「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・5  贈与と交換

内田樹氏のブログをひらいてみました。
言論の自由」のことが解説されていました。
いろいろあげつらって、ようするに「言論の自由」は何を言ってもいいということではない、というのが結論らしい。
僕にとってこういう問題は、直接自分の生活と関係ないからぜんぜん興味がないが、彼らにはおおいに関係があるにちがいない。
しかしまあ、言論の自由を問題にすることじたいが、ひとつの「検閲」している態度かもしれない。彼ら知識人には、自分はこの世の中を動かしているメンバーのひとりであるという自覚があるのでしょうか。言論の自由を「検閲」していらっしゃる。
言論の自由という問題などないのが、言論の自由でしょう。
ヒットラーが、「ユダヤ人なんか人間のくずだ」と言うのは、ヒットラーの自由です。そのときヒットラーには言論の自由があったが、ユダヤ人にはなかった。そういうことはいえても、ヒットラーの言説を「検閲」する権利は、ほんらい誰にもない。今にも死にそうな人に向かって、「おまえなんかさっさと死んでしまえ」と言うのも自由です。言ってはいけないことなど何もない。くだらない言説とそうではない言説があるだけです。
言わずにいられないことがあるのなら、それを保証してやるのが言論の自由でしょう。いちいち内田氏に「検閲」されるいわれはない。
言論の自由が保証された世の中でも、くだらない言説はいくらでもある。そして、何がくだらなくて、何がそうでないかは、誰にもわからない。僕の言うことは、ヒットラーよりもくだらないかもしれない。そう思っている。そして、内田氏の言うこともくだらないと思う。思うけど、ほんとにくだらないのかそうでないのかはわからない。とにかくそう思う、といいたいだけです。
言わずにいられないなら言ってしまうのが人間です。言葉はそうやって生まれてきたわけで、ほんらい、それを「検閲」する権利は誰にもないのだと思う。言わずにいられないことを言ってしまうのが人間性の基礎です。「あなたが好きだ」と言わずにいられないのが人間であるなら、「おまえなんか人間のくずだ」と言わずにいられないときもある。
言ってもいいことといけないことを選り分ける能力など、僕にはない。そういう人間は、何も言わずに口をつぐんでいなければいけないのか。
自分は言ってもいいことだけを言っているというその傲慢さが気に食わない。俺が法だ、と言いたいのか。
僕は内田氏のそのブログを読みながら、怖くてちょっと胸がどきどきしてしまった。
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内田氏は、人間の「コミュニケーション」の根源は「贈与」というかたちにある、という。
人類学的にいう「贈与」は、支配者のとるべき態度のことです。それによって民衆を支配する権利を獲得する。
「贈与」をするということは、持っているものがある、ということですよ。僕は、他人に「贈与」できるいかなるものも持っていない。であれば僕は、他人とのコミュニケーションが不可能であるのか。
「贈与」なんて、いやらしい行為だし、いやらしい言葉だと思いませんか。共同体の支配の構造を語るのならともかく、人と人の関係の根源を語るのに、よくそんな下品な言葉を当たりまえのように使えるものだ。
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コミュニケーションの基本は、与えるのどうのというような作為的なことではなく、「そこに他者がいる」と気づくことです。それだけのことだ。
気づいていることを表現して相手の前に差し出す。そして相手が受け取る。相手が決意して受け取るということをしなければ、それは、ぜったい届かない。受け取るも受け取らないも、相手の自由です。相手が「決意」して受け取ることです。
たがいに差し出すことと受け取ることを半分ずつする、これが基本です。
