やまとことばと原始言語 43・わけのわからないもの

「混沌」とは、「わけのわからない」ものや事柄を意味するらしい。
2万年前の原始人がつくった「頭がライオンで体が人間」という彫像は、あの地平線の向こうにはそういう「わけのわからない」異民族が暮らしている、と想像したのかもしれない。
彼らはまだ異民族の正体、すなわち同じ姿かたちの人間だということを知らなかった。
原始人にとって「異民族」との関係は、つねに「わけのわからない」ものを想像することだった。
人類が旅をするようになって戦争とか交易とかの本格的な異民族との関係を持ちはじめたのは氷河期が明けたおよそ一万年前以降のことであり、少なくとも「頭がライオンで体が人間」という彫像をつくってからそれまでの1万年間は、「わけのわからないもの」ばかり想像していたにちがいない。
生活の行動範囲が広くなれば、あの地平線の向こうにももうひとつの世界があることはなんとなくわかる。しかしそこまで旅をしてゆくことは物理的に無理だったし、そういう「わけのわからないもの」と遭遇することの不安やおそれがあった。
そのように心の中を不安とおそれに占拠される日々の、一万年以上の歴史があった。
つまり、心が「わけのわからないもの」に憑依してしまう1万年以上の歴史があった。
その「わけのわからない」ものに憑依してしまう一万年以上の歴史から、それ自体が希望であり救いであるようなイメージに昇華していった。それが、「神」ではないだろうか。
人間はもともと、そんな混沌に憑依してしまう心の動きを持っている。
生きてあることそれ自体、この身体そのものが「わけのわからないもの」である。
したがって、もともと「わけのわからないもの」に対する不安やおそれから「カタルシス」を汲み上げてゆくことのできる心の動きを持っている。
そんな一万年以上が続けば、とうぜんそれが希望であり救いになるイメージも生まれてくる。
つまり、異民族と出会ったから「神」という概念を持ったのではなく、異民族の存在を感じながら出会うことのない不安とおそれの一万年以上の歴史から生まれてきたのだ。
そういう「境界の思考」から「神」という概念が生まれてきた。
人間は「境界」で思考する。
ことばは、他者の身体との「境界」の「空間=すきま」で生成している。
この身体は、肉体としての身体と外界との「境界」の「身体の輪郭」として意識されている。
これらの「境界」は、不安とおそれをともなった「わけのわからない」空間であると同時に、この生のカタルシスをもたらす空間でもある。
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大陸の「神」ということばは、もともと「わけのわからないもの」という意味だったらしい。
人間は、しばしば「わけのわからないもの」である妖怪のようなものを聖なる神へと祭り上げてゆく。
「ゴッド」と「ゴースト」は根は同じで、「わけのわからないもの」に対する不安とおそれから発している。
われわれ人間は、心の中に「わけのわからないもの=混沌」を抱えて生きている。
大陸の人々はそれを「ゴッドとゴースト」の「二項対立」として納得していった。「聖と俗」、「天国と地獄」、「善と悪」等々、それは、「わけのわからいない」という事態を消去(排除)してゆく心の動きである。そりゃあそうだ、そういう不安とおそれの一万年以上の歴史を持っているのだから。そして、一万年以上たって異民族と出会い、異民族はゴーストである、と納得していった。そのときもう、そういうふうにしか考えられなくなっていた。
だから、今でもなお民族対立や戦争を繰り返している。
人間が今でもなお民族対立や戦争を繰り返しているということは、4万年前のヨーロッパでヨーロッパの原住民であるネアンデルタールと外来の異民族であるアフリカのホモ・サピエンスが出会ったということなどなかった、ということを意味する。氷河期明けまでのおそらく数万年を、人間は、「異民族はわけのわからない生き物だ」という妄想をずっと膨らませて生きてきたのだ。その記憶が、現代もなお引き継がれている。
それに対して日本列島では、「わけのわからない」ということを消去(排除)することなく、それ自体をパッケージして納得していった。
大陸の「あなたと私」は対立する二項であるが、日本列島ではたがいに自分を消去し合い、たがいの身体のあいだの「空間=わけのわからないもの=混沌」が祝福されてゆく。
日本列島では、すべてのものが「わけのわからないもの」としてパッケージされている。
自分だって「わけのわからないもの」だから消去できる。
四方を海に囲まれて異民族との出会いがなく、異民族など存在しないと思い定めて生きてきた民族は、大陸のような二項対立の思考ができない。「わけのわからないもの」はもう、それ自体としてパッケージするしかなかった。
しかし日本列島だって、氷河期明け以前は、大陸と陸続きになっていたのだから、そういう二項対立の思考の痕跡がわれわれにまったくないわけではない。
われわれは、氷河期明け以降の歴史を、二項対立の思考を解体して歩んできた。
そういう1万年の歴史を生きて、今また二項対立の思考の社会をつくっている。
そのあたりが、この国の現代社会のなやましいところだ。
この国には、異民族を排除しようとする文化と、異民族を受け入れもてなすサービス(献身)の文化が共存している。ともあれ、異民族(他者)を排除しようとすることなど、氷河期明け以降の歴史において、久しく忘れていた衝動だったのだが。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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