やまとことばと原始言語 44・「ひとりぼっち」であるということ

人間の心は、根源において「わけのわからないもの」に憑依している。
生まれてきて生きていることは「わけのわからない」事態であり、死ぬことはなおさらにそうだ。われわれはもう、この想念から逃れられない。
「原初の混沌」などという。
原初の世界は混沌であったのか。
そんなことはない。
原始人がタンポポもチューリップもまとめてただ「花」といっていたからといって、区別がついていなかったわけではない。わざわざ名前をつけて区別する必要もない暮らしをしていただけのこと。
われわれの景色の見え方も原始人の見え方も同じに決まっている。大人の見え方も子供の見え方も違うはずがない。
そして、人の心の中の「わけのわからない」という想念だって、現代人と原始人の違いなんかない。
世界が混沌としているのではない。われわれの心の中に「わけのわからない」という想いが住みついているだけのこと。
人間が人間になった瞬間、すなわち原初の人類が二本の足で立ち上がった瞬間から、すでに心の中に「わけのわからないもの」に対する不安とおそれを抱いている存在になったのだ。
四本足の猿が二本の足で立ったまま行動して暮らすことは、それ自体、不安とおそれの中に身を置き続ける体験だった。
また、生まれた瞬間の赤ん坊は、はじめて出会った身体のまわりの「空気=何もない空間」を「わけのわからないもの」としておそれおののき、「おぎゃあ」と泣く。
われわれの身体は、世界から分節されてある一個の孤立した存在である。そういうことを、人間は、生まれた瞬間に気づく。
すべての存在は、世界から分節された孤立した個体である。クリアに分節されてあるからこそ、この世界の何もかもが「わけのわからないもの」になるし、心は、みずからの「この身体」すらも「わけのわからない」対象だと思う。
そうしてつまるところ誰もが、心の底では、今ここに生きてあること自体を「わけのわからない」事態としておそれおののいている。
混沌としているのは、世界ではなく、われわれの「この心」なのだ。
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原始人は自然と一体化して生きていたのではない。
カブトムシだって、世界から分節された一個の個体として生きている。
われわれ生き物は、この果てしない宇宙の真っただ中にひとりぼっちで放り出されている。人間はこのことを自覚する存在するだからこそ、群れをつくり、共同体をつくり、ことばを持ち、宗教を生み出していった。
存在するものにとって、「何もない空間」は、「わけのわからないもの」である。われわれは、そういう孤立してあることの不安とおそれとともに存在している。
生きてあること自体が、人間にとっては「わけのわからない」事態である。
これは、意識の発生の問題だ。意識は、「違和感」として発生する。
「違和感」とは、「身体の危機」のこと。身体の外が「何もない空間」であるということは、身体がうまく世界におさまっていないことを意味する。その不安やおそれとして、意識が発生する。
二本の足で立っている人間の身体は、とても不安定で、とくにうまくおさまっていない。だから他の動物以上に「何もない空間」に対する不安やおそれを強く意識している。これが、根源としての「わけのわからないもの」という意識だ。
そしてこの不安やおそれ(=違和感)から、人間的な快楽も生まれてくる。「ときめき」とは、ひとつの違和感である。
この、根源においてはたらいている不安やおそれ(=違和感)が、人の心の動きを豊かにする。
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とすれば、この不安やおそれがなければ、心は停滞してゆくことになる。
デカルトがなぜ「我あり」という問題にこだわったかといえば、このことをクリアに自覚できなかったからだろう。
キリスト教徒にとってこの世界は、神によって統一と調和がつくられており、「わけのわからないもの」ではない。
デカルトがもし、誰よりも深く神の存在を信じていたとしたら、彼にはこの世界を「わけのわからないもの」として認識することの不安やおそれがなかったことを意味する。彼にとってこの世界とは何かという問題は、神がつくりたもうたものとしてすでに解決されており、残るのは「私とは何か」という問題だけだった。
つまり、自分はこの世界の孤立した個体であると自覚することのひりひりした不安やおそれがなかった。神の存在を信じながら彼は、「我あり」という実感が希薄になっていった。だから、なんとしても「我あり」の証明をしなければならなかった。
「王様は裸である」と子供がいった。
