「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・10労働の意味

何はともあれニートや引きこもりの若者たちの多くはみずからの「穢(けが)れ」を自覚しているが、内田樹氏をはじめ多くの大人たちは穢れを自覚していない。
「穢れ」とは、自分の性格のネガティブな部分のことではない。世界との関係がネガティブになることです。つまり、世界が美しく輝いて見えなくなってしまうこと。そういう、生きてあることの疲れや畏れのことです。
世界との関係がスムーズに流れていると感じられるとき、穢れの自覚はない。もしもそういう状態だけで生きていられるのなら幸せであるが、それは、世界が美しく輝いて見えることもない状態になってしまっていることでもある。
たぶん世の大人は、仕事のときもプライベートの時間も、つねにスムーズな世界との関係を保って生きている。だから、「穢れ」の自覚がない。「穢れ」の自覚がないから、「穢れ」が祓われるという体験もない。
世界は、「穢れ」が祓われたときに輝いて現れる。
そのとき人は、世界との関係をいったん解消し、あらためて世界と出会っている。
しかし「穢れ」の自覚は、ときに危険です。強く意識しすぎると、精神は錯乱もしくは停滞し、機能不全に陥ってしまう。つまり、穢れたままになって、世界との関係を解消できなくなってゆく。
大人にこき使われているだけの若者にとって、社会との関係は、つねに「穢れ」です。そこから私生活に戻って世界の輝きを体験する。しかし社会との関係で大きく失敗して追いつめられると、もはや私生活での街の景色や人の顔まで怖くなってきて、引きこもるしかなくなる。
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「引きこもり」とは、すなわち「忌みごもり」です。
「穢れ」を祓うために、一定期間、自分で自分を社会から隔離すること。たとえば、お寺に行って一週間かひと月くらい修行してくるとか、そういう習俗が古来からあった。
俗世間の垢にまみれて暮らしていると、自分の心が危機に陥っているなと感じられてくるときがある。そんなときに「忌みごもり」に入る。
むかしの人は、社会生活をいとなむことは「穢れ」だと思っていた。しかし現在の大人たちは、むしろ穢れていない自分を保つことだと思っているらしい。社会生活から脱落していったものだけが穢れているのだと思っている。社会生活そのものが穢れだとは思っていない。
内田氏の書くものを読めば、それがよくわかる。彼は、自分が穢れているなんて、つゆほども思っていない。ニートや引きこもりの若者を穢れた人間だといい、自分が社会に適合していることを正義のように言い立ててくる。
しかし、穢れている人間などいないのです。穢れている、という「自覚」があるだけです。若者は、この社会のなかで穢れていっているという自覚を持っているがゆえに、世界が輝いて見える体験もする。
ともあれ、深く穢れていると自覚してしまった人間には、「忌みごもり」は必要です。
ぎりぎりまで社会に踏みとどまったあげくに、統合失調症分裂病)になったり自殺してしまったりするよりはいいでしょう。精神安定剤を片手に必死に踏みとどまっている若者はたくさんいる。彼らは、仕事がつらいのではない。穢れてゆくことの自覚から逃れられないから、眠れなくなったりしてしまうのでしょう。
仕事がつらかったり能力がないのなら会社をやめることもできるが、たぶんそういう問題ではない。「穢れ」の自覚、それが彼を追いつめている。
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内田氏は、「現在の若者たちは労働の意義を間違って自覚している。それは、自己実現などというものではなく、他者と労働の成果を分かち合うよろこびにある」というようなことをいっている。
そう自覚すれば気持よく働くことができるからすぐ会社をやめなくてもすむのだそうです。
労働の意義がなんであろうと、そんな理屈をおぼえたからといって、彼における労働の日々の実感を変えられるものではないでしょう。
