「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・12 労働のストレス

大企業に入れば、労働は「自己実現」であるという青臭い幻想など、あっという間に粉砕されてしまう。だから彼らは、3年もすれば会社をやめてしまうことになる。労働の意義はそんなもんじゃない。「労働の成果を他者と分かち合う」という意識をもてなければ長く働きつづけることはできない・・・・・・と内田樹氏はいう。
そしてニートやフリーターは、自己実現幻想におぼれた者のなれの果てであるのだとか。
いってくれるもんだ。
誰もが望んだ通りの仕事をさせてもらえるわけじゃない。しかしやめていくのはそれだけが理由ではない。そうやって、いやな仕事をやらされているうちに、大人や社会に幻滅してゆく、ということもある。
もともと仕事に自己実現を託した人は、ニートにはならない。なんとか自己実現になる仕事はないかと、いくつかの職場を変わりながらも働きつづける。そうして、最終的に見つけたり妥協したりしてゆく。
たとえば、若者どうしで小さな会社を立ち上げたりするのは、自己実現と同時に、大人に幻滅したということがばねになっている場合が多い。それは、大人に支配されたくないという気持からのこともあれば、金儲けよりもささやかなりとも何かをつくり上げたり社会に直接的に貢献したりしていきたいということもある。
内田氏は、すぐ会社をやめる若者は働くことに対する考えがまちがっているからだというのだが、まちがっていたっていいのです。人間が働かねばならないことは理不尽なことだし、何かしら慰めやいいわけは必要です。貧しかった時代ならともかく、とにもかくにも豊かな時代なのだから、ただ黙って働くというわけにはいかない。人それぞれに見合った慰めやいいわけはあっていい。
若者たちがすぐ会社をやめるということには、たんなる労働意欲の問題だけではなく、目に見えない世代間の対立が潜んでいるということもあるにちがいない。
内田氏が「労働の意義」を説いたり、コミュニケーションの本質を「贈与と返礼」の問題で語ったりするのは、あまり品のいい思考態度だとは思えない。「意義」や「贈与」などという価値概念を振りかざす思考は卑しい。気味が悪い・・・グロテスクだ・・・若者が大人と向き合うときも、おそらくそのよう気分があるのでしょう。それは、労働の現場や家族内において、もっともラディカルに意識される。
近代合理主義の限界が見えてきたというのなら、現代の若者と大人たちによる世代間の対立は、まさしくそういうかたちで起きているのではないかと思えます。
いや、対立しているというより、両者は違う人種であることが浮かび上がってきている、ということでしょうか。
若者は、そういう近代合理主義的な価値概念から解放されて、もっと端的に生きたいと願っているのではないだろうか。
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自己実現だろうとなんだろうと、働くことに対するモチベーションを持っていればとにかく働きつづけるのだが、ニートになる人は、自己実現よりも気持よく働きたかっただけの場合が多い。多くを望まないものは、踏ん張る力も弱い。彼らはそこで、ただもう働くことの「穢れ」を強く意識してしまう。
内田氏は、働くことの意義は自己実現などではなく、もっと別のところにあると説く。しかし彼らは、働くことの意義そのものに躓いてしまっている。働くことの意義そのものを疑っている。
内田氏がなんといおうと、働くことの意義はもう、取り返しのつかないところまで疑われてしまっているのだ。
皮肉たっぷりな次の意見を、われわれはどう受け止めればいいのだろうか。
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 久しく労働は、(主観的には楽しくても、制度的には)義務であり、苦役であった。
 しかし今、労働は創造になった。
 そのせいで仕事をする人々はその定義上、仕事を通じて絶えず自己実現の愉悦と満足にうちふるえていなければならなくなった。
 過酷な条件である。
 絶えず創造しつづけ、絶えず快楽に打ち震えていなければならないという重圧に耐えかねた創造的労働者たちの中から「自分らしい作品ができないくらいなら・・・・・・」と沈黙と無為の道を選ぶようになる者が出てきても怪しむには足りない。
 ニートやフリーターは、この「創造的労働者」の末路だと私は考えている。
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あほらしい。こんな若者ばかりであるはずがないじゃないですか。たしかに現代の若者は多かれ少なかれそういう傾向を持っているのだろうが、その観念だけに凝り固まって生きているわけでもないでしょう。一部の凝り固まった若者を読者と一緒にばかにして笑おうというわけですか。けっこうなご趣味だ。
