ただ遊び狂え・ネアンデルタール人と日本人101(終わり)


ここまでネアンデルタール人縄文人の生態の共通性を考えながらひとまず日本文化論にたどり着こうと試みてきたわけだが、どちらも「山の中(非日常)に入ってゆく」というコンセプトのメンタリティを持っている、ということが結論になるのかもしれない。
おそらくそこに、人間性の基礎(自然)がある。
原始人の意識は、「今ここ」の日常の裂け目の向こうがわの「非日常」に向かう。
「未来」という時間は、「日常」の延長である。現代社会の動きはひとまずこの未来意識をせきたてることの上に成り立っていて、だから「生活者の思想」などというものがもてはやされたりもするのだろうが、それでも人は、「今ここ」の日常の裂け目の向こうがわの「非日常」に向かう意識で学問や芸術をしたり恋愛をしたり友情をあたため合ったりしている。
未来意識だけで人間という概念が成り立つわけではないし、それだけではブサイクな人間になってしまう。「非日常」に対する視線を持っていることこそその人の魅力になるわけで、そこにこそ生きることの醍醐味(快楽)もあるのではないだろうか。
まあ世界中どこでも、魅力的な人は普遍的に「非日常」に対する視線を持っている。



「人間は死を意識する生き物である」などというが、では人は、みずからの死をこの日常の無限遠点に見ているのか、それとも「今ここ」の裂け目の「非日常」の世界に向かって消えてゆくイメージなのか、これは大問題であり、そうかんたんに前者だともいえない。
まあ宗教の教えでは無限遠点に向かって旅立ってゆくことになっているからひとまずそのイメージが世の中で合意されているが、死から無限遠点(天国あるいは極楽浄土)に向かう旅程が証明されているわけでもないだろう。
脳波計の波がぷつんと止まって、「はい、ここから先は死です」ということになっている。その先はもう、誰にもわからない。「わかっている」といいたがるスピリチュアルの人もたくさんいるが、本人がわかったつもりになっているだけだ、というレベルを超えていない。
死と生のあいだは延長しているのか、それとも断絶しているのか。
断絶しているのかもしれない、という思いは誰の中にもある。その延長しているという思いと断絶しているという思いがごっちゃになって、現代人は混乱している。
「断絶している」という思いを消してしまえる人もいれば、消してしまえない人もいる。
消してしまえば得だというのなら、まあそうかもしれない。
しかしそれでも人は、「今ここ」の裂け目の「非日常」に向かう意識を持って生きている。そうやって「今ここ」という「日常」からフェードアウトしてゆくことのカタルシスがある。それは人間の普遍的な快楽のかたちかもしれないわけで、女のオルガスムスはおそらくこのようにして体験されている。



人間が死と親密になるということは、死をこの生(=日常)との連続性で実感することか、それとも「今ここ」の裂け目の「非日常」に向かって消えてゆくカタルシスを持つことか、両者は同じとはいえないし、人間が生きてあればどうしても消えてゆくカタルシスを体験してしまう。自分を忘れて何かに夢中になってゆくということは、そういう自分が消えてゆくことのカタルシスの上に成り立っている。
息をしたり物を食ったりすれば、体のことなど忘れた気持ちになれる。体を動かすということは、体をただの空間の輪郭のように取り扱って、体の物性を忘れてゆく体験なのだ。人間の意識は、じつは体の動きを追いかけているのであって、意識が体を動かしているのではない。体は、勝手に動いてしまっている。まあ演奏するピアニストは、そういう感覚で指を動かしている。
われわれの意識は、「日常」の裂け目の「非日常」に向かって消えてゆくカタルシスを知ってしまっている。これはもう、どうすることもできない。これがわれわれの生きるいとなみの基本のかたちなのだから。
そして日本列島の古代以前の人々が死に対して親密だったとしたら、生と死を連続性でとらえていたからではなく、「今ここ」の日常の裂け目の「非日常」に向かって消えてゆくカタルシスを豊かに体験していたからだ。それが「死んだら何もない黄泉の国に行く」ということであり、それほどに「死=非日常に向かって消えてゆくカタルシス」に魅せられていた。
人が他愛なく他者にときめいてゆくことができるとすれば、それは、「非日常」に向かって消えてゆくカタルシスを体験していることだ。そのとき、そうやって自分が消えていっている。
生きていれば人はどうしてもこのような体験をしてしまうし、古代以前の人々は、われわれ現代人よりももっと豊かにそれを体験していた。
誰だって、ときめいてしまうではないか。それは、「非日常」の裂け目に向かって自分が消えてしまう体験なのだ。
しかしまあ、ときめいていない人間にかぎって何がすばらしいだの感動しただのといいたがるんだけどね。そこのところでだまされたくはないものだ。
人がときめいてしまう生き物であるかぎり、そうそう「生活者の思想」に安住していることはできないし、生と死の連続性をまるごと信じきってしまうこともできない。



