この世界には「性秩序」というものがある、と内田樹氏はいっています。
「性秩序」なんて、よくわからない言葉です。
男がいて、女がいる。男と女に分けることによって、この世界が成り立っている。とりあえず人間は、そういう関係構造をつくることによってこの世界が運営されている、ということでしょうか。
男と女がいることが「秩序」になっているとか、この世界はなんとかうまく運営されているとか、こういう言い方というか発想は、すごく傲慢だと思います。
たったひとりの異性によって人生がめちゃめちゃになってしまった人はいくらでもいるはずです。そういう人にとっては「性秩序」とはいったいなんなのだ、という話です。
同様に、先進国が安定繁栄し、後進国が困窮混乱しているということだって、両者に相関関係がまったくないわけでもないのだろうし、先進国だろうと後進国だろうと、生きてゆくことが困難でつらいと思っている人にとっては、この世界が健全に運営されているという実感など持ちようがない。彼らにとって世界のありさまは、理不尽な嵐でしかない。
「性秩序」が存在するとか、この世界が健全に運営されているとかということは、この世でいちばん困り果てて生きている人にしか言う資格はないのだ、と僕は思っています。
「性秩序」をほしがっている人間やつくろうとしている人間はたくさんいるだろうと思います。しかし「性秩序」すなわち「男と女」のことを正確に語れる人間などどこにもいない。
家の中でも外でもいばり散らして生きている親父もいれば、角が生えた女房の前で小さくなっているお父さんもいる。そんなお父さんにとって性は「秩序」ですか。
百人の女を好きになったからといって、その百人がみんなやらせてくれるわけではない。ひとりもやらせてくれないかもしれない。それが、「秩序」ですか。
遠い昔には、世界中の女がみんな「やらせ女」だった時代があったかもしれないのですよ。
とくに男と女のことに関しては「わけわからんよ」と思うことはいっぱいある。
一夫一婦制なんか、ただの混乱かもしれない。
いい女(男)かどうかの基準がものすごくややこしくなってきて、それは混乱かもしれない。そんなものないほうがずっとすっきりしている。
おっぱいの触り方の上手な男がいて、下手な男もいる。おっぱいなんか触られても感じない女もいれば、ものすごく感じてしまう女もいる。べつにSMをやっちゃいけないという決まりもない。ホモやレズだって、ありだ。人間のセックスのやり方なんか、まったく混乱している。
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「性秩序」なんて、パスポートや戸籍だけの話じゃないのですか。
みなさん「我が家の性秩序は健全に機能している」と思ってらっしゃるのだろうか。
「この世の性秩序は健全に機能している」、と思ってらっしゃるのだろうか。
なにが「性秩序」なのか、あなたはちゃんと説明できますか。
内田氏によれば、われわれの誰もが「性秩序の牢獄」の中で暮らしているのだそうです。
フェミニストたちが性についての膨大な言説を生産し、それに応えて、たとえば私が今このような本(「女は何を欲望するか?」)を描いていることは性秩序が絶好調に機能していることの際立った兆候なのである」
と言っています。
ここで彼は、性という概念に対して「自由」か「とらわれてしまっているか」という基準で語っています。
しかしねえ、僕は、「性」という概念そのものがよくわからないのですよ。
「自由である」と思えるほどわかっていないし、「とらわれている」と思えるほどその「檻」の形をうまく認識できない。
「オスとメス」なら、多少はわかりますよ。でも「男と女」というのは、そんな簡単なものじゃないでしょう。
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僕は、性秩序などというものは存在しない、と思っている。
そんなものは、猿の世界の「オスとメス」の話だ。
「オスとメスの秩序」が存在するだけで、それは「男と女の秩序」ではない。
戸籍やパスポートは、「オス」か「メス」かですんでいる。
しかし世間の暮らしというのは、それだけではすまない。
「男と女」の世界というのは、「秩序」という言葉で片付けられるほどかんたんなものじゃない。
僕は確かに「オス」ですよ。しかし「男」かといわれれば、どうもよくわからない。
フェミニズムの女性たちだって、自分が「女」であるということがよくわからないから、そのことについてあれこれ議論しているのではないのですか。
「性秩序が絶好調に機能している」から、あれこれ「性についての膨大な言説」が生産されているのではない。「絶好調に機能」していたら、そんな議論などする必要ないし、いちいちそんな議論に関心を示さない。みんなそのことについての認識が不安で混乱しているからこそ、それらの言説が次々に生み出されてくるのではないのですか。
