「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・もうひとつついでに

              文明と二項対立
「女は何を欲望するか?」の中で内田樹氏が自信満々に語っている部分についての感想を付け加えておきます。
フェミニズム映画論」という章での話です。
「エイリアン・4」の主人公リプリーは、科学者によって生み出された人間とエイリアンの混血種として登場してきます。
科学者たちはいろいろ試行錯誤して、その中の人間そのもののかたちをした個体だけを世に送り出し、両方の形質が混じっているものはすべて棄却された。なぜならそれらはグロテスクで気味悪いだけだからである。
で、この設定に対して内田氏は、こう解説してくれます。
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古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。・・・・・・「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考パターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのように生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッド(混血種)に恐怖と嫌悪を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。
私たちはハイブリッド(混血種)を「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBでもあるもの」を人間の文明を許容しない。
「そのような境界線は恣意的につくられた擬制にすぎない」という異議はたしかに正しい。しかし「恣意的につくられた擬制でないないような文明は存在しない」という命題も同じように正しい。「文明」とは要するにそこに境界線を引く必然性のないところに境界線を引いて、アナログな連続体をデジタルな二項対立に読み替える詐術に他ならないからである。
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最後の2行は、もう自身満々の大見得で、傍点まで打ってあります。
しかし、安っぽい国粋主義じゃあるまいし、どうしてこんなことを得々と語るのだろう。
現実の世界では、混血美人(=ハイブリッド)は賛美され、集団はたえず外部から新しい血を導入して生き延びようとしてきたのが人間の歴史でしょう。
現代人なんて、みな「ホモ・サピエンス」というハイブリッド(混血種)ですよ。ヨーロッパのネアンデルタールも、アジアのホモ・エレクトスも、みんな「ホモ・サピエンス」の血を導入して現代に生き延びているのです。アフリカ人が世界中に広がって、ことごとく在来種を滅ぼしてしまったわけではないのだ。遺伝子だけが世界中に伝播しただけです。アフリカ人が世界中に広がったのなら、みんなアフリカ人の顔をしていますよ。まあこの話は、ひとことでは語れない。
とにかく人類が地球の隅々まで拡散していったのは、たえず「越境」していったからです。たえず「デジタルな二項対立」を侵犯して「カオス」にしていったからです。
「境界線を引く必然性のないところに境界線を引く」のは「共同体」であり、「貨幣」の性格です。しかしそれは、「文明の起源」でも「知の本質」でもない。
蕎麦屋にカレーライスやラーメンがあっても、誰も怖れないでしょう。ホテルがスキー場を経営していたってかまわないでしょう。品種改良とは、ハイブリッドを生み出すことでしょう。流行だって、ハイブリッドが登場することです。
60年代後半は、大人の長いスカートと子供の短いスカートという二項が定着していた時代でした。そこに、若い娘の「ミニスカート」という大人か子供かわからないハイブリッドが登場してきた。
二項対立によって社会は停滞してゆく。その停滞を活性化するものとしてハイブリッドが登場してくる。領主と農民の二項対立が定着して停滞していったときにロビンフッドというハイブリッドが登場する。こんなことはもう、数え上げたらきりがない。
病人や身体障害者や老人は、いわば「生者であり同時に死者であるもの」、すなわち「ハイブリッド」です。そして彼らと健常者のあいだに境界線を引くことが文明かというと、そうでもないでしょう。病気をなおして病人から健常者に戻るという「アナログな連続性」を考えることによって医学が発達してきた。歩けない人のために車椅子をつくって健常者との「連続性」をあんばいしてゆくことも文明でしょう。
「私」と「あなた」という二項がたがいのあいだに将棋盤やトランプのカードを置いて「アナログな連続性を持ったカオス」の状態になってゆくのは、人間ならではの知的な快楽でしょう。
自然と人工物という二項対立。これが文明ですか。しかしほんらい人工物は、自然との連続性の上につくられてきた。自然から切り離されて独立した人工物など何もない。ガウディの建築が美しいのは、人工物でありながら自然の一部のように見えるからです。巴里のエッフェル塔は、最初は俗悪の権化のように見られていたが、100年かけて自然の一部になってゆくことによって、巴里の美しい景観のひとつになった。