昔の人が死をあまり怖がらなかったのは信心深かったからだ、などとよくいわれるが、そうではない。とくに浄土真宗の人たちは、死んだら極楽浄土にいけるなどと思ったらいけない、そんなことは阿弥陀如来にお任せして、地獄に落ちてもかまわないというくらいにならないといけない……と教えられていたのである。そうやって「今ここ」の非日常に向かって消えてゆくのが、日本列島の死の作法だった。
それは、信心の問題ではない。歴史意識の問題なのだ。昔はまだ日本列島の歴史の無意識が生きていた。そういう問題なのだ。
昔のじいさんばあさんは、「今ここ」の「非日常」の裂け目に向かって消えてゆくようにして死んでいったし、生きる作法として、ときめきながら自分が消えてゆくという体験を豊かにしていた。
そこが、自意識過剰の現代人と違うところだ。
日本列島の歴史は、「非日常」の「山の中に入ってゆく」というコンセプトの世界観や生命観や美意識が作用してきた。昔のおじいさんやおばあさんは、そういう歴史を抱きすくめるようにして死んでいったのであって、信心の問題ではけっしてない。



われわれ現代人は、そういう歴史意識を失っているのかもしれない。
それは、太平洋戦争の敗戦と戦後の経済繁栄によってもたらされた現象であるのかもしれない。
戦争中は国民があまりにもひとかたまりとして支配され過ぎたという反動からか、戦後社会ではひとりひとりの自我意識が野放しになり、「自分が消えてゆく」というカタルシスを汲み上げる作法を失っていった。また、その後の経済繁栄が、そうした自我意識の肥大化を助長していった。
で、「自己」という領分をまさぐる「生活者の思想」というものが大いにもてはやされていったわけだが、経済繁栄の上に成り立ったその生き方の思想は、けっきょく人々の消費行動をあおっただけだった。そのようにして「生活=日常」が社会の隅々まで覆っていった。
知識人がリードする「生活者の思想」に後押しされて、人々は「生活=日常」に耽溺していった。その結果、「非日常=山の中」に入ってゆくという伝統的な歴史意識が希薄になり、自我を満足させる喜びだけで、「非日常に消えてゆく」というカタルシスがあまり体験されなくなっていった。
戦後の日本人は、たくさんいい思いをして生きてきた。幸せな人生だったと回想する人も多いだろう。しかしその結果として、魅力的な大人が増えたかといえば、逆に若者から幻滅されてばかりいるということが社会問題化してきた。
まあ大人たちのその表情にしろ会話にしろ、「非日常に向かってフェイクしてゆく」というタッチを持っていないから、魅力的なニュアンスにならない。
「生活者の思想」に耽溺してる戦後世代の大人たちには歴史意識がない。
若者の「かわいい」のファッションやマンガやアニメやネット社会の絵文字文化などの魅力は、「非日常に向かってフェイクしてゆく」という歴史意識から生まれてきた。彼らはそういうタッチを持っているから、大人たちに幻滅してしまう。
そうして、なんだか騒々しくはた迷惑な被介護老人もどんどん増えてきていると聞く。自我を肥大化させながら生きてきて「非日常に向かって消えてゆく」という歴史意識を持っていないのだから、そうなるに決まっている。


現在のこの国では、若者たちのほうに歴史意識がある。それは、大人たちの意識があまりにも歴史から遊離してしまったことに対する反動なのかもしれない。
なんのかのといっても日本人は日本人であり、その歴史意識は、そうかんたんには消えない。
何はともあれわれわれは日本語を使って暮らしているのだし、それ自体に歴史意識が機能している。だからこの国では、歴史意識の希薄な大人たちは幻滅される。日本語を使う民族であるかぎり、若者にその意識がないとはいえないし、若者はその意識を失ってきた「戦後」という時代を知らない。
ネット右翼といわれる若者たちは大いにめざわりであるのだけれど、それでもそういう一群があらわれてきたのは、大人たちに歴史意識が欠如していることが引き金になっているのかもしれない。まあ自分の「生活=日常」をまさぐることばかりして世界や他者にときめいてゆくというタッチを失った社会であるのなら、それがネット右翼というかたちの自我意識で噴き出してくることもあるに違いない。彼らは、歴史意識を一方で持ちつつ、もう一方では大人たちほど「生活=日常」に耽溺できていないという欲求不満があるのだろうか。
いずれにせよ、まだまだ「生活=日常」に耽溺することが価値の世の中になっているらしい。
右傾化することはよくないといっても、戦後日本が安易に左傾化しすぎたことの反省もあるのだろう。
とにかく、日本人は日本人であるしかない。世界がグローバル化すれば、かえってそう思い知らされる機会も増えてくる。
もはや、もろ手を挙げてアメリカ文化に追随してゆける時代ではない。「われわれはそんなふうに思うことはできない」ということはあれこれ出てきている。
現在は、大人たちよりも若者たちのほうに歴史意識がある。