僕は、デカルトの「我思うゆえに我あり」ということばと高校生のときに出会って、どうしてこれが哲学の偉大な定理になるのか、まったくわからなかった。そうしてやがて妙な知恵ががついてくるとデカルトというビッグネームの威力に負けて信じかけたころもあったのだが、今にして、やっぱり「王様は裸だ」と思う。
そのとき神を深く信じていたデカルトの実存感覚は麻痺していた。だから「我あり」を証明しなければならなかった。
「神がこの世界をつくりたもうた」ということにしてこの世界を調和して統一されたものとして納得してしまうと、生き物としての実存感覚が麻痺してくる。デカルトの差し出した「我思うゆえに我あり」という定理は、そういうことを証明している。
この世界も自分が生きてあることも、「わけのわからないもの」なのだ。
この世界にひとりぼっちの個体として存在してあることのひりひりした実感があれば、いまさら「我あり」という証明など必要ない。逆に、その「我あり」ということの「自明性=受苦性」から生きはじめるのが人間なのではないだろうか。
それは、この生の前提であって、いまさらのように証明を必要とすることではない。
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西洋は、「わけのわからない」という問題を、神という概念によって解決した。
一方日本列島の「かみ」という概念は、「わけのわからないもの」それ自体を「空間」としてパッケージしてゆく心の動きだった。
われわれは、そういう不安とおそれとともに生きている。誰だってそうじゃないか。西洋人だって同じ人間なのだから、そうたいしてちがいないだろう。デカルトは、すぐれた知識人として誰よりも深く「世界は神がつくりたもうた」と信じていったから、そうした実存感覚が麻痺してしまったのだ。
人間は「わけのわからない」という「不可能性」に憑依してゆく。この「挫折体験」こそ、人間性の基礎なのだ。
しかし西洋のキリスト教思想は、世界の謎を解決し、われわれの中のこの「不可能性」に憑依してゆくという人間性を抑圧してくる。
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「知の探求」とは、新しい「なぜ?」という問いにたどり着くことであって、それを解決し納得してゆくことではない。「なぜ?」と問う場において、心はもっとも豊かにはたらいている。
知識人とは、「なぜ?」と問い続ける人のことであって、知識をため込んで満足している人間のことではない。幼児こそ、もっとも本格的な知識人である。生まれて間もない彼らにとって、この世界もこの生も、「わけのわからない」ことだらけである。
「知の探求」のおいてもっとも有効な武器は、幼児の「イノセント」である。
この生の謎を解決することが、この生を豊かにするのではない。
この生の謎に耐えて「なぜ?」と問い続けることによって、心は豊かにはたらくのだ。
人間は、この生の謎に耐えて「なぜ?」と問い続ける生き物だから、「ことば」を生み、より密集した群れ(共同体)をつくってきたのだ。
「ことばは伝達する機能として生まれてきた」なんて、なんとお気楽な思考であることか。人間には、ことばを必要とするもっと切迫した事情があるのだ。つまり、ただ「ことば=音声」を交わしあうことそれ自体がわれわれのこの生を支えているのであり、そういうところから「ことば=音声」が生まれてきたのだ。
他人の心なんて、わからない。他人なんか、気味の悪い存在である。ことばを交わしあうことなく一緒にいることなど、とてもできない。とりあえずことばが交わされれば、なんとか一緒にいるという事態に耐えることができる。意味を伝えるということ以前に、ことばを交わしあうことそれ自体にわれわれはほっとする。だから人は、意味もない天気の話なんかを交わす。
まず、ことば=音声を交し合って、一緒にいることの居心地の悪さを解消しようとした。これが、ことばの起源だ。
ことば=音声を交わしあうことがどれほどほっとするかということは、誰だって身に覚えがあるだろう。そのようにして、ことばが生まれてきたのだ。
一緒にいて黙っていると、たがいに「わけのわからないもの」に対する不安とおそれにどんどん憑依していってしまう。人間はそういう存在だから、言葉を生み出していったのだ。
だから、最初は、「ことば=音声」の意味なんかどうでもよかった。意味を伝えるためにことばを生み出したのではない。たがいの身体のあいだで「ことば=音声」が生成しているというそのことにカタルシスが体験されていった。
相手に伝えるつもりもない「ことば=音声」は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で生成している。そのとき、ともにそのことば=音声を聞くものとして、その「空間=すきま」を共有している。
