「いい女」の現在・ここだけの女性論1


女性論を書いてみます。
べつに女のことをよく知っているわけでもありませんが、僕は女が好きだし、その範疇で男と女の関係について考えてみたいと思っています。
男の目から見た女の品性と輝きというのはどんなところにあるのだろうということは、いつも思います。
こういうテーマの話は自分の体験談を語って聞かせるのが常道なのだろうが、僕はもう長く生きてきて、過去のことはほとんど忘れてしまっています。今の僕に書けるのは、今ここの感想だけです。
べつに人に何かを教授できるような柄ではないし、説得力のある女性論が書ける勝算もないのですが、とにかくまあ書いてみたくなりました。
その理由のひとつとして、このごろは女による女性論が花盛りで、それに対する驚きと不満がありました。彼女らは女の幸せを獲得する方法論を追及するばかりで、「女とは何か?」ということを何も問うていないのではないか。男なんかいつも途方に暮れながら「女とは何か?」と問いながら生きているのに、彼女らはもう「そんなことはどうでもいいのよ、いい女になって幸せになれればそれでいいのよ」といわんばかりです。
それでいいんですかね。
男が知りたいのは、そんなつくりものの「いい女」のことではない。
女の自然、というと、それは「メス」のことかといわれそうだが、まあそうでもいいです。そこに女の品性と輝きが見えたりもする。



美少女伝説」という言葉があります。
そういう話は、世界中にある。
この国の歴史上いちばん有名な美少女伝説は「かぐや姫」でしょうか。
女は、存在そのものの気配の中に美少女伝説を漂わせている。そこに、女の品性と輝きがある。それは、現在のものではなくあくまで「伝説」であり、伝説だから人の心を引き寄せる。人々は、失われてゆくものへの愛惜をこめて美少女伝説を語り継ぐ。
いやそれは何も特別なことではなく、たとえば春の川にワンピースの裾をまくって素足を浸したことがあるとか、そんなことでもいいわけです。あるいは、街角のケンタッキーのおじさんを思い切り蹴飛ばしてやったとか。
思春期の少女の孤立性というのか、誰でもそういう時代を通過してきているはずだけど、その痕跡(=伝説)をとどめている女とすっかり消えてしまっている女というのは、やっぱりいるのでしょう。
この女はどんな思春期を通過してきたのだろう、と男は想像するのですよね。
いい女になるための努力だけが女の支払っているものじゃない。もう二度と思春期に戻れないという喪失感=かなしみだって支払っているはずです。そういう喪失感=かなしみがあれば、大人の女たちも、いまどきの若い娘は「だめだ」とか「気の毒だ」というようなことはいえないはずです。
いちばん貴重で美しいものはあなたの「今ここ」だと、なぜいってやれないのか。
無条件になぜ肯定してやることができないのか。



1970年代の中ごろまでは男が中心の社会だったから男の作家による男性論の本ばかり出回っていました。
どうやらフェミニズムのブームを境にして逆転したらしい。
昔の男性論もつまらないものばかりだったが、今どきの女性論だって、なんだかなあ、というような本がいっぱい出回っています。
まあほとんどが、「いい女になるためのハウツー本」というようなコンセプトでしょうか。若い娘のために化粧やおしゃれや男の扱い方を指南したり、それだけでなく大人の女のために書かれた『女性の品格』とか『おひとりさまの老後』も最近大ヒットしました。
それは、フェミニズム以来のひとつの現代的な傾向なのでしょう。
どれも、女による「いい女自慢」や「幸せ自慢」の書きざまです。
昔は「女三界に家なし」などといわれていたが、現代の女は、自己肯定して社会に居座ろうとしている。
いい女になって幸せな人生を送るためにはどうすればいいかとがんばっている。
女が女であることやこの社会の存在であることに執着するようになってきた。それは、フェミニズムの遺産であると同時に、戦後という高度経済成長の時代がもたらしたものだともいえるのでしょう。
戦後の高度経済成長で、女たちは「幸せ」と「いい女」であることを手に入れた。上手に化粧をしておしゃれな服を着て高学歴の教養を身につければ、ひとまず「いい女」です。そうやって「いい女」であることや「幸せ」であることを女どうしで競争する時代になり、「いい女」であることや「幸せ」であることを自慢する女がどっと増えてきた。



とはいえ若い娘は、若いというだけで輝いているのでしょう。その部分では、大人の「いい女」がどんなにがんばってもかなわない。
なのに大人の「いい女」たちは、それじゃあだめだ、もっとこうしろああしろと指図してくる。そうして、たくさんの女たちが迷子になってしまっている。若い女ならまだしも、40、50になってもまだそんな女性論にたぶらかされて右往左往させられたら、たまったものではありません。
一部の自慢たらしい女に引っ掻き回されて、たくさんの女たちが不安にさせられている。
とにかく大人の「いい女」たちにとって若い娘は敵というかライバルであり、そうやって自慢たらしい女性論を書いて、若い娘よりも自分のほうが女としてのランクが上だということを示そうとしている。こういうのを示威行動というのですよね。猿の世界ではよくそうやって若いメスに毛づくろいをさせたりしながら順位関係の確認をしている。まあ、それと一緒でしょう。
若い娘に向かって「あなたはあなたのままでいいのよ」とはいわない。何がなんでも私のほうがランクが上だということを示そうとする。
いや男だってこういう大人はたくさんいて、団塊世代にとくに多い。
上野千鶴子先生は、「今どきの若い女性たちは気の毒だ。私たちの青春時代はもっと充実していた」とおっしゃっていました。まさしく猿の年増のメスの示威行動です。
まあ、若い娘だって、いまどきは厳しい競争にさらされていますからね。つい不安になって、そんな幸せ自慢・いい女自慢の女性論にすがってしまう。
あんな年増のブスのばあさんの自慢話にすがったってしょうがないのに。