60年代から70年代にかけて、「同棲時代」という言葉が流行った。それは、同棲が若者だけの風俗で、彼らにはその関係に対する混乱や不安がおおいにあって、いろんなドラマが生まれていたからです。ところが現代のように誰もが簡単に同棲できる「絶好調」の時代になれば、そのことに対する議論などほとんど出てこない。まあ、そんなようなことです。「絶好調」だったら、議論なんかしないって。
ようするに内田氏は、「男と女」という概念がどういうものであるのかということをちゃんとわかっているつもりらしい。それだけ「人間」というものを見くびっている。「わからない」ということに身悶えしたことがないのですよ。
「わからない」からすばらしいんだ、なんて彼はよく言うのだけれど、それはつまり「わからない」ことがどういうことかわかっているつもりでいるということです。
「わからない」ことは、「わからない」のですよ、内田さん。
人間は、「わからない」という事態に対して「嘆く」ようにできているし、それが「知」というはたらきの原動力になっているのではないのですか。
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原初の人類は、直立二足歩行をはじめることによって、「オスとメス」の世界を捨てて「男と女」の世界をつくり始めた。
メスはオスに従属して子を産み育てるという猿の世界をいったん解体して、女は女として自立した。
なぜならそのとき人類は、二本の足で立ち上がることによって胸・腹・性器等の急所をさらす姿勢になり、いったん誰もが「弱者」になってしまったからです。
しかもそれは、四足歩行よりはるかに不安定で、動きも緩慢になってしまうし、ぶつかり合えばかんたんにこけてしまう姿勢です。
であればメスはもう、強いオスの庇護のもとに生きてゆくという選択ができなくなってしまい、「女」として自立するしかなかった。
言い換えれば、オスだってそうやって弱みを見せてふらふら立っているだけなのだから、力ずくで制圧される心配もなくなった、ということです。
しかもメスは、二本の足で立ち上がることによって性器を隠すことができるようになった。もう今までのように、いきなりうしろからずぶりと突き立てられる心配がなくなった。
それに対してオスは、いちばんの急所であるペニスと陰嚢(きんたま)を無防備にさらしてしまわねばならなくなった。
二本の足で立ち上がることによって、女は、外にさらされていた性器が隠れるようになった。男は、隠れていた性器がさらされてしまった。そうやってメスはちょっと強気になり、オスはかなり弱気になった。そういう状況として、人間の「男と女」の歴史が始まったのです。そういう関係によってどのような文化が生まれてくるのか、これはかなり興味深い問題です。
とにかくそれは、「秩序」から「カオス」の関係に移行してゆくことだったはずです。
さらには、年に一度の発情という「秩序」から、日常的な発情という「カオス」の日々へと移行してゆくことでもあった。
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ジュディス・バトラーというフェミニストの女性が、こんなことを語っています。
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被抑圧者の名で抑圧者を解放することを避けるために、法の複雑さや巧妙さを完全に把握し、法のかなたの本物の身体という幻想から脱却することが必要なのである。もしも撹乱が可能となるなら、それは法の次元の中からの撹乱であり、法が法自体に挑戦し、それ自身の予期しない組み合わせをおびただしく生産する可能性をつうじてなのである。そのとき文化によって構築される身体は「自然な」過去や始原的な快楽に向かってではなく、文化の可能性という開かれた未来に向かって、解き放たれることになるだろう。
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内田氏は、この言説をけちくさいへりくつを並べて批判しています。
しかしここで言われていることは、とても正しいことだと思えます。たしかに「法」などというものは「ほんものの身体という幻想」としての「オスとメス」のレベルでしか人間を扱っていないのです。そしてこれを「撹乱」して「カオス」の状態の持っていくことこそ人間的な「男と女」の世界へと解放する行為であるといえる。つまりそれこそが、「予期しない組み合わせをおびただしく生産する可能性」を持った男と女のカオスの世界であり、「文化の可能性」なのだということです。