「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが内田氏の思考パターンかもしれないが、それが人間の普遍的な「知」かどうかはわからない。むしろデジタルな二項をアナログな連続性に変えてゆくのが人間の思考がたどってゆくパターンなのではないだろうか。デジタルな人工物そのものだった巴里のエッフェル塔が自然の一部になっていったように。病人を健常者にしようとするように。「私」と「あなた」という二項がたがいの前に置いたトランプや将棋盤によって混沌としたカオスの関係に入ってゆくように。
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「熊」とは、大きくて怖い動物という意味です。鹿とは、山奥の静けさをいっそう感じさせる動物という意味です。べつに、言葉によって熊と鹿を分節したのではない。そんなことは、はじめからわかっている。内田氏の言い方なら、熊と鹿を分けるのが「知」であり、熊と鹿という言葉が生まれたことによってそれぞれを見分けることができるようになったみたいじゃないですか。そんなことくらい猿でもネズミでもできる。そうではなく、熊は熊、鹿は鹿、それぞれに人が出会ったときの固有の感慨があって、そこからそれぞれの言葉が生まれてきたのだ。熊と人の心との連続的なカオスが生まれたときに「くま」という言葉が生まれてきたのです。熊という言葉と鹿という言葉は、AとBという二項対立の記号的な関係を持っているのではない。
言葉は、対象に心を奪われるという、アナログな感慨から生まれてきたのだ。
原初の世界が混沌(カオス)だったなんて、ばかな知識人の勝手な思い込みです。原初の世界こそ、デジタルに分節されてあったのだ。そこにアナログな連続性を持たせていったのが、人間的な知のはたらきだった。
人間は、猿から進化したのですよ。猿の目は、世界を混沌(カオス)のように見ていると思いますか。下等な動物こそ、世界をクリアーに分節していないと生きていけないはずです。草と木、虫と葉っぱ、そんな違いを、われわれよりも正確にとらえているはずです。
また、強い者と弱いものの違いがはっきりしているのが猿の世界です。彼らは知能が低いから、そういうことをはっきりさせないと群れが成り立たない。そんな「二項対立」の世界を捨てて、われわれは「人間」になったのです。
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内田氏は、「あなたのもの」と「私のもの」を分けることが「所有」という行為の起源だと思っているらしいが、そうじゃないのです。そんなことは猿でもしている。
その「もの」に深く執着すること、すなわち「もの」と「自分」とのあいだにアナログな連続性を持った関係を結ぶこと、これが「所有」の起源です。
たとえ自分のものでも、相手が自分以上に深く愛着していることを示してくれば、くれてやる。人間にはそういうところがある。その表現の形見として「貨幣」が生まれてきたのです。べつに「贈与と返礼」などというしゃらくさい行為が起源だったのではない。
ビートルズジョージ・ハリスンは、友だちのエリック・クラプトンが自分よりも深く自分の女房に執着していることに気づいて、女房をくれてやった。それは、とても原始的で根源的な行為なのです。それほどにジョージは率直な男だったし、たぶんエリック・クラプトンも同じで、二人の関係に「二項対立」などという境界はなかった。そのアナログな連続性によって、ジョージが死ぬまで二人の友情は続いた。
「家族」という単位が生まれてきたのは、べつに群れの平和と安定のために女をひとりずつに分配したからではないでしょう。猿の世界と違って、男と女が深く執着しあうようになっていったからです。内田氏の考えることは、ニヒルで下品なのですよ。口先だけで「愛」がどうちゃらこうちゃらと大騒ぎしながら、そのじつ腹の底では人間というものを信じていない。
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幸せと不幸、愛と憎悪、善と悪、生と死、そうやって世界を二項対立の関係に分節してゆくのが内田氏の思考パターンです。幸せは善で、不幸は悪だ・・・・・・この前提で彼は考える。しかし人間は、不幸な人を助けようとするし、不幸な人を美しいと思うこともあれば、不幸と幸せを一緒にして生きていきたいと思う人もいる。不幸を自慢したがる人もいる。人間の「知」は、世界をアナログなカオスにしてしまう。
「知」の最終的なかたちは、二項に分節することが不可能な「わからない」という状態である・・・・・・ということは、内田氏だっていっていることです。どこから仕入れてきたのか知れないけどそういう知識を得意然と語っておきながら、その舌の根も乾かないうちに「二項に切りさばく」のが「知」であるという。
ようするに、上の引用文でいわれていることは、「二項対立」の思考から抜け出せない自分を正当化するためのはったりなのです。
