若い娘のファッション雑誌である「キャンキャン」は、個性的というよりもラブリー系のファッション情報が売り物で、ちまたでは今、そういうファッションが主流になりつつあるのだとか。
内田氏は、雑誌の売れ行きにおいて「キャンキャン」のひとり勝ちだというのだが、それほどでもないでしょう。「キャンキャン」の62万部に対して競合誌の「JJ」は51万部。「ひとり勝ち」というほどじゃない。
ただ、トップの座が逆転した、ということには意味があるのかもしれない。
「JJ」の個性的なファッションに対して、「キャンキャン」のラブリーファッション。一体なぜ後者がもてはやされるようになってきたのか。
内田氏は、それは、できるだけたくさんの相手から愛されようとする彼女たちの「コミュニケーション」戦略である、という。それによって彼女らは、友達や彼氏をつくるのも早いし、会社の面接試験でもおじさんの面接官をたらしこんでしまうことができる。つまり、主体性がないのではなく、そういう戦略にいちはやく目覚めたのだ、と。
で、「JJ」系のわがまま娘は、遅かれ早かれ社会の動きから置き去りにされるだろうという。
「JJ」系のわがまま娘が落ちこぼれる理由として、こんな言っています。
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人間社会はあくまで利己的に振舞う人は安定的に利益を確保することができないように構造化されているからだ。・・・・・・べつに道徳的訓話をしているわけではない。人類学的にクールでリアルな原理をお示ししているだけである。言語も貨幣も親族も、すべてそのようにして形成されるのであり、人類学的ルールが適用されるのは新石器時代ポストモダン社会も変わらない。
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しかしねえ、人類の歴史は「安定的な利益の確保」のためだけで動いてきたわけでもないでしょう。
人間の行動は、「安定的な利益の確保」によって決定されているのか。
人間は、食うことや「安定的な利益」だけではすまない生き物なのではないでしょうか。
「安定的に利益を確保すること」ができれば、それで万々歳なのか。若者のというのは、そんな人生に疲れた中高年のような願いだけにしがみついて生きているのか。
内田氏は、この話を、神戸女学院大学の学生の生態を観察したことをもとに書いているのだが、神戸女学院といえば、お嬢様学校でしょう。そういうアッパー・クラスの子女の青春が、「安定的な利益の確保」のためだけに費やされているのだとしたら、淋しい話です。
金持ちの娘なら、もっとわがままに好き勝手して生きればいいじゃないですか。そういう「利己的な」娘は、僕は嫌いではない。友達なんかひとりもいなくてもいい、男に媚を売るようなことは私はしない、そういう娘は落ちこぼれるように構造化されているのか。
そういう王女のような娘の存在が男たちに緊張感を与え、社会を活性化させることもあるでしょう。
「キャンキャン」ギャルに篭絡(ろうらく)されてしまうような男ばかりになれば、この社会はとめどなくふやけてゆくだけでしょう。
若い娘が「安定的な利益」の追求ばかりに走り、男に媚を売り、ひとりぼっちじゃ何もできないで友達とつるんでばかりいることが、そんなに健全で望ましいことなのか。
「キャンキャン」ギャルのファッションは、たしかに「主体性のないファッション」なのです。彼女らは、小さいときから母親に着せ替え人形みたいにして育てられてきたから、自分で決められないのです。「お嬢様」にこういうタイプが多い。「私はこれがいい」という心の動きがない。ファッションがその調子なら、男に対してだって、ちやほやされたらそれでいいという安直な志向しか持っていない。ミドルティーンのころに、ときめいた、という体験を持っていない。それは、若者として、健全な姿なのでしょうか。
「他者=異性」と出会ってときめくという体験をすれば、その緊張感が自然にファッションに対するこだわりとして出てくるはずです。
いつもジーンズにTシャツ姿であったとしても、それはそれで彼女なりの男に対する「スタンス」がある。男に媚を売ることへのはにかみやつつしみがある。それが、どうしていけないのか。
