「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・13 自己実現

自己実現をめざして何が悪い。
自己実現なんてくだらない、と内田樹氏はいう。
脳みその薄っぺらなやつが、何をほざいていやがる。
スポーツ選手がナイスプレーをする。これは、自己実現でしょう。
働くことにだって、ナイスプレーはある。
そういう瞬間は、誰だって持ちたいでしょう。そういう瞬間を持とうとすることが、「自己実現」をめざす、ということです。
内田氏はこれを、芸術家が作品を作ることにたとえて説明しています。つまり、若者がすぐ会社を辞めるのは、名人の陶工が出来上がった陶器を気に入らないと言って投げ捨て割ってしまう行為に似ている。働くということにそんな観念生活を求めるなんて幼稚すぎる、というわけです。
そうやって他人を安く見積もってさげすんだような目で見るのが、この人の常套手段です
仕事がそんなレベルの行為でないことくらい、若者だってわかっていますよ。だいいち会社勤めはチームプレーです。名人の陶工の暮らしと違うくらい、小学生でもわかることです。
何をくだらないこと言ってやがる。
彼らは、ただ「ナイスプレー」がしたいだけです。ナイスプレーができる職場で働きたいと願っているだけです。
ナイスプレーをしたいと願うのは、人間であることの属性でしょう。人間は、ナイスプレーをすることの「ときめき」を知ってしまった。
おもしろいことを言って受ける。これは、ナイスプレーです。
彼女と出会って、可愛いなあ、洋服のセンスがいいなあ、と感心する。これは、ナイスプレーと出会うことのときめきです。
おしゃれをするとは、ナイスプレーをする、ということです。
人間はそういう存在だからこそ「恋」というときめきを体験するのだ。
若者が「自己実現」を目指すとは、そういうことなのですよ。わかりますか、内田さん。
彼らは、ナイスプレーをしたがっているし、他者のナイスプレーと出会いたがっている。それが、自己実現をめざす、ということです。
そういう自己実現としてのナイスプレーこそが、商品の価値であり、資本主義の原理というものでしょう。われわれは、そのように「自己実現」が氾濫している社会を生きているじゃないですか。
ホリエモンは、場外ホームランを打った。みごとなシュートを決めてみせた。悔しいけど、ひとまずそういうことでしょう。
ただ衣食住のことだけを生産する人間よりも、なんの生産性もなしに「ナイスプレー」ができる人間のほうがたくさんお金を稼げる社会にわれわれは生きているじゃないですか。
そういう社会に生きている若者を「額に汗して働くことの尊さ」だの「他者への献身」だのという薄っぺらなごたくを並べてこき使おうなんて、あなたは言うことが下品であくどすぎるのですよ。
そんな薄っぺらなりくつではもう働けない社会になってしまっているのですよ。
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ナイスプレーが生まれるときとは、どんな瞬間だろうか。
力んで狙いすましてシュートしたからといって、必ず入るとはかぎらない。
ナイスプレーをしたときというのは、たいていあとになってどうしてあんなことができたのだろうと、自分で自分におどろくことの方が多い。言い換えれば、それくらいの状態にならないと、ナイスプレーなんてできるものじゃない。それはたしかに自分の実力なのだけれど、実力以上のプレーだともいえる。
「火事場のばか力」という。自分を忘れてしまっているときの方が、思わぬ力が出たり、思わぬプレーができたりする。
無心になること。体が勝手に動いてしまうようにしてナイスプレーが生まれる。
素人は、けんめいに自分の意志で自分の体を動かそうとする。しかしプロは、体が勝手に動いてしまうようになるまで練習する。
お笑い芸人のギャグだって、受けようとがんばるとあんがい滑ってしまうことが多く、つい口をついて出てきてしまっただけのギャグが大受けしたりする。そういうときに彼らは「神が降りてきた」という。
どんなにいい服を着ていても、私はがんばっておしゃれしてます、という自意識が透けて見えるような着こなしでは、少しもかっこよくない。
かっこいい着こなしとは、どんな高価な服であろうと、まるでユニホームのように当たりまえの顔をして着て見せること。
だから、たいていのスポーツ選手は、がんばって高価な服を着ておしゃれしている姿より、ユニホーム姿の方がずっとかっこいい。
ユニフォーム姿とは「自分」を消している姿であり、自分を消すことがナイスプレーをすることです。