この国の歴史意識は、国とか社会とか政治とか経済とか、そんな「日常」を忘れながら「非日常」に向かってフェイクしてゆくことにある。若者たちは、すべてに無関心であるのではない。心が「非日常」に向いてしまっているだけなのだ。そしてそこから「ジャパンクール」の文化現象が生まれてきている。
もともと人間はあまり生産活動にがんばれなくて、遊びや祭りが好きな生き物なのだ。
食い物なんかコンビニ弁当でいいとかデートは居酒屋でいいとか着るものはユニクロでいいとかというのは、それだけ生産活動に熱心ではないということであり、「生活=日常」に関心が向いていないということである。
「ジモピー」と呼ばれる人たちが都会にあこがれないのも同じで、べつに地元の「生活=日常」に耽溺しているのではない。心はもう「非日常」に向いてしまっているからこそ、地元にとどまっていられる。彼らは、目の前の人間と他愛なくときめき合っている。そしてそれこそが日本列島の伝統であると同時に、人間の普遍的な自然でもある。
都会にあこがれた今の大人たちこそ、「生活=日常」に耽溺し生産活動に熱心だった。都会に出て金を稼ぐことは生産活動だし、その金で彼らは、美味いものを食っていい服を着る生活をしたいと思った。
バブル景気は、人々が美味いものを食っていい服を着るという「生活=日常」に耽溺するムーブメントだった。
しかし今の若者たちは、あまりそんな欲望を持たなくなってきた。
日本人の心が、だんだん「生活=日常」に耽溺しなくなってきている。それがいいことか悪いことかは知らないが、それが日本人の歴史意識なのだ。
「非日常」に向かってフェイクしてゆく心(センス)を持てば、他愛なく他者とときめき合う関係を持つことができる。そういうお祭り気分が広がってきている。
「山の中に入ってゆく」というお祭り気分こそ、日本列島の歴史意識である。ジモピーだって、「山の中に入ってゆく」というお祭り気分で地元に残っている。彼らは「非日常」の華やいだ気分を持っている。
都会に出て美味いものを食っていい服を着る生活がしたいという欲望を抱くことこそ、いじましく「日常」に耽溺してゆくことであり、「非日常」に対する想像力を喪失していることにほかならない。
美人と腕を組んで都会の街中をデートすれば恋愛になるかといえばそんなものでもないだろうし、そんな恋愛がすばらしいのかどうかよくわからない。今や美人なんか都会にいくらでもいるし、ホリエモンのように金さえあればなんとでもなる。それはただ、「生活=日常」に耽溺した男と女がくっついているだけの、バブルのときと同じ現象にすぎない。
そういういじましいことはもういい、という気分が広がってきている。
それは、お祭り気分で他愛なくときめき合っているのではない。祭りは、「非日常」という「山の中に入ってゆく」ことであり、そこでこそ人は華やいだ気分になる。
お金によって人は、「生活=日常」に縛られてしまう。
縄文人は、「山の中に入ってゆく」ことによって華やいだ気分になっていった。それが、日本列島の歴史意識である。コンビニ弁当や居酒屋やユニクロやジモピーでいいというのは、「山の中に入ってゆく」という歴史意識である。
そういう「非日常」の意識が広がってきている。それは、「生きのびるため」などという生産活動の意識ではない。「生活=日常」に耽溺していなければ、生産活動の意欲は湧いてこない。「生活=日常」に耽溺してゆくという「戦後」のムーブメントが、今ようやく清算されつつあるということだろうか。
「生活者の思想」がジモピーや低収入の若者を応援できると思ったら大間違いである。彼らはもう「生活=日常」なんかどうでもいいと思っている。彼らの心は「非日常=山の中」にあり、そこで華やいでいる。そしてそれが日本列島の歴史意識だとしたら、単純に一過性の現象だともいえない。またそれが支配者にとって都合が悪いことかどうかということもよくわからない。その「非日常」性にこそ日本人の知性や感性のダイナミズムがあるわけで、そこでやりくりしてゆけばいいのだろう。
100年後も、今のようなお騒がせの被介護老人やクレーマーやネット右翼ばかりの世の中になっているということでもあるまい。今でもそのような人たちは少数派であり、けっきょく日本人は日本人であるしかない。
日本人が日本人であると世界の人と関係を結べないというわけでもあるまい。
もともと人間なんてみな、お祭りの「非日常性」を生きようとする存在なのだ。
日本人は他者を説得する能力には乏しいが、他者に他愛なくときめいてゆくことができるメンタリティを持っている。そこから、「日本人は話していて反応がいい」という評価が生まれてくることもあるだろう。
日本語は、説得し合う言葉ではない。たがいが反応し合うことによって盛り上がってゆく。
山の中は、けっして幸せな空間ではないし、広々とした空間でもない。だからこそ意識が集中し研ぎ澄まされる。そのようにして日本列島では、縄文時代の1万年を経た長い歴史とともに他者の言葉に反応しときめいてゆく感性が育ってきた。
言葉の問題は、日本人はどのような人と人関係をつくりながら歴史を歩んできたのかという問題でもある。その人と人の関係が日本文化をつくってきたのだし、おそらくその関係の基礎は、縄文時代の「山の中に入ってゆく」という体験が基礎になっている。



