「ひとりでは生きられなのも芸のうち」か?・・・ついでの感想

「女は何を欲望するか?」という近刊の中で内田樹氏は、こう言っています。
「人間が糧とするのは、食物や生理的安息ではない。人間は他者に愛され、承認され、他者の欲望の対象となることを糧として生きるのである」
こういうくだらないことを自慢げに言われると、殺意すらおぼえる。
「他者に愛され、承認され、他者の欲望の対象となること」など、わかりようもないことです。
えらそげに人の心の中をのぞいてきたようなことばかり言いやがって。
読書の知識だけで人間を分析しようとするから、そういうかたちでしか分析する能力がないから、そんな不用意なことを自慢たらしく言えるのだ。
他者が自分を愛そうと愛すまいと他者の勝手であり、どうすれば「愛されている」とわかることができるのか。「愛しています」といわれても、そんなこと本心かどうかわからないですよ。それが本心であると納得できるのは、聞いているがわに、自分は愛される資格があるという自惚れがあるからだ。自分は人を愛しているというナルシズムがあるからだ。何様のつもりか。
僕は、自分の中で、愛している、と自覚したことなど一度もない。僕の心は、他者に向かうことはない。他者に反応しているだけだ。そしてそのとき他者のことに心を奪われて自分のことを忘れているから、「愛している」自分を自覚することができない。その体験によって僕は他者を記憶することはできるが、そのときの自分を記憶するためのいかなる根拠も持っていない。
僕の心は、すでに他者によって決定されている。
ふと誰かのことを思い浮かべる。それは、自分の心がその人に向かったのではなく、その人の存在が僕の心を揺らしたからだ。愛している自分がそのイメージを呼び寄せたのではない。僕の記憶の中のその人が勝手に浮かび上がっただけだ。僕の心の中にその人がいるのではない。その人のかたちが僕の心になっているだけだ。
僕の中にあるその心は、その人がつくったのであって、僕がつくったのではない。
他者と出会わなければ、他者という心など生まれない。僕の心が、他者という意識を持ったのではない。
現象学フッサールは「この世界に物体が存在しなくても万有引力の法則という真理は存在する」といったが、こういうくだらない発想をするのも、はじめに「自分の心」があると思っているからです。そうじゃない。他者と出会ったことによって自分の心が発生するのだ。
したがって、僕が他者を愛することなんか根源的に不可能であるし、他者から愛されているという事態を確認することも信じることも僕にとってはさらに不可能なことです。
「愛する」という社会の制度=合意があるだけのことです。人間の生きることの本質が、そんなことの上に成り立っているわけではない。
ただの制度(=共同幻想)でしかないものを人間が生きることの本質であるかのように、さも得意げに吹聴されたら、そりゃあむかっとくるじゃないですか。
他者に「承認される」とか「欲望される」ということだって、同じです。そんなことは、わかりようもないことです。われわれにわかるのは、そこに他者が存在する、ということだけです。その事実を[糧として]われわれ生きているのだ。
僕が客として入った店のフーゾク嬢は、僕のことを「愛している」わけでも、恋人として「承認している」わけでも、「欲望の対象として見ている」わけでもない。それでも金さえ払えば、ちゃんとエッチさせてくれる。涙が出るくらいありがたいことじゃないですか。
彼女がそこで認識していることは、「そこに他者がいる」ということだけです。そしてその事実だけを「糧として」彼女は体を投げ出す。その事実が、彼女を生きさせている。わかりますか、内田さん。
それはときに、「愛されている」だの「承認されている」だの「欲望されている」だのという暑苦しい関係に閉じ込められることよりもずっと「生きる糧」になることがある。
そんなあるかないかもわからないようなことをいちいちあるかのように考えて背負い込んでしまったら、かえって生きにくくなるし、それが原因で鬱陶しくなって別れてしまうことも少なくない。
こういう押し付けがましい言説と出会うと、ほんとにうんざりする。
内田氏はまた別のところで、他者のことは「わからない」からこそ愛しもすれば尊敬もできるのだ、といっているのだが、「わからない」のなら、他者に「愛されている」ことも「承認されている」ことも「欲望されている」こともわからないでしょうが。この人はいつだって、知識をたよりにりくつをこねくり回しているだけで、みずからの実感として深く腑に落ちるというところでものをいっていない。だから、そうやってあちこち矛盾が出てくる。ようするに、口先だけだ、ということです。
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この身体があり、他者がいて、世界があるということ、そこから意識が発生してくる。それらのものがなければ、意識は発生しない。フッサールはそれらよりも先に意識があるというのだが、それじゃその意識は何についての意識なのだ、という話になってしまいます。「意識はつねに何かについての意識である」、これは、現象学の定理です。だったら、その「何か」が先にあるに決まっているじゃないですか。それが、この身体であり、他者であり、世界です。
つまり、何を糧として生きているかという問題の立て方じたいがナンセンスだということです。何かを糧とする前に、われわれはすでに生きてしまっている。生きているという事実のうえにしか意識ははたらかないのです。意識のはたらきよりも先に、生きているという事実がある。したがって生きているという事実は、いかなる意識も糧としていない。
そしてわれわれの心は、そこに他者が存在するということ以上のものは何も知ることができない。知った気になるのは、自分の観念世界で捏造しているだけにすぎない。
「愛されている」とか「承認されている」とか「欲望されている」などという認識は、うぬぼれの強い人間の観念世界の中で生まれているだけのことです。
世間的な言葉でいえば、それこそがグロテスクで下品な「独我論」である、ということです。他者論というレベルにすらなっていない。