そうしてこの文章の最後に、「エイリアン・4」のラストシーンにこめられたメッセージであり、人間世界の法則でもあることとして、次のように主張する。
アモルファスな世界にデジタルな境界線を引く者だけが生き残る」
何いってるんだか。生き残ればいいってものでもないでしょう。「滅びる」ことの美しさもある。人間は、生き残りたいと思うのと同じくらい、美しく滅んでゆきたいと願っている。二項対立の世界観から抜け出せないハリウッド映画はそういう美しさを表現するのが下手だから、すぐ特撮のパニック映画に走る。そして生き残ることだけが価値(=善)であるかのような短絡的なメッセージをまきちらす。
世界をアナログな連続性を持った「カオス」としてとらえるのが人間的な「知」のはたらきであり、そこから「文明」が生まれてきたのだ。
「二項対立」の思考とは、もともと猿の世界のことです。近代人はそれを、「共同体の制度性」や「貨幣経済の定着」として「読み替える詐術」を止揚していった。
したがって、内田氏の「デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッドに対する恐怖と嫌悪」という説明は、こう言い換えることができる。
「アナログな連続性を無効化してデジタルな対立を回復しようとする共同体の制度性や近代の貨幣経済に対して、われわれはどこかしらで恐怖や嫌悪を抱いている」、と。
ハリウッド映画も内田氏も、あくまで「二項対立」の思考に居直ろうとする。それが、彼らの限界であると同時に、世にはびこるあくどい生命力でもある。
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もっとも原初的な「文明」とは、人類が直立二足歩行をはじめたことでしょう。
それは、群れが密集しすぎてたがいの体がぶつかり合うという状態になったために、それぞれが二本の足で立ち上がってぶつかり合わない「空間」を確保していったのが始まりだろうと僕は思っています。
ぶつかり合えば、自他の境界を強く意識して、「対立」が生まれる。
だから、ぶつかり合わない空間をどうしても確保しなければならなかった。ぶつかり合ったままなら、「強い者=弱い者」の対立が生まれ、「追い出す者=追い出される者」「殺す者=殺される者」という対立が顕在化する。
そういう「二項対立」を回避していったのが、直立二足歩行です。
人間は、「二項対立」を回避することによって「人間」になった。
「私」と「あなた」の関係は、「二項対立」ではない。「あなた」が存在するとき「私」は不在である、という関係です。生とは、死が不在である状態のことです。両者は、二項対立として存在しているのではなく、一方が「不在」の関係である。コンピューターのピットだって、この関係のうえに成り立っているのであり、この関係が「文明」のコンセプトなのだ。こういう話を突っつくと長くなってしまうのだが、とにかくそのような一方が「不在」の「自他(=生死)の関係」を動物的な「二項対立の関係」にしてしまったのが近代合理主義だと僕は思っています。
動物的な二項対立とは、まさに内田氏のいう「境界線を引く必要のないところに境界線を引いて、アナログな連続体をデジタルな二項対立に読み替える詐術」のことです。文明でもなんでもない。猿が群れをつくり、テリトリーを確保する行為と同じです。猿(チンパンジー)だって権力争いをし、戦争をして他の群れの成員をなぶり殺しにするということをしているのです。近代合理主義とは、まさにそれを観念的に「読み替える詐術」に他ならない。つまり、人間性とは人間性を逸脱してゆくことである、という詐術。ヘーゲルにしろ内田氏にしろ、自分たちは人間性を逸脱して(社会化して)神に近づいているつもりかもしれないが、はたから見れば猿の考えていることとたいして変わりゃしない。
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サッカースタジアムに五万人が集まる。こういう状況に置かれたとき、猿なら発狂してしまうのに、人間はなぜ発狂しないのか。
このとき私=Aとあなた=Bは、ともにサッカーファンとして「Aであり同時にBであるもの」というアナログな連続性を確認しあうことによって「対立」が回避されている。そのようなかたちで「自他の境界に境界線を引かない」ことによって5万人のすし詰め状態でも発狂せずにすんでいる。つまり、「境界線を引かない」ことが文明になっている。そうやって「カオス」をつくって熱狂してゆくことが文明になっている。
文明の原点は、おそらくここにある。
人間は、発狂しないで、熱狂する。
セックスだって、発狂とすれすれの熱狂だといえるのかもしれない。
二本の足で立ち上がることは、きわめて不安定だし、胸・腹・性器などの急所を晒してしまうことです。猿の世界が強者と弱者を分けているとすれば、そのとき人間は、誰もが「弱者」になって、その二項対立を消去した。だから、舌なめずりして「デジタルな境界線」など引いている余裕はなかった。そして視界が高くなって、見慣れた視界とはまったく別の新しい世界が目の前にあらわれた。それはもう、めまいがするような「カオス」の世界だったにちがいない。