人の心は、「非日常」の空間に向かって華やいでゆく。
現在の孤独死の老人にも似た中世の隠遁者や無用者の思考や感性が、いい服を着て美味いものを食って「生活=日常」に耽溺してきた戦後の「生活者の思想」よりも貧弱だったとはいえない。西行=兼好=一休=芭蕉=良寛……琵琶法師=踊念仏=能=河原乞食=高野聖……これらの隠遁者・無用者の系譜は、日本列島のはじまり以来の「山の中に入ってゆく」という歴史意識の上に成り立っている。「ただ踊り狂え」といった彼らの思考や感性は、それなりに華やかでダイナミックだった。
そして戦後の「生活者の思想」は、けっきょくいじましくみすぼらしい顔をした大人たちを大量に生み出しただけだった。
現在の社会が閉塞状況にあるのかどうかよく知らないが、誰の中にもそれなりの閉塞感はあるのだろう。この国だけでははない。その気分は、世界中に蔓延している。グローバル化が進んでこんなにも世界が広くなったというのに、かえって閉じ込められた気分になってしまっている。誰の心の中にも、「グローバル」という言葉に対する危機感や不快感が棘のように刺さっている。
ひとまず平和な世界になったからだろうか。それによって世界中が「生活=日常」に耽溺してゆき、世界中が「生活=日常」に覆われてしまった。人々は、未来や広い世界を目指して「生活=日常」を延長してきただけで、しだいに「非日常=山の中に入ってゆく」というタッチを失って入った。
たとえば、ハリウッドのSFやパニックのスペクタクル映画など、「生活=日常」の延長を描いてきただけではなかったのか。
昨今流行の神や霊魂のスピリチュアルのお話だって、けっきょく「生活=日常」の無限遠点を語っているだけにすぎない。スピリチュアルの教祖様たちもまた、ようするに「生活者の思想」を振りかざしながら、この生やこの世界を「生活=日常」で塗りつぶしてしまう平和の暴力に加担している。彼らは、神や霊魂という概念でこの生やこの世界を分析しているだけで、生まれたばかりの子供のようなまっさらな心でこの生やこの世界の問題に分け入り何かを発見してゆくという、人間性の基礎となる知性や感性は何も持っていない。
文明によって人間の知性や感性が侵食されてしまっている。
そうやって、世界は閉塞感に覆われてしまった。
解決の方策なんか知らない。
何もかもどうでもいい。
「ただ遊び狂え」という中世の人々の言葉が思い浮かぶばかりである。その「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」タッチこそが日本列島の歴史の無意識であり、二本の足で立っている人類普遍の生きてある作法ではないかと思える。
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ネアンデルタール人と日本人」というシリーズはひとまずこれで終わりです。いろいろとキーワードは浮かんできたが何一つ最後まで問い詰めることができず、ひとまず宿題としてこれらのことをこれからも考えてゆきたいと思っています。
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