たとえば、「あなたはきれいだ」というとき、きれいだといわずにいられなかっただけで、伝えたかったかどうかはわからない。誰もが相手を喜ばそうとする作為を持っているとはかぎらない。作為を持っていないときのほうが、スムーズにその言葉が出てくる。つまり、その言葉を最初に表現した人は、伝えようとしたのではなく、言わずにいられなかっただけだった。言わずにいられない衝動によって言葉は生まれてくるのであって、伝えようとする意志によってではない。そんな作為など持たずに、深く言わずにいられない衝動を持った人によってその言葉は生まれてきたのです。
言葉は、伝えようとする意志によってではなく、言わずにいられない感動を体験する場から生まれてくる。基本(=起源)は、そういうことです。
人間の根源的な衝動は、他者の存在に気づいていることを表現しようとすることにあるのであって、伝えようとすることではない。
すなわち、「贈与」しようとすることではない。
そしてその表現を、相手が存在することの証しだと「気づく」から、受け取ろうと決意する。
人間は、根源的には言葉を伝えようとする衝動を持っていない。相手の前に差し出そうとしているだけだ。「りんご」が「りんご」として伝わるためには、「りんご」は「りんご」であるというあらかじめの「合意」がなければならないわけで、だからそういう「合意」が存在する共同体の中でしか通用しない。言葉が共同体ごとに違うということは、人間は伝えようとする衝動によって言葉を発するのではないということを意味する。言葉が伝える(=贈与する)ものであるのなら、とっくに世界共通のものになっている。
言葉は、伝えようとしなくても伝わる地域でしか流通できない。
人間は、根源的には伝え(=贈与し)ようとする衝動を持っていない。言葉は、相手の前に差し出そうとする衝動によって発せられる。
その発せられた言葉は、「私」が「贈与」したのではない。「私」は相手の前に差し出しただけだ。差し出そうとする衝動があっただけだ。そうして相手に受け取ろうとする「決意」があったから伝わったのだ。
根源的には、「贈与と返礼」などという交換はないのです。たがいに半分ずつ受け持つ。たがいのあいだの空間に言葉を投げ入れあうこと、これが、コミュニケーションの基本です。
貨幣だって、起源においてはそういう衝動の上に流通していたのであって、「贈与と返礼」の衝動から生まれてきたのではない。
ひとまず、そう言っておきます。
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内田氏が持ち上げるラブリーな「キャンキャン」ギャルは、ちやほやされることによって、初めて他者に気づく。それは、他者に気づいてもらうためのファッションであるが、自分が深く他者に気づいていることを表現するファッションではない。
他者の存在に気づけば、ときめきもすれば畏れたりはにかんだり困惑したりもするわけで、そうやってみずからの存在を揺さぶられたら、自分なりのファッションを按配せずにいられない。そうしてその「存在=身体の輪郭」を安定させようとする。つまりそのとき、「流行=街の風景」と自分の「気づき」との兼ね合いで、それぞれのファッションが工夫されている。すでに他者の存在に気づいてしまっているものは、気づいてもらおうとするようなファッションは採択しない。
衣装の本質は、他者の視線がみずからの身体にまで及ばないようにすることにある。つまり、衣装によって他者の視線を解体することにある。女は、見つめられることの鬱陶しさや恥ずかしさを強く感じているから、ファッションにこだわる。それは、ただ見つめられるためだけの道具ではない。女は、「すでに見つめられてある」存在なのだ。「すでに見つめられてある」存在になりながら、その視線を解体したり受け止めたりしようとあんばいしてゆくことが、ファッションの本来的なコンセプトなのだ。
ただ「見つめられるため」だけというような、そんな単純な装置ではない。
ようするにそういう鈍感な女のラブリー・ファッションなんて、倦怠期の女房がスケスケのネグリジェを着て亭主を誘っているのとたいして変わりゃしない、ということです。そしてそれがプライベートなベッドルームならともかく、白昼堂々と町なかで見せつけているのですからね。たいした度胸です。
彼女らは、そうやってラブリー・ファッションをしてみせるという「贈与」と、男にちやほやされたり同類を見つけてすばやく友達になるという「返礼」を受け取ってはいるが、他者にたいする「ときめき=気づき」はない。けっして、他者に深く気づいてはいない。
