェミニズムの女性たちは、妻が夫を尊敬するという関係は男社会の悪しき習慣だというが、尊敬するということじたいが男に対する悪意なのですよ。
働くお父さんは、尊敬され感謝されているが、けっして同情はされていない。むしろ、うらやましがられている。もちろん主婦の仕事よりも楽そうに見えるからではない。逆に、その行為が自己処罰の衝動なしには成り立たないほどにしんどいものであることがわかるからです。
現代の家事仕事は、電化製品の普及などによって、ずいぶん楽になってきている。家事仕事が楽になったからこそ、お父さんの苦行をうらやましいと思うようになってきたのです。
そうして、その苦行を男の手から奪おうとするフェミニズム運動が盛り上がってきた。
社会的な仕事なんか苦しいだけなのだから、何も女が欲しがらなくてもいいじゃないかと内田氏はいうが、そういう問題ではないのです。苦しいから欲しがるのであり、家事仕事が楽になって自己処罰の要素が希薄になったからです。
男と女の生物学的な差異はないというが、膣の中に硬くなったペニスを入れるという行為は、自己処罰の衝動が旺盛な女でなければ快楽に変えることはできない。
男は、膣の中にペニスを埋め込むというセックスは、怖くてようしない。
そして子を産んだ女は、膣=からだの中に異物があることの恐怖と快楽をとことん知ってしまった存在です。だから、子を産んだあとの女は、急激にセックスの快感と欲求を深くしてゆく。
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ペニスが膣の中に入っているとき、女はたぶん、膣の中の肉や皮膚を感じているのではない。入ってきているペニスだけを感じている。
その部分は、子宮も含めて、女として暮らしてゆくことの鬱陶しさをたくさん抱えている。しかしペニスだけを感じていれば、そうした鬱陶しさは消えてしまう。もともと子供が生まれてくる部分なのだから、そんなに敏感なところではないはずです。ただもう血や体液の分泌で穢れてしまっているという、存在そのものに対する鬱陶しさ(悪意)がたまっている。その鬱陶しさが、ペニスばかりを感じることによって消えてしまう。
それは、肉のよろこびではない。肉が消えてしまうよろこびなのだ。
動物のメスは、年に一度の発情期のときだけしかオスにセックスさせてやらない。それは、その時期性器が充血して痒くて鬱陶しくてたまらなくなるからです。そういう鬱陶しさがなければやらせてあげる気になんかならないし、そういう鬱陶しさはやらせてあげれば消える。
そうして人間の女は、日常的にそうした鬱陶しさを膣の中に抱えている。直立二足歩行の姿勢になったことによって女のその部分は、完全に外界との関係が遮断したところに押し込められてしまった。だから、どんどん鬱陶しさがたまってゆく。二本の足で立って膣の中にに鬱陶しさを溜め込んでいるから、人間の女はいつでもやらせてくれるのであり、いったんそうやって「浄化作用(カタルシス)」を体験した女は、いつもやっていないといられないようにもなる。
たとえば、抱き合ったり触られたりしているうちに愛液で濡れてくる。その濡れていると気づいたときの鬱陶しさは、ただ濡れているというだけの鬱陶しさではない。その部分の存在そのものに対する鬱陶しさ(悪意)がよびさまされるのだ。そうして早くペニスだけを感じて忘れてしまいたいと思う。
ほんとにその部分の肉や皮膚が敏感で気持いいのなら、ペニスが入っているとき、じっとしていようとするはずです。それが、いちばんみずからの肉や皮膚を感じる方法です。しかし彼女らは、じっとしていない。硬いペニスに引っ掻き回されて、ペニスばかりを感じていようとする。
そのとき彼女は、みずからのその部分を「処罰」している。
女にとっては処罰されることが快楽なのだから、男に対する愛の表現も、とうぜん処罰しようとするかたちを取る。
ジェンダー・トラブル」は、彼女らの愛の表現なのではないだろうか。だから、どんな理不尽な言いがかりでも後ろめたさがない。
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