最近の林真理子という人が書いた『野心のすすめ』という女の生き方を指南する本は、まさに幸せ自慢・いい女自慢のオンパレードですよね。
どこがいい女なんだ、という男たちの感想なんかへのカッパで、もう自慢たらたらで吠えまくっている。まあ、あっぱれといえばあっぱれです。
彼女は、最初からそうやってマスコミの世界に登場してきた。
一部の男たちからはブスだのなんだのと揶揄されながらもへこたれずに、私は現代の都会の華やかな空気を満喫して生きていると発言し続けてきた。
しかし彼女がなぜあんなにもあからさまに「ブス」のレッテルを貼られてしまったかというと、ただたんに顔や体型のことだけじゃないのですよね。あのていどの顔や体型の女はいくらでもいますよ。とくべつの選りぬきのブスというわけでもない。でも、なぜかそのような印象を強く持たれてしまった。
それはきっと、彼女には女としての品性や輝きが欠落していたからでしょう。
彼女ていどにブサイクでも、品性や輝きをそなえている女はいるし、男だってそういう女に「ブス」ということはつつしみます。
彼女は、ブスだからブスといわれたのではない。女としての品性や輝きが欠落しているように見えたからそう呼ばれてしまった。
彼女だって、女としての品性や輝きを持って生きることはできたはずです。でもそうしたら、現在の成功はなかったでしょう。
彼女はもう、何がなんでも「幸せ」と「いい女」を手に入れたかった。それらは、自分がそう思い込めば手に入れたことになる。成功すればこっちのものだ。そうすれば、自分にあこがれる女が寄ってくるし、男と対等になったり男よりも上に立ったりすることができる。それが「幸せ」であり「いい女」であることの証明だ、ということでしょうか。彼女は、そういう戦略をしっかりと持っていた。他人から自分がどう見えているかということなど知ったこっちゃなかった。そういう視線に反応してゆく感性なんか、とっくに捨てていた。そのどんよりとしたふてぶてしさが彼女のセールスポイントであり、それが多くの迷える女たちの希望にもなった。
まあ、女としての品性や輝きと引き換えにそういうものを手に入れた、ということなのでしょうね。



大人の女は、いい女であるため、幸せになるために自分の未来をマネージメントしてゆく。
それに対して若くて輝いている娘は、自分のことも未来のことも忘れて、「今ここ」の目の前の世界や他者に体ごと反応してゆく。その豊かな反応こそが輝きなのに、大人の女は「それじゃあだめだ」という。「それじゃあいい女になれないよ」という。
「あなたたちの青春は気の毒だ」なんて、まったくよけいなお世話だと思うのだけれど、そういわれると誰しも不安になってしまう。
「あなたたちは輝いていない」だなんて、失礼な話です。
自慢たらしいブスのばあさんが、何様になったつもりか。頭の中はもう、自分を正当化して見せびらかすことばかりになってしまっている。下品ですよ。
どんな時代であれ、女は若いということそれ自体で輝いているのでしょう。自分や未来のことなど忘れて体ごと世界や他者に反応してゆけるのなら、それこそが女の輝きなのだろうと思います。
輝いている自分なんかつくることはできない。自分を忘れてしまうことが輝いていることなのだから。
まあ、「幸せ」とか「いい女」という現代社会が押し付けてくる正義のスローガンから解き放たれているところに女の品性や輝きがあるのだろうと思えます。
誰だって、生きてあることに対する感慨というのはあるわけじゃないですか。ひとまずこの社会での自分のポジションというようなことは忘れて、人間という生き物としてこの世界に生まれ出てきてしまったことに対する途方に暮れた気持ちやかなしみは、若者や子供のほうが持っている。そういう裸の「ひとり」の心で世界や他者に反応している女を「輝いている」というのだろうし、年をとってもそういう反応ができる女はいるのでしょう。
途方に暮れている心こそが、世界や他者に対して豊かにときめいてゆく。
大人になると、だんだん世間ずれしてきて、自分の社会的なポジションばかり気にするようになってくる。そのポジションの優位性を示す根拠として、「幸せ」とか「いい女」の自覚を持とうとがんばる。その自覚が優先されるなら、世界や他者はもう、「こういうものだ」という図式に収めてしまって、むやみな反応はしない方が有利なのでしょう。都会の「いい女」として、その計算され練り上げられたフットワークのよさと勤勉さ……表面は賢く華やかに装っていても、その心の底にどんよりとしたふてふてぶてしさが居座っている。
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