そんな「贈与と返礼」が、「人間的コミュニケーションの基本」なのか。根源なのか。
「贈与」だの「返礼」だのというスケベ根性が、内田氏の教えてくれる「愛」というものらしい。ありがたくて、涙が出る。
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僕は、「贈与と返礼」が「人間的コミュニケーションの基本」だとは思わないし、レヴィ=ストロースがそんなことをいっているとも思わない。社会(=共同体)はそういう構造を持っている、といっただけです。共同体を措定しない人間の根源的な状況においてはそんなスケベ根性は存在しない、といっているだけです。
「(共同体の)歴史は、人間なしに始まって人間なしに終わるだろう」と彼がいうとき、現代社会の構造がいかに文化人類学的な原始社会と逆立したものであるかという感慨(嘆き)がこめられている。
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人類が直立二足歩行をはじめたときのコンセプトは、他者とのあいだの空間を、おたがいの体がぶつからないように確保しようとしたことにあります。二本の足で立ち上がれば、みずからが存在するするスペースを最小にすることができる。
そしてそのとき、片方の個体が立ち上がっただけではだめです。なぜならそれは、胸・腹・性器等の急所を晒すとても無防備な姿勢だから、立ち上がったほうの不安はとても大きくなる。
どちらも立ち上がって、初めて安心して立っていることができる。
直立二足歩行は、「弱み」を見せ合う姿勢でもある。
弱みなんか、「与える」ことはできない。なぜならそれは、「どうぞ攻撃してください」と告げることだからです。「与える」のではなく、「見られている」ということ。見られ合うことによって、たがいに攻撃することを「断念」し合う、これが、「人間的コミュニケーション」の原点です。
四足歩行の姿勢でからだをぶつけ合っていると、どうしても相手を攻撃しようとするヒステリーが起きてくる。その攻撃しようとするヒステリーを消去してゆくかたちで、直立二足歩行が生まれてきた。
そうやってたがいのあいだに生まれた「空間」に気づき、「空間」を止揚してゆくことによって、ともに攻撃することを断念する。断念して仲良くしてゆく。仲良くしていなければ、その「空間」は確保できない。確保するために、仲良くする。すなわちこれが「人間的コミュニケーション」です。
したがってその「空間」は、どちらが与えたものでもない。どちらも与えてどちらも受け取っている。というか、どちらも与えていないし、受け取ってもいない。どちらのものでもないというかたちでそこにあることに意味がある。
その空間は、他者と自己のあいだに横たわる「裂け目」なのだ。
そのとき、立ち上がっている他者を見て、ほっと安心した。なぜ安心したのだろうと思えば、じつは自分も立ち上がっていた。立ち上がっている他者を見て、立ち上がっている自分に気づいた。
二本の足で立ち上がることは、他者(=他者とのあいだに横たわる空間)に気づくことだった。
その空間は、他者が自分に急所を晒しているという驚きと、自分も他者に急所を晒しているという不安とを解体してくれる。
他者とのあいだに横たわる空間に深く気づくこと、そこからコミュニケーションが始まる。自分が二本の足で立っているという不安と戸惑いは、つねにその空間によって癒されている。そのとき自分の「安心という利益」は、他者に与えられているのではなく、自分がその空間に気づくことによって得ている。その安心は、他者に与えられていると同時に、与えられているのではない。自分もまた何も与えていないと同時に、何も受け取っていない。他者とのあいだに横たわる空間に「気づく」ということがすべてです。
とにかくそのようにして「気づく」ことによって人類は、立ち上がっていようと決めた。
「気づいている」ことの表現が、直立二足歩行です。
おたがいが「気づいている」ことによって、直立二足歩行が成り立っている。
何も与えない。何も受け取らない。ひたすら深く他者とのあいだに横たわる空間に「気づく」こと、それがコミュニケーションです。
