「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・6 少子化と家族崩壊

現代の家族において、なぜ少子化が進んでいるのか。
女が、子供を産みたがらなくなったからか。
いや、子育てに金がかかり過ぎて、産みたくても産めないからだ、という意見がある。
それに、家族が大きな集団になることを避ける傾向になってきたからだともいわれている。
これは、家族の崩壊現象だろうか。
内田樹氏は、こう説明してくれている。
_________________________________
ゼミで少子化の話をした翌々日に、別のところから「家族崩壊」いついて取材を受ける。
どうして日本の家族は崩壊したのでしょう。
あのですね。
日本の家族が崩壊したのは、これも繰り返し申し上げているとおり、家族を解体し、家族ひとりひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクを引き受け、すべてのベネフィットを独占する権利を手に入れるという生き方に日本人の多くが同意署名したからである。
家族がいないほうが競争上有利であると人びとが判断したから家族は解体したのである。逆に、家族がいるほうが生き残る上で有利であると判断すれば、みんな争って家族の絆を打ち固めるであろう。
_________________________________
どうしてこんな下品なものの見方をするのだろう。
歴史は、人間の意志によってつくられているのか。人間は、利益をだいいちに行動する生き物なのか。自分の人生は、自分の希望や意志によってつくられているのか。出世したいと思っている人は、ひたすら出世しようと頑張りつづけるのか。たいていの人は、そうもいかなくなったりするでしょう。人間の意志や希望ではどうにもならない状況というものがある。
家族が解体したのは、人びとが家族を解体しようとしたからか。そうじゃない。家族が解体してゆくような状況(社会の構造)があったからでしょう。
その社会で親子が仲良くする文化が存在するのは、仲良くするのが人間の本性だからではなく、そうなるような社会の構造になっているからである、とレヴィ=ストロースはいっている。つまり、人間の意志が社会の構造をつくっているのではなく、社会の構造が人間の意志をつくっているのだ、ということです。
支配者による民族虐殺という現場に置かれたアフリカの「ルワンダ」の民衆は、自分だけ助かろうとする気持ちを捨てて、みんなで支えあう行動を起こしていった。内田氏はこれを、そのほうが生き残る確率が高いということに民衆が気づいたからであるという。
そうでしょうか。
そうじゃない、と僕は思う。
そういう状況に置かれて人びとは、かつてないほど隣人に対するいとしくせつない思いがわいてきたからでしょう。そういう思いになってしまえば、生き残る確率が高かろうと低かろうと、もうそうせざるを得なくなってしまうのが人間というものでしょう。
彼が戦争に行ってたくさんの敵を殺したのは、戦争に行ってたくさんの敵を殺したかったからか。たいていの場合は、そうじゃない。彼は、普通の人間として暮らしていた。べつに殺人鬼だったわけじゃない。しかし、行けばそういう気持になってしまうのが戦争というものでしょう。
人びとが家族の解体を望んだのではない。解体してしまうような状況(構造)があったからだ。「ひとりひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定すること」を望んだのではなく、家族が解体していった「結果」として、そういう心の動きが生まれてきたのだ。
そりゃあ、「結果」を「原因」のようにいえば、多くの人が納得しますよ。なぜならそれは、もともと「結果」なのだから、現在においてちゃんと確認できるわけです。
「結果」を「原因」のようにいえば、たいていの人間を納得させることができる。いちばん楽で、いちばん多くの人間を説得できる分析です。人をたらしこもうとする習性を持った人間は、すばやくそういう思考回路を身につけてしまう。そして自分もそれが真実だと信じてしまう。それを真実にしてしまえば、教えるほうも、教えられるほうも深く考える手間が省ける。けっこうな言説空間だ。
_________________________________
日本社会で家族愛や隣人愛が根付かないのは、「利己心を捨てて支えあう」ことによって回避されるリスクと「利己的にふるまって、他人を蹴落とし=蹴落とされること」のもたらす利益を比べたときに、後者のほうが大であると皆さんがご判断されているからである。
