「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・11 雑感

文明=知とは、内田樹氏のいうような、「デジタルな二項対立の擬制」であるのか。
それとも「アナログな連続性」をイメージしてゆくことか。
これは、人間性としての「言葉」とか「所有」の概念とか「共同体」とか「貨幣」とかの起源とも関わる問題のはずです。
ソシュールの限界は、言語を「デジタルな二項対立の擬制」としてとらえたことにある、と僕は思っています。そしてそれは、ソシュールのその定義を錦の御旗のようにふりかざしながら「二項対立の擬制」に居直るところが、内田氏の、どうにも始末の悪い限界でもある。
擬制」といってしまえば、自分の何もかもが免罪されると思っていやがる。自分だけは無傷であるかのような顔をしていやがる。世の中の人は、その「擬制」とやらを「穢れ」と自覚して煩悶している。われわれは、そうやって居直ることができるほどの詐術的な思考回路を持っていない。「穢れ」は、「禊(みそぎ)」という自己処罰をしてそそぐしかないと思っている。そうやって若者たちは、恋人を抱きしめ抱きしめられしているのだ。
「女は何を欲望するか?」の中で内田氏は、「テキストを読む」という行為の本質について、西洋の現代思想をあれこれ引っ張り出してきて説明してくれるのだが、基本的な自分のスタンスというのがなくて受け売りばかりだから、もう支離滅裂です。
内田氏はこういう。
_________________________________
読みに先立って「主体」が存在するわけではない。読み手の主体性あるいは「アイデンティ」は、テクストを読みつつ形成されるのである。
「主体は、世界のうちに属するのではない。それは、世界の境界なのである」というウィトゲンシュタインの言葉は、おそらくこのような事況を語っている。主体とはあらかじめ自存するものではなく、臨界体験がもたらす「境界」感覚の効果に他ならない。
_________________________________
つまり、ソシュールがいったように、「言葉によって世界は分節されるのだ」、と言っているわけです。
言葉がなければ、われわれは世界を分節することができない。言葉によってわれわれは、世界を分節している「主体=アイデンティティ」を獲得する、というわけです。
問題は、ここからです。
内田氏は、ソシュールレヴィナスという「テキスト」を読んで、ああそうか、と納得するものがあった。「これいただき」と思った。そうしてそのときから彼は、ソシュールレヴィナスのように考える「主体」になった、というわけです。
つまり、ソシュールレヴィナスの「テキスト」と出会う前の内田氏は、そんなことはなんにも考えていなかった。「テキストを読みつつ主体が形成される」というのなら、そういうことでしょう。
「テキストを読む」とは、そういう行為でしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は、レヴィナスに「始原の遅れ」といわれたとき、それによってそのことを知らされたのではなく、すでに自分が感じている(=知っている)ことを言葉にしてもらった、と思っただけです。
哲学者とは、人間の誰もがすでに感じている(=知っている)ことを「言葉」にしてみせる人のことです。彼らが誰も感じていない(=知っていない)ことを感じている(=知っている)のではない。
逆にいえば、レヴィナスからそう言われたからといって、次の日からレヴィナスのように感じたり考えたりする人間になれるわけではない、ということです。
内田氏なんて、「これいただき」でものを言っているだけなのですよ。上の引用文は、そういう彼の本性をさらけ出している。
レヴィナスを読めば、自分もレヴィナスになったような気分になれるのだそうです。そうやって彼は「主体」を形成しているのだそうです。
ご立派なことです。
僕は、「テキスト」を読んでも、自分がすでに知っていることに「気づく=言葉にする」ということ以上の体験はようしない。
そのへんが、優等生と劣等生の差ですかね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ウィトゲンシュタインの言う「主体=境界」とは、「意識」はどこで生成しているか、という問題のことでしょう。
われわれの「意識」は、脳とくっ付いてはたらいているのではない。世界と身体(=脳)の「境界」ではたらいている。
われわれはすでに「言葉という状況」を世界と身体のあいだに持っている。テキストの意味は、その誰もが「自分史」として持っている「言葉という状況」というフィルターを通して脳に入ってくる。
脳のはたらきは、単なるレセプターにすぎない。「主体」とは、「私」のもうひとつ上にかぶさっている「フィルター」なのだ、ということです。「私=脳」は、何も知らない。われわれの「知」は、「意識というフィルター=主体」を通して生成している。
「主体」がテキストを読む。テキストを読んで「主体」になるのではない。そんなこと、当たりまえじゃないですか。「これいただき」と思ってレヴィナスになったようなつもりになっている自分が「主体」であるのではない。「これいただき」と思ってしまう「主体」がすでにある。