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「気づいている」ことの表現が、「言語」です。
深く気づけば、その感慨を表現せずにいられなくなる。それが「言語」です。
そのとき「私」は、他者に言葉を伝達(=贈与)したのではない。みずからの他者とのあいだに横たわる空間に対する「気づき」を表現しただけだ。深く気づいたから、表現せずにいられなかったのだ。そして他者もまた、その言葉に深く気づく。おたがいがおたがいのあいだにある空間に「気づく」こと、これがコミュニケーションです。言葉は、たがいの「空間」に投げ入れられているだけです。
言葉の本質は「モノローグ」です。
「おはよう」というとき、言葉は、朝のすがすがしい空気に向かって投げ入れられる。相手に届けようとしているのではない。そうしてたがいに、他者の言葉とともに朝のすがすがしい空気に気づき合っている。それは、根源的には朝のすがすがしい空気に気づいていることの表現であって、他者に伝えることは二次的な機能にすぎない。つまり、他者に伝えるという機能は、言葉を発することの「目的」ではなく「結果」だということです。
言葉を発することは、その言葉を自分で聞く体験でもある。だから、聞こえない人はうまく話せない。聞くことが話すことであり、話すことは、話した言葉に気づくことであって、相手に伝えることではない。そのときわれわれは、言葉に反応しているのであって、相手に反応しているのではない。相手に反応することなんか、不可能なのだ。相手の表現したものに反応することができるだけだ。相手の身体に反応しないでもすむ「空間」を確保し合うことが、コミュニケーションなのだ。
たがいに離れて存在し、たがいに離れないのが、コミュニケーションです。
他者とのあいだに横たわる「空間」に深く気づき確保しあうのが直立二足歩行というコミュニケーションであり、そういうコンセプトで言葉が生まれ、育ってきた。
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貨幣は、自分がそれをどれだけほしがっているかという「気づき」の表現として生まれてきた。「贈与」に対する「返礼」ではない。貨幣は、本質的には価値のないものだから、「返礼」にはならない。「返礼」として貨幣が生まれてくる契機は存在しない。あくまで「気づき」の表現として意味と価値が発生したのだ。
原初の貨幣は、めずらしい石ころか貝殻のようなものであったのでしょう。それをどれだけ差し出すかによって、「気づき」の感慨の深さが測られた。それは、その品物を欲しい、感動した、という思いの丈の「表現」だった。そして品物の所有者には、他者に、そういう思いの丈を示されることの喜びがあった。そこから「貨幣」が生まれてきたのだ。
ここで大事なことは、このとき買うがわは、その思いの丈を表現する貝殻の貨幣を品物に向かって差し出したのであり、売るがわも、表現された思いの丈としての貝殻に喜んだのだ、ということです。たがいに相手に向かっているのではない。たがいのあいだの「空間」に気づき合っている。したがって、ここでは「贈与と返礼」という関係は発生していない。「思いの丈=感慨」をたがいのあいだの空間に差し出しただけであり、そういうかたちで「コミュニケーション」がなされたのです。
コミュニケーションの本質は、たがいのあいだの「裂け目=空間」に向かって感慨の表現を投げ入れ合うことであり、それは本質的に「モノローグ」です。「ひとりぼっち」の感慨の表現こそが、「コミュニケーション」なのです。それは、みずからの身体が侵略されていないことのよろこびを表現するかたちでたがいのあいだの「空間」にものを置き、それによって相手の身体を侵略するする意思もないことを誓っている行為です。
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目の前にケーキを出されたとき、一回だけ「食べたい」というより「食べたい、食べたい」と繰り返したり、あるいはより大きな声で叫んだりすれば、それだけ食べたいことの表現になる。そういう表現行為として貨幣が生まれてきた。