若者だっていろいろだし、この分析が現代の若者の本質を射当てているとも僕は思わない。こういう批判的な意見が受けるのは、そういう若者がときどきいて、俺はあいつらとは違う、という安心を与えてくれるからでしょう。
内田氏によれば、いまどきの若者は、受験や就職活動を通して結果が自分に届けられる労働しか知らないから、「報酬はつねに集団によって共有される」という社会的な労働の現実と出会ったとき、その落差に嫌気がさしてすぐやめてしまうことになるのだそうです。
あなたは、どうしてそんなふうに他人を安く見積もるような見方ばかりするのか。そうやって自分が優秀であることを確認してゆくなんて、げすな根性だ。
そんなことくらい、たいていの若者が知っていますよ。お金お金の世の中で、子供の頃からお金を扱い慣れているし、アルバイトの経験もあるのだし、仕事や報酬の仕組みについては、昔の若者よりずっとよく知っているはずです。
知っているからこそ、多少は創造的な部分も欲しい、と思っているだけでしょう。要は、気持よく働きたいということ。
彼らは、内田氏がいうほどお金や名誉に執着しているわけではない。
彼らを追いつめているのは、そんな「創造的労働」に対する執着ではなく、「スケジュールという未来」や「他者という未来」という、「いまここ」の向こうから迫ってくるものとの「関係」につながれてしまうことのストレスではないかと思えます。
未来のスケジュールや他者との関係を持っていることは、最初はよろこびです。社会の動きに参加していることの証しです。しかしそれが、しだいに意識の底でストレスとなって蓄積されてゆく。
「今ここ」を喪失することは、生き物としてのレベルにおいてはストレスになる。「今ここ」を消去して活動してゆく社会(共同体)的な自分と、個人的な生き物としての自分との桎梏。それが、体の変調に現れてくる。
「創造的労働者」であろうとする夢が破れたからとか、そんなお気楽なことではない。生き物としての生存の問題なのだ。「近代=現代社会」のシステムは、生き物としてのリズムを壊してしまう。働いていれば、誰もが、そこをどう踏みとどまるかという問題の場に立たされる。そして敏感な若者ほど、そのストレスをつよく負ってしまう。
仕事に「今ここ」が見えないということ。そして、プライベートな時間の「今ここ」における自分の心や体さえもそうした仕事のスケジュールに侵食されていったときに、やめようかな、と思う。
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大人は、若者ほどそういう問題に悩んでいない。社会(共同体)的であること、すなわち未来のスケジュールを持ち他者との関係を深くすることじたいが自己実現だと思っている。彼らはすでに生き物であることのおおかたを棄てて、社会的な存在になりきっている。なりきろうとしている。
しかし若者は、生き物であることを捨ててはいない。そんなにかんたんに、まるごと観念的な存在にはなれない。なりたくない。
彼らが未来のスケジュールからプレッシャーを受けているとき、大人たちは、何をそれくらいなことを、という顔をして、さらにスケジュールを押し付けてくる。上司は、そのスケジュールを部下にやらせることによって消化しようとする。やらせることが彼の仕事なのだ。しかし部下は、自分がやらなければ消化できない。
スケジュールのプレッシャーの多くは、部下の若者に集中してゆく。
会社づとめには、そういうストレスだってあるでしょう。そしてそれがいちばん大きいわけで、そのストレスを宥めるために彼は精神安定剤を飲んでいるのであって、「自己実現」の夢が叶えられない不満のためではないはずです。というか、こんなストレスを受けつづけるくらいならもっと別のところで自己実現を目指したほうがましだ、と思ってしまうのでしょう。
たとえば、こんなことよりレストランで皿洗いのバイトをしながら友達とバンド活動したいとか、老人介護のボランティアをしてみようかなとか、そういうやめかたを、おまえら労働の意義がわかっていないなどとよくいえるものだと思います。
それは、「自己実現」というより、自分を捨てて何かに夢中になってみたいという衝動です。そうやってそれまでの労働の「穢れ」を拭い去ろうとするのでしょう。
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ともあれ、「自己実現」を目指してなにが悪い。
「他者のために働く」とか、「他者と労働の成果を共有する」とか、そんなおためごかしの「愛」などより、「自己実現」を目指すほうがずっと清潔だし本質的だと思います。けっきょく内田氏は、「愛」といいながら、「コミュニケーションの本質は<贈与と返礼>にある」などと、損得勘定のことばかり問題にしている。銭勘定も、他者と共有すれば、その薄汚い意識が免罪されるのか。
内田氏のそんな言説より、ニートやフリーターが「金のことより自己実現だ」といっているほうが、ずっと清潔じゃないですか。