「キャンキャン」ギャルは、「相互支援ネットワーク構築のリスクヘッジ」において突出しているのだそうです。たしかに、一分もひとりきりじゃいられない、という娘が増えてきている。そういう娘が、「出会い系パブ」なんかに出入りして、男のおもちゃになっていったりする。
そりゃあ神戸女学院のお嬢様が「キャンキャン」のラブリーファッションで決めてゆけば、人事のおじ様の鼻の下も伸びるかもしれないが、一歩まちがえば淋しいだけの「やらせ女」のファッションにもなってしまう。合コンでいちばん落としやすいのが「キャンキャン」ギャルなのだとか。
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そうして内田氏は、最後に、この「ラブリー戦略」こそ日本の伝統文化である、と分析してくれます。憲法第9条戦争放棄のコンセプトからしてそうだし、世界中に愛嬌を振りまいて自国の安全を確保してきた、というわけです。
まあ、折口信夫の「まれびと論」と格闘してきたものとしていわせていただくなら、ずいぶんかんたんにいってくれるじゃないの、という話です。
「媚びを売る」ということと、この国の伝統である「まれびとをもてなす」ということは、ちょっと違います。
明治維新のときに、なぜ中国やインドのように欧米列強の属国にならずにすんだか。
「ラブリー戦略」で媚を売ったからではない。類いまれな「客人をもてなす文化」を持っていたからです。警戒も駆け引きも捨ててまるごと相手を受け入れるというもてなし方をしたからです。そんなもてなし方をされて、向こうも攻撃することも駆け引きすることもだんだんできなくなっていったからです。
たとえばあのころの条約締結なんて、最初は相手の言い分をまるごと受け入れていたのです。中国やインドのように駆け引きするということをしなかった。
「まれびとの文化」は、駆け引きしてたらしこもうとするようなことはしない。まるごと相手を信用しようとする。
キャンキャン・ギャルの「ラブリー戦略」は、見せつけて相手をたらしこもうとする。それは、他者に「先行」して存在しているという前提がなければ成り立たない。彼女らは「見せつける」ことによって、初めて他者と出会う。
それに対して他者から遅れてこの世界に現れるものは、私はすでに見られている、他者はすでに存在している、という自覚があるから、他者の視線に対する「反応」としてファッションを採択する。
キャンキャン・ギャルは、「すでに見られている」という自覚がないから、「見せつけ」ようとする。それは、日本の文化ではない。内田氏は、「始原の遅れ」ということが何もわかっていない。
古代・中世の訪問者である旅の僧や旅芸人のユニホームは、「蓑笠姿」だった。それは、自分を「隠す」衣装であって、「見せつける」衣装ではない。
内田氏は、「キャンキャン」ギャル方式が「日本が21世紀の国際社会を最小のコスト、最低のリスクで生き抜く戦略だ」というが、ただ媚を売るだけでは強姦されてしまうのです。
なぜ女子大にキャンキャン・ギャルが多いかといえば、そこは、男がいなくて強姦される心配のない空間だからです。つまりそこには「他者」が存在していない。
日本にやってきた外国人のほとんどは、小泉八雲をはじめとして最後まで「客人」のままにさせられてしまう。すなわち彼らは、もてなされることの心地よさから逃れられなくなってしまう。
明治維新のときの欧米列強もまた、日本を属国にするよりも、日本からもてなされることを選んだ。
日本人にとって「他者」とは、「客人」であって、「仲間」でも「敵」でもない。それが、「まれびとの文化」です。
「ラブリー戦略」には、媚を売って見せつけるだけで、この国の伝統である「もてなす」という精神が決定的に欠落しているのです。
内田氏はさらに、日本人の「キャンキャン」ギャル的な愛想のよさは、「1500年来<中華の属国>として生きてきた日本人のDNAに含まれる種族的なマインドなのである」などともいうのだが、いったい日本がいつ「中華の属国」になったというのか。この国の古代の人間は、「外国などというものは存在しない」という断念の上に、けっして警戒も駆け引きもしない全人格を賭けた命がけの「もてなしの文化」を育んできた。
キャンキャン・ギャルがこの国の未来を担うのかどうかは知らないが、この国の歴史と伝統を背負っているとは僕は思わない。
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