われわれの「主体」はすでに<境界>において形成されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
レヴィナスを読めばレヴィナスになれると思っていやがる。どんなに頭がよくったって、その人の「自分史=言葉という状況」以上のことを知ることはできないのです。上の引用文は、内田氏の「自分史=言葉という状況」がそのていどのものだということをよくわからせてくれる。彼は「始原の遅れ」という実感をはじめから持っていたのではない。レヴィナス先生に言われてその気になっただけです。だから「主体は読みつつ形成される」などという。
つまり彼は、「言葉によってはじめて世界は分節される」といいたいのです。われわれは、熊と鹿という言葉を持っていないと熊と鹿の区別がつかないのだそうです。ばかばかしい。そんなことくらいカブトムシだってできるさ。そんなことのために言葉が生まれてきたのではないでしょう。
レヴィナスを読んでレヴィナスになった気になることくらい、猿でもできる。
われわれは、「すでに知っている」ことをレヴィナスと共有する。哲学者だって、人間が知っていること以上のことを知る能力なんか持っていないのです。レヴィナスを読んだことがあるからといって、なんの自慢にもならない。われわれは、「すでに知っていること」以上のことを知る能力を持っていないのです。
哲学者は、人間として「共有」していることを語っているだけなのです。
たとえレヴィナス先生が言うことであろうと、われわれだって「すでに知っている」のです。レヴィナスを読んだことのある者だけがレヴィナスのように考えることができるのではない。逆にいえば、レヴィナスのように考えていなかったからこそ、レヴィナスになったようなつもりになれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉は、すでに知っていることの上に生成しているのであって、言葉によって何かを「知る」のではない。
「主体」は、「テキストを読む」ことによって形成されるのではない。われわれはすでに「境界」において「主体」を持っているのであり、その「主体」によってテキストが読まれる。脳が読むのでも「私」が読むのでもない。「私」と「世界=テキスト」との「境界=主体」が読むのだ。
「林檎」と書いて「りんご」と読む。それをある日私が発見したら、そこで「主体」が形成された、ということになるのか。そうじゃない。それは、「りんご」という言葉を知っている「主体」がなければ、ぜったい気づくことはできない。「りんご」と読むことのできる「主体」がすでに形成されていたからだ。
読んでから「主体」が形成されるというなら、「りんご」という言葉を知っている当のものはいったい何なのだ、ということになってしまう。
言葉によって世界を分節することなんか不可能なのです。熊と鹿は別の動物だ、ということをすでに知っていなければ、熊と鹿が別々の言葉として生まれてくる契機はぜったいに存在しない。すでに知っていたから、熊と鹿という別々の言葉が生まれてきたのだ。
言葉は、世界を分節化する「原因」ではなく、すでに分節化されてあることの「結果」なのだ。同様に、テキストを読むことは、主体を形成する「原因」ではなく、すでに主体が形成されてあることの「結果」なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
西洋の「グレイ」という色は数種類しかないが、日本の「ねずみ色」は「藍鼠」とか「黄鼠」とか「利休鼠」等々、もう何十種類もある。
それは、日本人がそういう感覚を持っていたからであって、そういう言葉が先にあったからではない。つまり、それらの何十種類を「鼠色」の範疇に入れてゆくかたちでそれらの言葉が生まれてきたのだ。それは、デジタルに「分節化」したのではなく、「アナログな連続性」として「鼠色」が「共有」されていったのだ。
意識は、「図」と「地」を同時に認識することはできない。これは、ゲシュタルト心理学の常識です。つまり意識は「図」と「地」をすでに「分節化」しているということだが、だからといってわれわれ人間の意識がすでに言葉に染められているということを意味するのではない。なぜなら、猿でもそのように見ているからです。「敵と味方」「オスとメス」「食えるものと食えないもの」、そのような「図」と「地」をちゃんと分節している。人間になるとは、そのような二項に連続性を見つけてゆくことであり、それが人間的な「知」という働きです。
世界は、分節化したかたちで意識の前にあらわれる。分節化してあることの上に言葉が生まれてきた。「熊」という「図」が表れ認識されているとき、「鹿」という「地」は意識されていないのです。
あらかじめ分節化されてあるのが「世界」です。われわれはもともと生き物として、世界をそのように見るかたちで存在している。そしてそこから「人間化」してゆくとき、「知」によって世界を連続性として組織してゆく。
世界はまず「意味」として立ちあらわれる。その「意味」をずらしたり消去したりして世界を「再編」してゆくことが、「人間化」することであり「知」のばたらきなのだろうと思えます。
人間は、世界を「組織(オルガナイズ)」する。
それは、世界に「意味」を与えることではなく、あらかじめ存在する「意味」を消去したりずらせたりすることです。