「(男と女の)文化」は「自然な過去や始原的な快楽」に向かうことじゃないといっているのは、まったくその通りだと思えます。そんなものは「オスとメス」の世界なのだ。
「法」のがわからすれば、「ちんちん」をもっているか「おまんこ」なのかということだけが問題なのであり、それらをつなげと子供をつくってくれればいいだけです。「法」なんて、そのていどの論理しかもっていない。しかし彼女は、そういう「秩序」を「撹乱」して「人間性」を取り戻そう、という。それはたぶん、正しい。
戸籍やパスポートの「法」の世界ではちんちんとおまんこをつなげることだけしか想定していないが、「男と女の世界」では、キスもすれば、フェラチオやクンニリングスもする。そういうことをおぼえれば、男どうし女どうしのセックスだって可能になる。それでいいんだ、と彼女は言っている。
内田氏はこのことを、なんと批判しているかというと、「法」のことを「法」の言葉を使ってけなしているだけだから、それじたい「性秩序を再生産している」に過ぎないという。どうです、けちくさいへりくつだと思いませんか。
「男の覇権と異性愛権力を支えている自然化され物象化されたジェンダー概念、ジェンダーを現在の位置にとどめようとする社会構築されたカテゴリーを流動化させ、撹乱、混乱させ、増殖させることによって、ジェンダー・トラブルを起こしつづけていこう」という彼女の主張にたいして、内田氏はこう言う。「どうしてこんなステレオタイプなことを言ってしまうのだろう。流動化とか撹乱とか増殖というような言葉など、それじたい秩序を強化すること以上の意味など持ち得ないのだ」と。
つまり内田氏は、「オスとメスの秩序の世界」と「男と女のカオスの世界」ということに対する想像力がまったくないのですね。
すくなくとも彼女は、はっきりとそのイメージを持っている。彼女がなぜ「流動化、撹乱、増殖」といった言葉を使ったのか、内田氏はまるでわかっていない。自分の都合のいいように料理して「大して意味がない」と切り捨てただけです。失礼な話です。
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内田氏によれば、人類における「男と女という二項対立」の概念は、「男と女を差異化することで出現した」のだそうです。
想像力の貧困なナルシストが、なにをステレオタイプなことを言ってやがる。
「男と女」という概念は、「オスとメス」という差異が消失したところから生まれてきたのだ。そのとき人類は、「オスとメス」というデジタルな「二項対立」の概念を解体し、「男と女」というアナログな連続性を持った「カオス」の概念として「再編」していったのだ。
この世界にはちゃんと「性秩序」が出来上がっていると主張する内田氏は、したがって「ジェンダー・トラブル」というものを否定する。
「性秩序が出来上がっている」なんて、猿の「オスとメス」の世界の話です。
女を女として規定するなんて、「他者」を見くびる習性がしみついたナルシストの発想です。
相手は、よく考えたら「女」かどうかわからない。自分自身が「男」かどうかわからないのだもの、僕にはわからない。
というわけで僕は、それがどんなにとんちんかんな主張であっても「ジェンダー・トラブル」を否定しない。それは、本来的な「カオス」を再編しようとする行為なのだ。
「オスとメス」の世界は「秩序」を持ち、「男と女」の世界では「カオス」が再編されてゆく。
僕が女房にののしられるのも、一種の「ジェンダー・トラブル」でしょう。僕は、子供のころの母親に始まって、いつも女にののしられながら生きてきたような気がする。それはたぶん、やつらには僕という生きものが不可解だからです。もちろんそこには幻滅もあるにちがいないのだけれど、こちらだって向こうのことがわからないのだから、とりあえずは、ざまあみやがれです。
そりゃあしんどいことはしんどいけど、ののしられることによって僕は、ああこいつ女だな、と確認する。
女にののしられたら、言い返したって無駄です。抱きしめるかひざまずくしかないのだ。
「性秩序は絶好調に機能している」なんて、猿並みの想像力しか持っていない人間の言うせりふなのだ。そんなものは「女は子を産む機械だ」と発言した政治家のそれとすこしも変わりはしない。
僕は内田氏ほどのナルシストではないから、男と女が、そんなにかんたんに疑いようもなく差異化されているとは思わない。
オスとメスであることなんかかんたんなことだけど、男と女であることは、僕にとってはかなりハードでシビアなわけのわからない事態であり、しかしそれを肯定する。
まあこれ以上続けると愚痴っぽくなりそうだから、このへんでやめておきます。
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