現在の日本になぜラブリーな「キャンキャン」ギャルがあふれてきたかということの説明として、内田樹氏は、弱い女がこの社会で生き残るためには「つよい男の庇護下に入る」か、「周囲の男のみんなからちょっとずつ愛される」かのどちらかしかなく、時代は、前者の夢が覚めて後者の戦略に傾いてきたからだ、といいます。
どうしてこんな卑しいものの見方をしてしまうのだろう。女にとってのファッションをまとうことの第一義は、そうやって生きてゆくための駆け引きの道具としてあるのか。女というのは、そんなことばかり考えている人種なのか。女は、男に生きさせてもらっている人種なのか。彼女らはみんな、そう自覚しているのか。
それじゃあ、いやらしいただの男根主義じゃないか。
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とりあえず、僕が考えるここ2、30年来の若者における意識とファッションの変化についての概観を、以前にこのブログで書いたものから再録しておきます。
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現代の若者たちにみずからの「穢れ」が強く意識されるようになってきたのは、80年代ころに「朝シャン」という習慣が生まれてきてからのことだろうと思えます。
それと同時に「ピーターパン(=大人になりたくない)症候群」という言葉も叫ばれるようになってきた。
社会が豊かになり、豊かさを価値とするようになったとき、豊かさを生産する能力を持たない若者は、大人たちに対する疎外感を覚えた。そうして、すでに豊かな社会と一体化してしまっている大人たちのことを、「穢れている」と思った。しかしそう思うことは、そういう大人たちと一緒に暮らしている自分もまた「穢れている」と自覚することでもあった。
そういう「穢れ」を拭い去ろうとして「朝シャン」を始めた。
「豊かさ」は「穢れ」でもあった。
それまでは、戦後の「世界に追いつけ追い越せ」という時代の流れで、「新しいもの」に価値があったから、アドバンテージはむしろ若者の方にあった。だから、大人たちに対してみずからの優位を主張しようとする全共闘運動も生まれてきた。
しかし、「豊かさ」が最大の価値になった80年代以降の若者はもう、大人たちの飼い犬の地位に落ちてしまった。
飼い犬であることの「穢れ」。その「穢れ」をぬぐうために「朝シャン」をはじめ、「穢れ」をぬぐった存在になることによって、大人たちとみずからを「差異化」していった。
教室中の窓ガラスを割ってしまうなどの「校内暴力」が激化していった時代でもあった。
そうして、90年代のバブル崩壊とともに、ミニスカートの復活が本格化してきた。
若者が肌をさらし始めたということは、大人たちに対するアドバンテージというか、みずからのアイデンティティを表現し始めた、ということです。その流れが現在の「へそだしルック」につながってくるのだが、それは、みずからの「穢れ」を自覚し、それをぬぐおうとしていることの表現であろうと思えます。自分はどこまで「穢れ」をぬぐうことが出来ているかと、みずからを試すようにして「へそ」や「太腿」の肌を晒している。
それは、ただ羞恥心が足りないとか、そういうことではない。「穢れ」の自覚を処理する装置なのだ。
中学・高校生の娘が真冬でもストッキングをはかないで太腿の肌をさらしているのは、それほどに「穢れ」の自覚が強いからであり、それがただ太腿を見せるためのものではなく、肌を晒すための着こなしであることを意味している。彼女らのその部分は、「穢れ」が祓われてたんなる身体の「輪郭」として自覚されているために、肉体としての寒さはあまり感じないらしい。感じるわけにいかないのだ。
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はじめに社会との関係としての「戦略」があるのではない。みずからの身体における「世界との関係」という実存意識がある。現代社会に生きていれば、衣装を着る理由として、なんだかしらないけど、ただ「体を覆うため」というだけではすまない体の居心地の悪さというものがある。それをやりくりしようとして、自分の着るファッションが採択されてゆく。
自分の体をこの世界にうまくはめこんでゆくための装置として、「ファッション」がある。ただもう女として自分の人生を男に何とかしてもらうため、などとというような、それだけの道具ではないでしょう。
