「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か・おまえら働けだってさ
内田樹氏の言う「文明=知は、アナログな連続性をデジタルな二項対立に読み替えることにある」という定義などくだらない。そんなことは猿の考えることであり、それを近代国家や資本主義経済の都合のいいように読み替えたのが近代合理主義なのだ。「強いもの=弱いもの」「食えるもの=食えないもの」「オス=メス」「敵=味方」「快=不快」、そういう二項対立で猿の世界が成り立っている。しかし人間は、食えないものを食えるものに変えてしまう。食うためのみかんを、ジュースや染料にしたりもする。そうやって二項対立を超えてアナログな連続性として考えようとするのが、人間的な「知」のはたらき、すなわち「文明」というものでしょう。
知とは二項対立のことだというのなら、知識人とは戦争ばかりしたがる人種なのか。戦争とは、動物のテリトリー争いを「読み替えた」ものなのですよ。戦争や虐殺は、人間だけがするのではない。チンパンジーだってやっているのだ。動物学者に聞いてみればいい。
要するに「本質」とは何かということ、そういうことを考える能力が、内田氏には決定的に欠落している。
ニートやフリーターなんてお気楽なばかばかりじゃないかというのは、ものごとの表層しかとらえられない薄っぺらな思考力・想像力しかもっていないやつのせりふなのだ。若者がニートやフリーターになることの本質的な問題はどこにあるのか。そういうことを内田氏から学べることなんか何もない。あんな薄っぺらで傲慢な頭になれといわれても、僕はようならない。だから、自分で考えるしかない。
いや「本質論」なんかどうでもいいのですけどね。僕の場合、人間てなんだろう、とつい考えてしまうというだけのことです。そうして、内田氏の本を読んでうんざりしてしまった。まあ、それだけのことなのだけれど、それだけのことでこんなにも大騒ぎしてわめき散らしているなんて、われながらみっともない話です。
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ニートや引きこもりの暮らしを続けているほとんどの若者は、けっして気楽に生きているわけでもないでしょう。自己嫌悪や苛立ちでヒステリーを起こしたり、世間に対する恥ずかしさや後ろめたさや怖さで身動きできなくなったりしているだけかもしれない。
いや、隠れ家に逃げ込んでほっとしているのなら、それはそれでけっこうなことだと思います。
親や内田樹氏をはじめとする世間のえらい人から「おまえら働け」といわれたとき、彼らが腹の底から「知ったこっちゃない」と思ったとしても、僕はそれをよう否定しない。
内田氏は終始、自分はまっとうな人間で、ニートや引きこもりの若者は愚かでまちがった存在である、というスタンスでものをいっている。そういう傲慢さというかナルシズムが、僕はついてゆけない。
自分がまっとうな人間であること、すなわちこの社会の動きに参加して暮らしていることの避けがたい「穢れ」というのはあるでしょう。そういう自覚から免れて生きてゆける人はうらやましい。しかしたいていの人間はそういう「穢れ」の自覚を心の隅に抱えながら日を送っているし、ニートや引きこもりは、それをとくに強く意識した人たちなのだろうと思えます。
働くことのできない身体障害者は、かわいそうな存在であるのか。そうじゃないでしょう。彼らは、働くことの「穢れ」を負っていない清らかな存在です。だから人は、彼らを助けることによって、いささかなりともみずからの「穢れ」をぬぐおうとする。内田氏だって、お金は基本的に「穢れたもの」である、というのなら、金を稼ぐ労働も穢れてしまう行為だという意識のいささかはあってもいいはずです。
しかし彼は、そんな気持はさらさらない。自分こそ公明正大だと思っている。
いいんですけどね。ただ、お願いだからニートや引きこもりの若者をさげすむようないい方だけはやめてくれと、どうしてもいいたくなってしまう。
それなら、俺はあいつらは嫌いだ、といういい方のほうがまださっぱりしている。
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私がニートや「引きこもり」について述べていることは道徳論ではない。
うまく働けない人、社会的な活動にうまくコミットできない人がそれなりに気分よく暮らせる社会のほうがそうでない社会よりもずっと住みやすいことをよろこんで認める。けれども、そういう人がそれなりに気分よく暮らせる社会を維持するためには、一定数以上の市民が額に汗して労働することが必要である。