「穢れ」を自覚するとはつまり、一日中仕事のことで頭の中がいっぱいで、ものを考えられなくなってくるとか、彼女の笑顔に反応できなくなるとか、そういうことです。「他者と労働の成果を分かち合っている」というごほうびがあれば、そんな人間になってしまってもいいじゃないか、ということでしょうか。まあ、収入も確保されていることだし。
社会に自分をそっくり売り渡して、「穢れ」の自覚とは無縁の人間になること。そうすれば、とりあえず過労死するまでは働き続けることができる、というわけです。
養老孟司先生が、定年で大学を辞めたあとにとてもさっぱりした心地の日々を体験し、女房はこんな楽しい生活を何十年もつづけてきたのかと思ったら愕然とした、といっている。
僕の知り合いのサラリーマンだった人も、自分が今までいかにストレスの多い生活をしていたかということがよくわかった、といっていました。
仕事をやめれば、世界は輝いて見えるのです。
「穢れ」が、祓われるのです。
そうやって世界が輝いて見えることを体験してしまった人間は、そりゃあニートにも引きこもりにもなるでしょう。
労働の意義をああだこうだと講釈したってせんないことです。
働かなければならない状況に置かれたら、いやいや働くだけです。
働くことは穢れるだけでなんの意味も意義もないけど、働かなければならないのなら、働くしかない。それだけのことでしょう。庶民はみんなそうやって働いているのだし、それが「労働の意義」とやらに酔って働くことより低級なことだとは、僕は思わない。
本当に結婚しなくてもいいのなら、本当に老後がしんどくてもかまわないのなら、働かなくてもいいのです。そのことを、他人がとやかくいう筋合いじゃない。「労働の意義」がどうとかと、えらそげに日本を背負ったような物言いされたって、しらんぷりしとけばいいだけです。
労働の意義がどうのとほざいて世界との親密な関係に自分を売り渡している人間には、ニートや引きこもりをすることの「嘆き」はわからない。
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働くことは愛か。
そんなわけないじゃないですか。金を稼ぐために働くだけです。
ただ、それだけではしんどいから、仕事を遊びのようにしたり、自己実現とか愛のためとかそんな理由付けを持とうとする。
われわれからすれば「自己実現」だろうと「愛」だろうとたいして違いやしないと思うのだけれど、内田樹氏は、そんなものじゃないという。
「私たちの労働の意味は<私たちの労働成果を享受している他者が存在する>という事実からしか引き出すことができない」のだそうです。
だから、みんなそう思って働け、というわけです。内田氏がそういえば、みんなそういう気になるとでも思っているのでしょうか。日本中の人がそういう気になって働くようになるとでも思っているのでしょうか。
なるわけないじゃないですか。
だいいち、見えない他人に何かを与えているという自覚に満足しようなんて、いやらしいスケベ根性です。何様のつもりか。そんなもの、自分を正当化するためのただのへりくつじゃないか。それが真実なら、あなたに教えてもらわなくても、とっくに誰もがそういう気持になっている。僕は、頭が悪いから、そんないやらしい人間になんかようならない。
愛だろうと自己実現だろうと、けっきょく「自分のため」でしょうが。
だったら、「私は誰に何を与えたのでもありません、ただもう金欲しさでこの仕事をしただけです」、と言っているほうがずっと清潔だと思う。
「与える」という意識なしに差し出せなければ、それはたぶん「愛」とはいえないのだ。
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ギリシア神話の「シジフォス」という神は、大きな岩を山の頂上まで転がして運び上げ、その岩がまた麓まで転がり落ちていって、また運び上げる、ということを永遠に繰り返さねばならない刑罰を受けた。
絶望的な行為です。
しかしこれは救済でもある、と「シジフォスの神話」を書いたカミユはいった。
そのときシジフォスには、過去も未来もない。同じ行為を繰り返すことによって、つねに過去は消去されてゆく。そして未来は、過去に戻ることでしかない。未来もまた、つねに消去されつづける。