そうやって人は、「わけのわからない」存在である他者と一緒にいる事態に耐えていった。
たがいに「わけのわからない」存在なのだから、意味を伝達しようとする意欲も、意味を受け取ろうとする意欲もなかった。論理的に考えて、そういう意欲が発生するはずがない。意味、などという意識もないままその「ことば=音声」は発せられた。
「やあ」と笑っていえば、「やあ」と笑って答える。その交換が、ことばの発生である。相手のことがわけがわからないからといって、そのわけがわからないことに耐えようとするなら、ひとまずそういってみるしかないではないか。黙っているわけにはいかない。その「ことば=音声」に意味なんかなくとも、それでひとまず一緒にいる場が祝福されている。
人間は、問題を解決しようとするのではない。わからなさに憑依して「なぜ?」と問うてしまう存在であり、わからなさに耐えようとする存在なのだ。
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人間は、その実存感覚として深く切実に「ひとりぼっち」であることを自覚しているから、他者と一緒にいようとする。他者と出会えば、ひとまず笑って「やあ」といってしまう存在なのだ。ひとまず笑って「やあ」といい合う群れをつくろうとしてしまう存在なのだ。
人間が限度を超えて密集した群れをつくっていることは、それだけ深く切実に実存感覚としての「ひとりぼっち」を自覚している存在であることを意味している。
そして深く切実に実存感覚としての「ひとりぼっち」を自覚しているからこそ、この世界も他者も「わけのわからないもの」として現前してしまう。
仲良し集団をつくって「ひとりじゃない」といっても、「ひとりぼっち」だから仲良し集団をつくるのだ。
人間から実存感覚としての「ひとりぼっち」という意識を消すことはできない。
いまさら「我思うゆえに我あり」などといわれても困るのだ。そんなことはとっくに自覚している。そこからこの生がはじまっているのだ。
人間が花に対して「花」という名をつけるのは、そうしないといられないくらいはなが「わけのわからないもの」だからだ。その「わからなさ」に耐えるために「花」と名づけている。
花と名づけたからといって、花の何がわかるわけでもない。(名づけただけだわかったつもりになってしまう学者もいて、そういう学問を「分類学」という。まったく、学者というのは、分類することが大好きな人種だ)。
また。科学者が花の成分や構造を解き明かしたからといって、花が花であることの何がわかるわけでもない。花はどうして人間ではないのか。どうして空気ではないのか。どうして存在するのか……わけがわからないことではないのか。
ただそこに花があるというそのことに驚きときめいて「花」と名づけたのだ。花の何をわかろうとしたのでもわかったのでもない。
人間は、すでに「ある」ということに深く切実に驚きときめいている。その心の動きがなければ、「花」ということばは生まれてこない。何をいまさら「我思うゆえに我あり」か。
花の何かがわかったから「花」と名づけたのではない。「わからない」から、「わからない」というそのことに不安とおそれを抱いたから、深く驚きときめいて「花」と名づけたのだ。
われわれは、その「わからない」という嘆きを根源において抱えている。
だから、「なぜ?」と問う。
しかし、その問いは永遠に解決されない。
ただただそのわからなさに耐えるために「花」と名づけたのだ。
問題は、何も解決されない。人間は、永遠に「なぜ?」と問い続ける。
「なぜ?」と問うて、ことばが生まれ、「神」という概念が生まれてきた。それらは、もともと「わけのわからないもの」と向き合い、その狂おしさに耐えるいとなみであった。
人間は、その狂おしさを生きようとする。なのに「宗教」は、「わけのわからないもの」という問題を解決してしまった。
原初、「神」とは「わけのわからないもの」であった。それは、「宗教」ではなかった。「わけのわからないもの」に対する狂おしさを生きるための概念だった。それなのに、だんだんその問題を解決した「宗教」になっていった。その契機はたぶん、およそ1万年前に「異民族」と出合ってしまったことにある。
ともあれ、ひとまずここでいいたいのは、「我思うゆえに我あり」という定理は、生きてあることのダイナミズムを喪失している心の動きから生まれてきたものであるということ。僕は、こんな定理は信じない。王様は裸だ。
まあ、「科学と宗教」という問題を考える契機にはなるだろうが。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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