「鼠色」を「分節化」するのではない。すでに分節化されて見えているそれらの色を「鼠色」として「組織(オルガナイズ)」してゆくのが人間的な「知」のはたらきであり、「言葉」なのだろうと思えます。
そのとき日本人は、数十種類の「鼠色」を「組織(オルガナイズ)」したのであって、「分節化」したのではない。すでに分節化されてあったそれらの色を、「鼠色」として「組織=再編」していったのです。
原初の人類は、言葉とともに「意味」を生み出していったのではない。すでに存在している「意味」を「組織=再編」していったのだ。
言葉は、「意味」を生み出す道具ではない。意味を「再編(もしくは消去)」する道具なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新しく生まれる「意味」などというものはない。世界はすでに「意味」に覆われている。
猿の世界だって、「強いもの=弱いもの」「食えるもの=食えないもの」「オス=メス」「敵=味方」「快=不快」等々の二項対立の「意味」に覆われているのです。
言葉は、対象に「意味」を与える道具ではない。対象がすでに持っている意味を「表現」する道具なのだ。したがって言葉と対象との関係は「意味するもの=意味されるもの」という関係ではなく、意味を「表現するもの=表現されるもの」という関係になる。
やまとことばの「くま」は、「怖い」という意味です。それは、熊そのものよりも、熊と出会った人間(主体)の感慨を表現している。
「ベア」といえば、いかにも毛むくじゃらの大きなものという感じだが、「くま」という言葉にそんな響きはない。古代の日本列島では、「怖い」という意味で、海や神のことも「くま」といったりした。このことが何を意味するかというと、すなわち言葉によって「主体」が形成されるのではなく、「主体」が言葉を形成するのだ、ということです。
熊と神と海というまったく別々のものが、「くま」という言葉で「組織(オルガナイズ)」されてゆく。それは「分節化」することではけっしてない。すでに分節化している「主体」があり、分節化している社会的な「合意」があるから、それらを同じ言葉で「組織(オルガナイズ)」してゆくことができるのだ。
「ベア」と言って毛むくじゃらの大きなものをイメージしてそののちに怖がる「主体」が形成される、と内田氏はいいたいのだろうが、毛むくじゃらの大きなものと表現することじたいに、みずからを毛むくじゃらの大きいものではないと自覚する「主体」がすでに存在している。
西洋人にとっての「主体」は自己意識だが、日本人にとっての「主体」はみずからの感慨である、そういう違いがあるだけで、言葉が「主体」を形成しているのではないということにおいては同じです。「主体」が言葉を生むのだし、「テキストを読む」のだ。
自分とは何ものかと問う人種は「べあ」というし、自分は何を感慨するかと問う人種は「くま」という。そういう「主体」の違いがあるだけのことだ。自分とは何ものかと問うから、その時点でまだ「主体」が形成されていないように見えるが、じつはそうやって問うことじたいがすでに「主体」によってなされているのです。
われわれは「テキストを読む」ことによって「主体を形成する」のではない。「すでに形成されてある主体」を「再編」するのだ。
誰もがすでに「自分史としての言葉の体系(組織)」を持っている。テキストは、この体系(組織)をフィルターとして読まれる。そうして「主体」が「再編」されてゆく。
内田氏は、西洋思想の受け売りで「テキストを読む」ということを説明してくれる。それは、近代かぶれした彼自身がすでに西洋人のように自分とは何かと問う「主体」に染め上げられているからだ。
「主体はテキストを読みつつ形成される」といえば、いかにも無垢な自分で読んでいるかのように聞こえるが、テキストを読みつつ形成される「主体」まで欲しがるなんて、それほどにえげつなく「自分=主体」に執着しているだけのことだ。
「主体」は、すでに「境界」で形成されてある。自分は何ものかとわかることが「主体を形成する」ことではない。自分は何ものかと問うことじたいが、すでに「主体」によってなされているのだ。
「主体」は、形成されるのではない。すでに「ある」のだ。「主体」が機能していない「読み」なんかあるはずないじゃないですか。そんなものは、無垢をよそおったナルシストの思い込みの中にあるだけだ。
内田氏は、「テキストを読むという行為は主体の<懇請>とともになされる」といいながら「主体はテキストを読みつつ形成される」などともいう。まったく、二重にも三重にも「主体=自分」を欲しがって、ずいぶん欲深な「主体」でいらっしゃる。
西洋人は自分のことに対するこだわりが強いから、熊のことを、熊と自分との違いを強調して「ベア」という。それに対して日本人は、熊との出会いの体験にこだわって「くま」という。
われわれは、内田氏のように「自分は愛されているか」とか「他者に承認されてあるか」とか「他者に欲望されているか」などということは問わない。自分はどれだけ深く他者に対する感慨を持つことができるか、ということを問う。日本人は、もともとそういう民族なのだ。自分とは何ものかということなど、どうでもいい。どうでもいいと思う「主体」がすでにある。