未来も過去も侮蔑すること、侮蔑によってによって乗り越えられない運命はない、という。
彼には、石を運んでいるという「今ここ」しか確かなものがない。そこまで「今ここ」を生ききることができるということは、「救済」ではないのか、せっかくこの世に生まれてきたというのに、そこまで確かな「今ここ」とわれわれは出会っているだろうか、とカミユはいう。
未来なんかどうなるのかわからない時間のことなのだから、この仕事の成果を受け取るであろう未来の「他者」のことなんか想定してもせんないことです。そんな他者を実感しようと思ったら、内田氏と同じくらい自己陶酔していける能力を持たねばならない。かんたんなことじゃないですよ。あなた、自信ありますか。
未来も過去もない、自己も他者もない、自分さえも忘れて「今ここ」と出会っている状態であることができたら、つらい仕事にも耐えられる。つらい仕事だからこそ、何もかも忘れて「今ここ」に抱きすくめられてしまいたい。
われわれは、そんな気分で働いているのではないだろうか。
そんな状態のときだけ、仕事のつらさから解放されているのではないだろうか。
妻や彼女の顔が浮かんだら、早く帰りたい会いに行きたいと思うし、そうすれば、こんな仕事などやってられないという気にもなる。そういうことも忘れて、ただもう無防備に「今ここ」に入り込んでしまっている状態こそが、仕事のつらさから解放されている瞬間なのではないだろうか。
労働の意味に陶酔して働いている人間なんか、内田氏をはじめ、ほんのひとにぎりです。そこまでのナルシストに、誰もがなれるものじゃない。おまえもそう思えといわれても、僕はごめんだし、とてもそんな心境にはようならない。
僕は、たとえ頑張って働いても、誰にも何も与えないし、誰のことも考えない。自分のことも考えたくない。
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毎朝ビルの掃除をしている人たちがいる。
彼らがけんめいに磨いた床を、9時を過ぎれば、ビルの社員たちが土足で行き交う。
で、また次の朝けんめいに磨く。
どうせすぐ汚されるだけだと思ったら、こんなことやってられないですよ。彼らは、社員がその上を土足で行き交うことなんか、何にも考えていない。つまり「私たちの労働成果を享受している他者が存在する」ということなど何にも考えていない。考えることそれじたいが憂鬱の種になる。ただもう。「今ここ」の床が輝いてゆくことに心を奪われてしまうことだけが救いになる。それは、いつもやっていることであるがゆえに、昨日のことも一昨日のことも「今ここ」の行為によって消去され続ける。そして、9時以降の未来も他者も存在しない。彼らの労働の成果は、9時以降に踏みにじられる。
彼らは、現代の「シジフォス」です。彼らは、未来という時間を侮蔑している。それによって、9時以降のことも「私たちの労働の成果を享受している他者が存在する」ことも忘れている。「侮蔑によって乗り越えられぬ運命はない」。
彼らの仕事ほど本質的ではないにせよ、人が働くということには、多かれ少なかれそういう要素はあるはずです。「今ここ」の行為そのものに心を奪われること。それによってしか救われることはない。どんな意義も意味も、邪魔になるだけだ。
「私たちの労働成果を享受している他者が存在する」と考えることそれじたいが、下品なスケベ根性にすぎない。そんなことを考えているから、知らず知らずのうちに傲慢になってゆくのです。
与えるものなど何もない、と悟ったとき、人はもう他者の前にひざまずくしかない。
飲食店でお金を払うとき、たいていの若者が「どうもごちそうさま」というのには驚かされます。それは、「私には与えるものは何もない」という感慨とともにお金の意味を消去している言葉です。
「われわれは与えるものなど何もない、ただ祝福し合うだけだ」という日常生活のタッチは、「贈与」だの「返礼」だのと考えているおじさんよりも、いまどきの若者の方がちゃんとわきまえているらしい。
労働の意味を消去することが、労働の意味です。誰もが意味なんかないと思えたときにみんなが気持よく働けるのであって、そんなよけいな意味を問い合っていたら、ぎすぎすしてくるばかりでしょう。