繰り返して申し上げてきたことであるが、社会的なふるまい方の根本原則はどんな場合も同じである。
それは「世の中がぜんぶ<自分みたいな人間>ばかりになったときにでも愉快に生きてゆけるような生き方をする」ということである。
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ニートや引きこもりが「気分よく暮らしている」とどうしていえるのか。そんなこと、勝手に決めてしまっていいのか。気分よく暮らしている人もいるし、そうでもない人もいるでしょう。だいいち、彼らが気分よく暮らしたらいけないのか。気分よく暮らす権利は、働いているあなたたちにしかないのか。
えらそうに。
彼らがそんな身分でいられるのは、あなたたちが「額に汗して労働する」おかげなのか。よくそんな恩着せがましいことがいえるものだ。
たかが金のことじゃないですか。誰のおかげもくそもないでしょう。
世の中には、コンピューターのキーをひとつ押すだけで1億円ぶん取っている者もいるし、ぶん取られている者もいる。
いちいちそんな恨みがましくて恩着せがましいことはいわないのが「大人のたしなみ」というものでしょう。
そんなことを問題にしてそんな言い方をして、それでも自分は「穢れている」と思わないですんでいるなんて、もうお見事というしかない。
「社会的なふるまい方の根本原則」なんて、そんな大問題を、「俺が教えてやる」というような言い方がよくできるものだ。あなたは「神」か。
「世の中が全部<自分みたいな人間>ばかりになったとき」だなんて、僕にはとてもそんな想像はできない。自分がこの世のまっとうな人間のひとりになれるなんて、思いも及ばない。
いい社会とは、この世の中が「自分みたいな人間」ばかりになることですか。何をえらそうなことを言ってやがる。自分みたいでない人間はぜんぶ排除(=否定)して、ぜんぶ自分みたいな人間に変えてしまうことが、いい社会をつくることですか。
それは、自分が「他者に先行して存在している」と自覚する思想です。この人にとって、人間存在における「始原の遅れ」という事態は、実感でもなんでもなく、たんなる知識に過ぎない。他人をたらしこむためのたんなる知識らしい。そういう便利な道具として「始原の遅れ」という言葉を掌でもてあそんでいるだけのことだ。
他人を自分みたいにしてしまおうとすることしか頭にないから、自分が他人みたいになれないことに身悶えしたことがないのだ。
人間は、自分から逃れて「我を忘れてしまう」ことに快楽をおぼえる存在です。つまり「われを忘れて他者に気づくこと」しかできない存在である、ということです。したがって、自分とはどんな人間かを知ることは、根源的に不可能なのです。そして不可能だからこそ「自分さがし」をせずにいられなくなるわけで、そういう態度に比べたら、自分がどんな人間かをわかっているつもりでいることなど、ただ鈍感で傲慢であるだけのことだ。
ほんとに深く「始原の遅れ」を実感したなら、そんなえらそげなことはいえないのですよ、内田さん。
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ともかく、この世の中には、愉快に生きている人間もいれば、そうでない人もいる。どんな生き方をしようと、それは誰の生き方でもない自分だけのものであり、愉快に生きていければそれでいいというものでもないでしょう。
僕は、自分よりもつらい生き方悲しい生き方をしている人を美しいと思うし、そういう人から学ぶことはたくさんある。
僕は、「世の中が全部<自分みたいな人間>ばかりになったとき」なんか想像しない。この世でもっとも深く嘆いている人のそばに立つことを想像する。
この世の中はまっとうな人間の天下だし、それはもう永久にそうだろうと思うのだけれど、まっとうな人間がいちばん美しいとはぜんぜん思わない。
意識のはたらきの根源が「差異化」することにあるのだとすれば、意識が活発にはたらく契機は、「こんなのいやだ」という「嘆き」にある。
「これでいい」と思ってしまえば、もう「差異化」してゆく契機はない。
愉快に生きてゆければ結構なことだけれど、それだけが生きることの味わいだというわけでもないでしょう。
「嘆き」を抱えているから快楽も深くなるのだし、他者との出会いにときめき祝福してゆくこともできる。つまり「差異化」してゆくことができる。
何はともあれ、まっとうな人間であることの「穢れ」を自覚できないのだとすれば、内田さん、あなただってそうとう鈍感な人間だ。倫理的にではなく、「知的に」問題がある。
ニートや引きこもりが穢れた存在だとは、僕はぜんぜん思わない。穢れているのはいつだって自分ばかりだ、と思っている。