このていどの薄っぺらな分析で「どうです、奥が深いでしょう」といばっていやがる。読者はみんな自分のことを尊敬していると決めてかかっていやがる。猿山のボスでもあるまいし。
物事を分析する能力なら誰にも負けないという自信があるのだろうか。
あるのでしょうね。
内田樹氏によれば、キャンキャン・ギャルのラブリー・ファッションは、「みんなにちょっとずつ愛される戦略」なのだとか。そのことに異論はないが、そのていどのことくらい、僕でも感じている。そしてそれが「コミュニケーションの本質である」などといわれると、何を薄っぺらなこといってやがる、と思ってしまう。
社会のうわずみを掬い取るのはお上手だが、人間とは何かということに身銭を払って分け入ってゆく能力がこの人にあるとは、僕は思わない。
白いスカートにパステルカラーのニット、薄めの茶髪に毛先くるくる。
女子アナのファッションは、おおむねこの傾向らしい。
そして、内田樹氏が教鞭をとる神戸女学院大学のようなアッパー・クラスの子女が集まる女子大にも多い。神戸女学院というブランドのクオリティは、関東の白百合とかフェリスほどではないが、生徒の家庭環境はまあそんなところらしい。
女子大には、男がいない。だからこそ、男に受けのいいファッションが最優先される。共学校なら、そこまでしなくても男と出会う機会はいくらでもあるが、女子大では、そうはいかない。少ないチャンスをものにしなければいけない。また彼女らは、町を歩いていても、共学校の女子以上に男の視線を気にしている。
とにかく男の視線を引こうというだけなら、ラブリー・ファッションがいちばんで、男の視線に反応して選り分けたり和らげたり避けたりしようとするときは、もうちょっと別のファッションが採択される。
内田氏は、こういう。女子大の入学式の日に上から下まで「キャンキャン」のファッションで決めてきた娘たちは「私、この大学でどんなふうにふるまったらいいのかわからないのだけれど<どうしていいのかわからないときにはどうすればいいのか>はわかっています」というシグナルを周囲に送っている、と。
だが、こういう分析はいやらしい。彼女らは、そのファッションを、純粋に友達をつくるための道具として自覚して採択したのか。そんなすれっからしの大人の処世術みたいなものを頭の中をいっぱいにして採択したのか。
そうじゃない、可愛く見せるために決まっているじゃないですか。「キャンキャン」ファッションのもっとも肝になるコンセプトは、可愛く見られたいという願いを満たすことにある。自分が可愛いと見られる女の子であることを表現しないとみんなに置いてきぼりにされる、と思ったからでしょう。そういう女どうしの競争心がはたらいたのだろうし、それが女子大生の資格だとも思ったからでしょう。それで、同じようなファッションをしている娘に出会うと、「ああこの子も同じように頑張っているんだなあ」と思って仲良くなる。
そこは、男がいない空間だからこそ、男に可愛く見られる女の子であることがクオリティになり、そういう表現衝動が活発になる。
雑誌のページから抜け出たような典型的な「キャンキャン」系ラブリー・ファッションというのは、女子大の外ではそう多くない。俗世間では、みんな何がしらのオリジナルな工夫をしている。
「キャンキャン」系ファッションは、あるていどパターンが決まっていて、考えなくてもすむ。着せ替え人形みたいに育てられてお嬢様には、うってつけのファッションスタイルなのです。それに高級ブランドの威力は、すべての難点をカバーしてくれる。
女子大生は、男に見つめられることの鬱陶しさを知らないから、逆に見つめられる女の子であろうとする衝動が必要以上に肥大化する。
女子大村のファッション・・・・・・まあ、そういうところだろうと思うのだけれど、内田氏の分析では、それが現在の若い娘のマジョリティを形成しつつあるのだとか。
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「オレはオレの好きに生きるぜ」とか「美しい国へ」とか「国家の品格」とかというようなお気楽なことがいえるのは、社会が豊かで、どう転んでも餓える心配がないときだけである。
逆に、「みんなに愛されたい」というようなプリティなことが繰り返し表明されるのは、そうでもしないと生き残れないというくらいに私たちの社会がリスキーなものになりつつあることの現れであると私は判断している。
新学期が始まる頃、本学の学内には「キャンキャン」ファッションで上から下まで決めた学生たちが群れをなす。
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そうして同じファッションの者どうしがすかさず友達なってゆくらしいのだが、「いったん集団的な絆が確保されたあとには、それぞれの好みにしたがってファッションがばらけてしまうことが起きる」のだそうです。
彼氏ができると、男の視線に気づいて、そうそうラブリー・ファッションばかりではいられなくなる。そのとき彼女は「男に見つめられたい女」から「すでに見つめられている女」になった。いや女友達の視線を享受するだけでも、とにかくひとりぼっちにならないですんだのだから、それはそれで「すでに見つめられている女」になったということでもある。あるいは、少し大人になって、他者の視線を欲しがるだけのさもしい根性で生きてゆくのが恥ずかしくなるのかもしれない。
つまり「そうでもしないと生き残れない」のは、「私たちの社会」というよりも、「女子大という空間」がそれだけ「リスキー」なところだからでしょう。
「男にちやほやされていたい」と思っても、女子大のキャンパスでは不可能です。しかし不可能だからこそ、そういう幻想が肥大化してしまう。共学の大学には、あきらめるチャンスが与えられているのです。