それだけ日本が安全だということである。
_________________________________
ずいぶんかんたんにいってくれるじゃないですか。
家族愛や隣人愛とは、「利己心を捨てて支えあうことによってリスクを回避すること」ですか。そんな損得勘定をして家族や隣人を愛するのですか。ご立派な愛だこと。
日本人は、他者とのあいだに「裂け目」を見てしまう(=垣根をつくってしまう)民族です。それはもう、縄文時代以来の伝統で、「関係」の中にまどろむよりも「出会い」のときめきを止揚してゆこうとする思考=行動様式を持っている。
たとえば、古代の「ツマドイ」は、家の前で「戸」をはさんで向き合い求愛するというかたちにおいてなされた。親しい家族や隣人よりもよそから来る「お客」をいちばんに考える文化、それが「まれびとの文化」です。すでにある濃密な関係よりも、生まれたばかりの薄い関係における「ときめき」を大事にする文化。日常生活においても、濃密な関係の「なれなれしさ」よりも、薄い関係の上に立った「恥じらい」や「つつしみ」が大事にされてきた。
そしてこれは、人間性の根源とも関わっている。
直立二足歩行の起源は、他者と体がぶつかり合う「近さ=関係の濃密さ」を解消するために、それぞれが二本の足で立ち上がってみずからの身体が占めるスペースを狭くし、たがいのあいだの空間を確保しようとしたことにあります。つまり、そうやって濃密すぎる関係を薄くしようとすることが人間性の原点なのです。人間は、根源的に関係を薄くしようとする衝動を持っている。
家族や村の結束を薄くして「異人=客」の来訪を迎えるのが、この国の文化です。だから、この国では公共心が育たない。
家族の人数が多くなれば、そのぶんひとりひとりの関係は薄くなる。家の中が強く結束していない雰囲気だから、お客も気安く訪ねてゆける。むかしの大家族制度は、そういう関係の薄さに耐えられる心性の上に成り立っていた。あるいは、関係を薄くするために大家族になっていった。彼らは、家族愛が強かったのではない。家族愛が薄くても耐えられる家族の絆を文化として持っていた。
家族愛や隣人愛が薄いのは、今にはじまったことではない。この国では、家族であろうと隣人であろうと、「関係」を薄くしてたがいに「お客」になる身振りや心の動きを伝統として育んできたのです。
日本社会の家族愛や隣人愛の薄さは、「利己心」だの「利益」だのというレベルの問題じゃない。そんな損得勘定をする以前にわれわれは、家族愛や隣人愛を薄くしてしまう習性を伝統(構造)として持っている。
海に囲まれた島国では、外敵の襲来がない。だから、家族愛や隣人愛など必要なかったのです。むしろ、家族や隣人とともに暮らすことの鬱陶しさを処理する必要があった。それが、この国の「関係を薄くする文化」です。
だいたい人間は「利益」をだいいちにして行動する生き物だという前提で分析しようなんて、人間をなめている。
「利己的にふるまって他人を蹴落とす」利益に目覚めている若者がニートや引きこもりになるのですか。人をばかにするのもいいかげんにしていただきたい。そんな利益は、社会的活動の中にしかないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代の少子化した核家族は、ひとりひとりの関係を濃密にしてしまう。その息苦しさから逃れようとして、それぞれが孤立していったのでしょう。日本人は、家族や隣人との濃密な「関係」には耐えられないのです。そういう伝統的な社会の「構造」があるし、それが人間性の原点でもある。
70年代後半からの経済成長にともなう「ニューファミリー」ブームとともに、家族の関係を濃密にしてゆく傾向が強くなっていった。
団塊世代の「ニューファミリー」は家族の親密さをスローガンに掲げていたが、だからこそ親の過剰な監視と干渉を受けた子供たちは、自分の部屋に逃げ込んでいった。
そして、夫婦がべたべたくっつき合う文化を持たない国民がべたべたして暮らしてゆこうとすると、とうぜんその反動は起きてくる。その結果、離婚や、家庭内別居というかたちが増えていった。
とにかく「ニューファミリー」ブーム以降、家族の親密さを止揚してゆこうとする傾向になっていった。親密になるためには、家族の人数は少なければ少ないほどいい。