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次の文章は、「キャンキャン」ギャルの正当性をちょいと学問的に説明してくれている部分です。
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若い人々はさしあたりもっとも有利なオプションとしてこの(ラブリーな女の子になる)方向を採択した。
もちろん、いまだに「ワタシ的に気持がいいから」ということだけを根拠に傍若無人、あくまで利己的にふるまう若者たちも少なくない。けれども、彼らはリソースの配分においても、相互支援ネットワーク構築によるリスクヘッジにおいても、すでに大きく遅れをとっているから、遠からず社会最下層に吹き寄せられることになるだろう。
気の毒だけれど、仕方がない。
人間の社会はあくまで利己的にふるまう人は安定的に利益を確保することができないように構造化されているからだ。
「自分が手に入れたいもの」は、それをまず他人に贈与することでしか手に入れることができない。贈与したものに、その贈与品は別のところから別のかたちをとって戻ってくる。自分の所持品を退蔵するものには、誰も何も贈らない。
 それが、人間的コミュニケーションの基本ルールである。
(・・・中略・・・)
自己利益確保のためには、「みんなにちょっとずつ愛される」戦略が実効性が高い。
 これは人類学的に真である。
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「キャンキャン」ギャルだって、まあいろいろでしょう。誰もが「みんなに愛されるラブリーな女の子」になることをめざしているわけではないし、そんな自分がいやになることもある。しんそこそんな気分で生きているのはむしろそう多くない一部であり、ただ、内田氏が教鞭をとっている神戸女学院大学とやらにはわんさかいる、というだけの話でしょう。
みんなに愛されるラブリーな女の子になろうなんて、ひとりじゃいられないというただの強迫観念かもしれないですよ。そういう強迫観念がこの社会に蔓延しつつある、という説明なら、僕だって納得するのだが、それが正義のような言い方をされたら、そりゃあ「ちょっと待ってくれ」といいたくもなる。
そういう戦略をとることは、現在を生きてゆくためにはたしかに有利でしょう。しかしそれこそが正義で、そういう戦略を取れない女の子がなぜ内田氏にさげすまれなければならないのか。この世の中をうまく生きている人間こそが、まっとうであることの手本なのか。
「気の毒だけど、仕方がない」だって?そうやってうまく生きている女の子をうんざりして眺めているもう一方の感性や心の動きには、なんの値打ちも輝きもないのか。僕にとっては、そういう感性や心の動きから学ぶことの方が多い。
この世の中は、うまく生きてゆく人間だけが正しいのか。うまく生きてゆくことは、そんなにご立派なことか。そんなことに加担した物言いばかりしたがる内田氏の態度を、僕は下品だと思う。おめえなんぞに人間の何たるかを決められたかあねえや、と思う。
この世の中では、「利己的にふるまう」ことは許されていないのか。内田さん、あなたには「利己的にふるまう」こともそういう衝動もいっさいないのか。ずいぶんご立派なお方でいらっしゃる。
気の合う友人といっしょに飲み屋に行って、「今夜はもう、世の中や金のことも会社のことも女房子供のこともいっさい関係ない」という気分になってはいけないのか。
われわれ庶民は、いつだって、そういう「利己的」な気分と「あきらめ」の気分とのあいだを揺れ動いて暮らしている。つまり人間社会は、どこまでは利己的にふるまうことが許されるかというその喫水線を「構造」として持っている、ということではないだろうか。他人のことなんか知ったこっちゃないという態度で金儲けしている人間は、いくらでもいる。むしろそうしないと金儲けなんかできないという「構造」だってあるじゃないですか。
利己的になって、何が悪い。誰だって利己的にふるまえるものならふるまいたいし、ふるまいつづけるためには、金持ちになるかホームレスになることを受け入れるかのどちらかしかない、というだけのことでしょう。