また「ひとりでいられない」のも、女子大だからこそです。同性ばかりの群れの中でひとりぼっちにさせられたら、そりゃあ恐怖でしょう。共学校のキャンパスにひとりぼっちでいることは、男に声をかけられる可能性のある状態だが、ただでさえ排他的な傾向のある女ばかりが集まっている女子大では惨めなだけです。そういう異性との「出会い」という体験が存在しない空間なのだから、つるんでいるしか身の置き場がない。逆にいえば、つるんでいれば、なまじの共学校より、ずっと気持が開放されるのかもしれない。変に男の目を意識しないですむし、そこでは対等の関係になれる。共学校なら、男にもてる女ともてない女のランク付けがすでにできてしまっていて、多少なりともそれを意識しながら女どうし付き合ってゆかねばならない。
女子大は、つるんでいることの開放感が豊かにもたらされる空間だからこそ、「ひとりではいられない」強迫観念も肥大化する。
一般社会では、女子大ほどラブリー戦略が濃密に意識されることはない。それはけっしてマジョリティの意識ではないし、内田氏のいう「人類学的に真である」ところの普遍的なコミュニケーションのかたちだともいえない。むしろ、病理的な傾向だと思えます。しかし女子大という社会の中にいるかぎり、それが病理だと自覚されることもない。みんなそうなのだから。
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ラブリー戦略の元祖といえば、松田聖子でしょうか。それはかつて中・高生かお茶汲みの女子社員の戦略だったのだが、今や高学歴の女たちにも及んでいる。
そういう女はいつの時代にもいるし、たぶん、そんなふうにしないと生きられない世の中だからでもない。
女子大とはそういう娘たちを生産してしまう空間であり、そういうタイプでない娘もそこに存在することこそ救いであるのかもしれない。また、そういうタイプではない娘の居心地の悪さはさぞやと察せられる。彼女はもう、超然としているか、隅っこで小さくなっているかのどちらかしかない。「キャンキャン・ギャル」のファシズム
「ひとりきりではいられない」ということは、たえず他者からの刺激を受けていないと他者や世界に反応できない、ということです。刺激されて、初めて反応する。関係につながれていないと反応できない。
そこでは、ひとりきりの人間として他者と出会い、他者の存在そのものに反応する、という体験がない。他者のはたらきかけがあって、はじめて反応する。だから、つねに、他者のはたらきかけをつくり出そうとする。
彼女らは「かまってもらう」というかたちにこだわる。
つねにはたらきかけられる心地よさだけがあって、「出会いのときめき」というものがない。レスビアンでもないかぎり、女子大のキャンパスにそんな体験があるはずない。だから彼女らは、そういう緊張を生きることができない。そういう出会いの緊張や孤立する淋しさに身を置くまいとする強迫観念だけが肥大化する。
いやこれは、女子大のキャンパスだけの問題じゃない。人が管理され監視されている世の中であれば、とうぜんそういう強迫観念も起きてくるでしょう。さらには、現代の核家族という問題もある。
とにかく彼女らは、関係につながれてあるところでしか生きられない。「遅れて」この世界にやってきたものとして他者に反応するよりもまず、「先行して」存在するものとして媚びとメッセージを他者に贈与する。
他者に反応できない症候群。
反応できないものは、媚びとメッセージを送りつづけるしかない。
共学の女子より、意外に一部の女子大生のほうが男をたらしこむのがうまいのです。何しろ、手段を選ばないから。
現代社会に生きる人びともそうだが、彼女らはとくに、つねに孤立することに対する不安を抱えている。そういう不安の現れとして、ラブリー・ファッションがもてはやされる。
内田氏の言うように、コミュニケーションの本質をわきまえているから、すぐ友達をつくるのではない。ひとりきりであることが怖いからだ。ひとりきりになって他者と出会っても、反応するすべを知らないからだ。
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「みんなにちょっとずつ愛される」ことを得て、じゃああなたはいったい誰を愛するのか。「みんなをちょっとずつ愛する」ということでしょうか。かまってもらったぶんだけ愛する、ということでしょうか。それも生き方だとは思うが、それがこの国における若い娘の生き方のスタンダードになるとも思えない。
なぜなら、生きてあることの淋しさや苦さは誰にだってあるわけで、生き残るだけではすまない、「今ここ」の体ごとの充実した瞬間があることにいずれは気づいてしまう。生きていれば、どうしようもなく他者に反応してしまうというか、つまづいてしまう瞬間はやってくる。
この男が男のすべてだ、と思ってしまう瞬間は、女だったら、どこかで体験するでしょう。
まあ、女子大生の通過儀礼としてのラブリーファッションの効用というのは、そりゃああるかもしれない。
しかし、そうやって周囲にシグナルを送りつづけ、他人をたらしこむことばかりしていないと生きてゆけないなんて、そこまでひどい世の中でもないでしょう。そんなことをしなくても、ちゃんと他者に「反応」することができれば、そういう娘にも充実した仕事や恋や結婚の機会はあるでしょう。むしろそういう娘の方が、「コミュニケーション」の本質を知っている。
この世の中が、「みんなにちょっとずつ愛される」だけで生きてゆこうとするような、そんなニヒルな女ばかりになるはずがない。
媚びを売って他人をたらしこむことが「人間的コミュニケーション」の本質だとは、僕は思わない。
しかし内田氏の文体も愛の思想も、たぶんそういう「戦略」の上に成り立っているのであれば、「キャンキャン」ギャルにシンパシーをおぼえるのもとうぜんかもしれない。
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