子供の数が増えないのは、家族が崩壊したからではなく、家族の親密さを追及しようとしたからです。親たちの家族主義は、つまり内田氏のいう「家族の絆を打ち固め」ようとする傾向は、今なお続いているはずです。
たとえば、フランスは、一時期少子化が進んで人口減少が起きた国です。そのとき彼らの家族は解体していったか。そうじゃない。彼らは、家の食器ひとつまで夫婦の合意がなければ選ぶことのできない民族です。彼らは、先験的に「家族の絆を打ち固め」ようとする衝動が強い。だから、少子化が進んでしまった。
家族の絆が強くなると少子化が進む、上記のフランスの例は、そういうことを教えてくれている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
子供をちゃんと教育しようなんて、家族主義です。子供なんて飯を食わせておけばいいだけだと親が思えるなら、この社会における親子の軋轢は、ずいぶん少なくなることでしょう。高学歴を身につけさせようなんて、そうでなければ人間の資格がないないかのように思ってしまう強迫観念でしょう。
子供の学力低下を憂慮する声は多いが、親が学歴信仰を持っていれば、子供たちの学ぼうとする意欲は育たない。大切なものは、学歴であって学ぶということではない。親たちは、そう思っている。彼らの学歴信仰は、学ぶことを否定している。彼らは、子供の学ぼうとする衝動を奪って、自分の「作品」として育て上げようとしている。
「ひとりぼっち」の気分になれば、学ぼうとする意欲は自然にわいてくる。でも現代の親たちは、ひとりぼっちにさせてくれない。たとえ自分の部屋に引きこもっても、親から執着されているという自覚があるかぎり、それは「ひとりぼっち」ではない。言い換えれば、自分の部屋に引きこもることじたい、「ひとりぼっち」ではないことの証しなのだ。
少子化が進めば、親はけっして子供を「ひとりぼっち」の人間としてあつかおうとしない。
十人兄弟なら、みんな「ひとりぼっち」ですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現代社会において、家族は崩壊したのではなく、ますます緊密な関係になって、人びとがそのプレッシャーに耐えきれなくなってきている。とくに子供は、成長すればするほどストレスを募らせ、自分の部屋に引きこもりがちになる。
家族は崩壊したのではない、していないからこそ、ストレスの原因になっているのだ。親たちは、子供との親密さに執着するから、つまり「利己心を捨てて支え合おう」とするから、子供に逃げられる。
家族という意識が強いからこそ、亭主に「男」を感じなくなるし、自分も家の中では「女」を捨ててしまう。そして男も、女房に「女」を感じなくなるし、自分も家の中では「男」であることを失ってしまう。そうやって誰もが、「家族の一員」になってしまう。
子供は「利己的にふるまって」自分の部屋に引きこもるのではない。家族の親密さが鬱陶しいからだ。親から「愛されている」という気配も「嫌われている」という気配も鬱陶しいのだ。それほどに、親から監視され干渉されている。
家族も家族愛も、けっして解体されていない。
解体されたように見えるのは、この国は内田氏が推奨する「利己心を棄てて支えあう」家族愛や隣人愛でうまくいくような「構造」にはなっていないからだ。日本人には、そんな「公共心」はないのです。
関係を薄く(解体)した「出会い」の場に立って他者を意識する。これが、日本人の体にしみついた他者との付き合い方の流儀であり、それを戦後世代の大人たちの暑苦しい仲間意識や家族意識が清算してしまった。
ニートやフリーターや引きこもりなど、一見利己的に見える若者たちの行動は、家族愛や隣人愛を押し付けてくる大人たちがつくった家族や社会に対する抵抗なのだ。彼らは、濃密な関係に耐えられないというこの国の伝統を背負っている。べつに何かの「利益」を確保したいというわけでもないが、「家族愛」だの社会的な「隣人愛」だのといわれると、うんざりして途方に暮れてしまう。
彼らがそのようにして「関係に閉じ込められている」という強迫観念を抱かねばならないのは、この社会が「家族愛」だの「隣人愛」だのという「関係」を止揚する共同幻想に覆われているからでしょう。われわれは、もともとそんなスローガンで生きてゆける国民ではないのだ。
「愛」などというものを称揚して満足するのは、内田氏をはじめとする大人たちの肥大化した自意識だけです。