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「キャンキャン」ギャルがラブリーなファッションで人事のおじ様をたらしこむことだって、ずいぶん「利己的」じゃないですか。実力で勝負しろよ、という批判が、あながち不当ともいえないでしょう。彼女は、自分より実力のあるライバルが不採用になっても知ったこっちゃないのですよ。
いや、べつにそう思ってもぜんぜんかまわないのだけれど、人間の考えることや行動の要因(本質)を「利益の確保」をだいいちにして語ろうなんて、あんまりいい趣味だとは思えないし、正しく的を射当てているとも思えない。
「キャンキャン」ギャルは、「利益の確保」をだいいちにして考えたり行動したりする人種なのか。内田氏は、彼女らを持ち上げながら、かえって貶(おとし)めている。
利己的にふるまう人間は利益を確保できないが、利己的な心を隠してふるまえばおおいに利益にあずかる。人間の本質は利益を追求することにある。そのためにはまずいったん利益を放棄して見せなければならない。なぜならそれこそがもっとも有効な利益の確保だからである、というわけですか。けっこうなご託宣だ。
「コミュニケーション」の本質は、相手に何かしてやることであり、それによって何かを返してもらうことにある、というわけですか。あんまり気味の悪いことをいわないでいただきたい。あなたの品性の下劣さが透けて見えるばかりだ。僕は、あなたよりももっと愚劣で下劣な人間だが、そのぶんおおいに恥じている。だから、そんなことはよういわないし、そんなことが人間の本質だとも思っていない。
コミュニケーションの本質は、他者と出会っていることに「気づく」ことにある。気づき合うことがコミュニケーションである。何も贈らない。何も返さない。気づけば、気づいたことを表現してしまう。そして相手も、その表現されたものに気づいてしまう。そして気づけば、相手もまたそれを表現してしまう。果てしなく表現し合う、果てしなくそれに気づき合う、これがコミュニケーションの本質であろうと思えます。
「他者」は存在しない、しかしそこに表現されたものがある、表現されたものに気づくことが、他者に気づくことである。他者の心はわからない。しかし、表現されたものがあり、たがいにそれに気づき合う。それが、コミュニケーションではないでしょうか。
われわれは、「他者」そのものに気づくことはできない。しかしそこに「表現されたもの」があるかぎり、「出会っていること」に気づくことはできる。それが、コミュニケーションなのではないだろうか。他者の姿は、「他者が表現されたかたち」であって、他者そのものではない。他者は存在しない。したがって、何も贈ることができないし、何も返すことができない。しかしできないからこそ表現せずにいられないものがあり、果てしなくそれに気づき合ってゆくことがコミュニケーションなのではないだろうか。
他者の表情やファッションは、他者によって表現されたものであって、他者そのものではない。人は、他者によって「表現されたもの」に気づくのであって、他者の心の中そのものに気づくことはできない。コミュニケーションはそういう不可能性の上に成り立っているのであり、不可能性の上に成り立っているから表現せずにいられないし、表現せずにいられない衝動を持っているから人間的コミュニケーションが生まれる。
他者によって表現されたものは他者の「代理」であって、他者そのものではない。
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他者と出会って「反応」すること、それがコミュニケーションなのではないだろうか。
「贈与」するとかしないとか、そんなことはどうでもいいのだ。
キャンキャン・ギャルのファッションは、「他者に見つめられている」という自覚がないために「見つめられよう」とする意欲によって表現されている。
衣装は、他者に見つめられることに対する「反応」として生まれてきたのであって、他者に見つめられたいという「戦略」からではない。したがってキャンキャン・キャルのファッションが本質的であるとはいえない。
コミュニケーションの本質は、「贈与」という「戦略」にあるのではなく、他者と出会っていることに対する「反応」を表現してゆくことにある。言い換えれば、他者を喪失しているキャンキャン・ギャルは、「贈与」という「戦略」を必要としている。たぶん、内田氏の「愛の思想」と同じように。
もう少しキャンキャン・ギャルにこだわってみます。
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