「贈与」して「返礼」したのではない。品物の持ち主は。「上げるよ」と言って差し出したのではない。他者とのあいだの空間に置いただけです。そしてもう一方も、その貝殻を持ち主に手渡したのではない。商品の横に置いただけです。与えてもいないし、お返ししたのでもない。たがいのあいだに存在するものに「反応」しあっただけなのです。「贈与と返礼」というかたちは「結果」のことであって、そのときたがいにそんな衝動があったのではない。そんな衝動がなかったからこそ、「贈与と返礼」というかたちが生まれてきたのだ。
たがいのあいだに「もの」を置くという行為。これが「交換」の起源であり、人間性の基礎です。子供がめんこやベーゴマやお手玉やお人形さんごっこをすることや、大人がトランプや花札さいころや将棋やチェスするのと、たぶん同じ行為です。
人間は、他者とのあいだの空間に「もの」を置きたがる習性を持っている。
話すことも、たがいの空間に言葉を投げ入れあう行為です。
それはいわば「出会いのときめき」の表現しつつ、たがいのあいだの「空間」を確保しようとする行為です。人間というのは、出会えばときめいてしまう生きものであり、そのときめきは、たがいのあいだの「空間」が確保されているという安堵でもある。「贈与」でも「返礼」でもない。たがいの身体のあいだの「空間」が祝福されていったのだ。
もっとも原初的な「交換」という行為は、おそらく子供の「遊戯」から始まった。「贈与」だの「返礼」だのという経済行為ではなかった。おたがいが持っているものを前に置き、それで一緒に遊んでいただけでしょう。とにかく、楽しければそれでよかった。そうして家に帰ったとき、別のものを持ってきていることに気がついた。そんなことの繰り返しから「交換」が生まれてきたのではないでしょうか。
それを、たがいのあいだに置いた。それだけのことであり、そのことには深い意味がある。それは、直立二足歩行の起源と関わっている。そうやってものを置くことは、たがいのあいだの空間を共有する喜びを表現する行為です。
向き合ってたがいの急所を晒しあうことの安堵とときめき。二人の前の「空間」を祝福してゆくこと、それがコミュニケーションの根源ではないかと思えます。
したがって原初的な「交換」は、あらかじめ「贈与と返礼」の意図を持ってなされる現代社会の「商品=貨幣」の意味と逆立している。もともと「結果」であったものが、現代においては「原因(動機)」になってしまっている。
厄介な問題なのです。「人類学的に真である」ことを問おうとするなら、かんたんに「贈与と返礼」といって済ませられる問題ではない。
またレヴィ=ストロースは、兄弟の仲がいい社会では親子関係はあまり親密ではないとか、夫婦が親密な社会では親子関係がよそよそしいとか、そういう親族の構造がある、といっている。つまり、ラブリーな「みんなにちょっとずつ愛される」戦略の原始社会などない、ということです。
現代社会の論理は、文化人類学の「構造」と逆立している。「(共同体の)歴史は人間なしに始まり、人間なしに終わるだろう」というレヴィ=ストロースはそのことに深く気づいていたが、内田氏はなんにも気づいていない。前者の論理がそのまま後者の「構造」に当てはまると思っている。いい気なものだ。そのまま当てはまるのなら、文化人類学の存在理由なんか何もないのだ。
内田氏はたぶん、原始人や未開人なんか未熟な現代人だ、というていどにしか考えていない。だからそんな安直なせりふをのうのうと吐けるのだ。
われわれ現代人の観念は、あまりに「社会化」されてしまって、人間の本性を喪失しそうになっている。だからレヴィ=ストロースは「(共同体の)歴史は人間なしに始まり、人間なしに終わるだろう」といった。
ヘーゲルは、「人は社会化されることによって真に<人間>になる」といい、内田氏もそう思っているらしい。二人とも、文化人類学レベルの人間はただ動物的で未熟なだけだと思っていやがる。げすな考えだ。何様のつもりか。
人は、共同体に淫して「社会化」することによって「人間性」を喪失する。「人間」を逸脱してしまう。それがいいことかわるいことかは僕にはわからないが、すくなくとも文化人類学の試みとは、われわれの中に残されているかもしれない人間性をたぐり寄せようとする試みなのだろうと思えます。
われわれはかつて「人間」であった・・・・・・僕はそう思っている。自分がまっとうな「人間」のつもりでいるヘーゲルや内田氏には通じない考えかもしれませんけどね。