ナイスプレーのときめきは、自分の意志で身体を動かすことにあるのではなく、自分忘れて身体が勝手に動いてしまう瞬間にある。
運動神経の鈍い者ほど、自分の意志で体を動かそうとする。体が勝手に動いてしまうことが、ナイスプレーであり、そのとき意識は体のことを忘れている。
ナイスバッティングとは、意識がボールにうまく反応することであって、体をうまく動かすことではない。体なんか勝手に動いてくれる。体を動かすことに気持が奪われていると、ボールに対する反応がおろそかになる。体のことなんか忘れてスムーズにボールに反応できたときに、ナイスバッティングが生まれる。
ナイスバッティングは、ボールとの出会いのときめきから生まれる。
つまり自己実現=ナイスプレーとは、自分を消すことです。自分を消すことが、自己実現です。
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人にはやさしくしなければならない、やさしくできる自分はやさしい人間だ、と自覚している人がいるとします。そんな人から、どうです私はやさしい人間でしょう、という顔をしてやさしくされて、うれしいですか。
そんなことを何も自覚していない人から、当たりまえのような顔をしてされた方が、ずっとうれしいでしょう。
内田氏は、「愛する」ことは至上の行為であるといい、自分は「あなたなしでは生きてゆけない」と思うほど他者を愛していると自慢する。そんな愛を告白されて、あなたはうれしいですか。彼に興味があるのは、「愛されている自分」と「愛している自分」だけなのですよ。
「愛されている自分」も「愛している自分」もどうでもいい。「私」が気になるのは「あなたが輝いている」ということだけだ、という態度には、愛を至上の価値とする自覚などない。
「自分」のことなど忘れて、ひたすら他者が輝いていることにときめく。それによって他者に愛されることができるかどうかはわからないが、そんなにも他者の存在に感動できれば、それはもう、ひとつの自己実現でしょう。
近ごろの若者は、擦り切れて破れたジーパンをはいている。それは、「ユニフォーム」のタッチです。そうやってがんばっておしゃれしようとする自意識を消去してゆく。それは、がんばってなんかいないよ、という表現なのです。へそや太腿をさらすことだって、恥ずかしがる自分を消去することの上に成り立っている。
彼らは。「自分を消す」というタッチを持っている。そういう若者たちのいう「自己実現」とは何か、ということです。
すくなくともそれは、内田氏の短絡的な分析で説明がつくことではない。
アロマセラピストやトリマーになりたいという。それは、「ナイスプレー」がしたいという衝動であり、自分を忘れて何かに夢中になりたいという願いです。べつに、働いている自分にうっとりしたいということではない。そういう充足はたくさん金を稼いでいるものほどしているわけで、何もわざわざアロマセラピストになんかなる必要はない。
若者が「自己実現」というとき、自分を消して世界が輝いて見える体験をしたい、という願いがある。彼らは、自分を消して「ときめきたい」と願う。自分を消してときめくことが「自己実現」だ。
それに対して「愛している自分」と「愛されている自分」を追求することが人生の目的である人に、どんな「ときめき」があるでしょう。
内田氏は、他者から「愛され、承認され、欲望される」ことに気づくこと、生きることはそういう自己確認を収穫してゆくことだ、といっています。
そんなふうにえげつなく生きているのは、自意識過剰なあんたくらいのものさ、とわれわれはいいたい。
この人はたぶん、そうやって自分を確認することの満足や充足はたっぷり味わって生きてきたのだろうが、そのぶん他者にときめくという体験は希薄なのでしょうね。
他者に「ときめく」ためには、「愛している自分」も「愛されている自分」も確認することは不可能なのです。なぜならそのとき「自分」が消えているからです。
他者にときめくことは、「愛している自分」や「愛されている自分」を確認することの充足から見離された人や、そういうことに興味のない人がいちばんよく知っているのです。
たとえばすぐ男にだまされるお人よしの「やらせ女」は、「愛されている」ということも「愛している」ということも確認しない。ただ相手の男が「すてき」だとうっとりしてしまうだけです。それだけでやらせてあげる。彼女は愛を知らない。知っているのは「世界は輝いている」ということだけだ。
僕は、「愛」がどうちゃらこうちゃらと吹きまくる内田氏より、そういう「やらせ女」のほうを尊敬する。