やまとことばと原始言語 42・「受動性」について

E・レヴィナスは、「受動的よりもっと受動的」といった。つまり、「人間存在の根源的な受動性」ということをいいたいらしいのだが、そういう受動性は、「神」の存在を当てにしている西洋人にわかることではない。
彼らは、「全能の神」すなわち「神がこの世界をつくった」、という。そのように信じて神に身をあずけることは、「受動性」か。神がこの世界をつくったのなら、自分たちも何かをつくってもいいだろう、と思う。自分たちで何かをつくってゆく「能動性」が旺盛だから、「神がこの世界をつくった」という発想をする。
「つくる」という発想自体がいやらしいのだ。
「能動性」というとなにかそれが正義のような世の中で、この言葉にネガティブなニュアンスはないが、ようするに「意地汚いスケベ根性」ということだ。
西洋人にはそういう意地汚いスケベ根性があって、自然を支配し、人を説得し支配しようとする「衝動=能動性」が旺盛なのだが、それは、神がこの世界をつくった、という宗教を信じているからだろう。というか、そういうスケベ根性で「神がこの世界をつくった」という宗教を発想した。
神がこの世界をつくったのなら、この世界の外に神のいる世界があるということか。この世界がそういう限定された空間であるのなら気分は楽だ。そう思えばもう、果てしない宇宙の「無限」という想像に思い煩わされることもない。
彼らは、地平線の向こうに異民族がいることを知っている。そのようにして、この世界の外に神の世界をイメージしていったのだろう。
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しかし、しんそこ受動的な人間なら、「神がこの世界をつくった」などといわない。この世界をつくった「創造主」などイメージしない。
彼には、「つくる」ということ自体がイメージにない。
この世界は「すでにある」のだ。つくったものなどいない。
この世界は「ビッグ・バン」によってつくられた、という。じゃあ、ビッグ・バンを生み出すような世界がすでにあったからだろう。ビッグ・バンのことなんかどうでもいいから、そっちの世界のことを教えてくれよ。ビッグ・バンなんか、その世界の中のただの一現象じゃないか。
われわれの中の「無限」ということばにたいするなやましさや狂おしさは、「ビッグ・バン」や「神がこの世界をつくった」などということばでかたがつくものではない。
いいかえれば、そういう「無限」という概念を解決する道具として西洋の「神」が機能している。
それに対してやまとことばの「かみ」は、「何もない空間」なのだから、もう「無限」は解決できない、といっているのと同じである。解決できないことが解決だ、というか。
古事記の「かみ」は、この世界に出現した(=なる)、と書かれてある。まあそのあと日本列島をつくったというのはご愛嬌で、ひとまず「混沌の世界に出現した」といっている。そのとき日本列島の古代人は、「無限」に対するわからなさを受け入れている。わからなさをを受け入れるなら、もう「出現した」としかいいようがない。
つまり、「無限」の問題を解決してしまっているところが、西洋人のいう「受動性」の限界なのだ。解決するということ自体が、受動性ではない。
彼らは、神に対して受動的であるのではなく、神と能動性を共有している。つまり、神に対して受動的であればあるほど能動的になってしまうのだ。
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西洋のことばは、他者を説得する(伝達する)ための道具として機能している。もう、能動的であるほかない人たちなのだ。
日本列島の「かみ」は、人々に「かみに対する受動性」など要求しない。
われわれは、「かみ」から、どんな命令も説得も受けない。われわれにとって「かみ」は「非存在」の対象であり、無限の何もない空間でもある。そして、この世界のすべての存在の「身体」は、その「無限=何もない空間」のひとつのパッケージなのだ。
われわれの身体にも「かみ」はやどっている。
したがって、われわれは「かみ」からいかなる命令も説得も受けない。
「かみ」との関係を結ぶことが「受動性」であるのではない。自分を捨てて、「かみ」はすでにこの「身体」にやどっている、と受け入れてゆくことが「受動性」なのだ。
体の中の肉も内臓も骨もきれいさっぱり忘れて、体の中が「何もない空間」になってしまったような心地のことを、この国では「みそぎ」という。つまり、「かみ」が身体にやどっている状態のこと。
「無限=神」という問題を受け入れ納得することが「受動性」であるのではない、「無限=かみ」という問題の前で深く絶望することが「受動性」なのだ。身体がからっぽの何もない空間になってしまうまで深く絶望すること、この国の「受動性」はそのようにはたらいている。
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地平線の向こうにもうひとつの世界があると気付いた民族と、水平線の向こうは「何もない」と断念していった民族、これが「神」と「かみ」の違いだ。
そしてこの違いは、人間としての「身体感覚」にたいする観念の位相の違いであり、すなわち「生活感情」の違いなのだ。
あの地平線の向こうにもうひとつの世界があると思っているときの身体感覚と、あの水平線の向こうには何もないと絶望しているときの身体感覚は、同じではないだろう。
(断っておくが、ここでいう「絶望」は、べつに混乱して気が狂いそうになっている状態を意味しているのではない。「絶望」とは、望みを絶つこと。「望み」などとというスケベ根性がきれいさっぱりなくなっている状態のことだ)
つまり僕がいいたいのは、ようするに「神=かみ」といっても、原始人の日々の暮らしの生活感情から生まれてきたことばにすぎない、ということだ。
それは、他者や世界と向き合っているときの身体感覚から生まれてきたのだ。そしてそのようなイメージであったものが、共同体(国家)ができて人間の観念のはたらきが複雑になり、あれこれややこしいことがいわれるようになってきただけのこと。
神が存在するものであれば、そりゃあ神との関係も生じるし、あれこれのややこしい問題も解決されるのだろう。
解決する、というのは能動性だろう。
そんなややこしい問題をもたなければ、解決もくそもない。
問題を消してしまうことが解決である、という場合もある。
みずからの貧しいことに無関心であれば、貧しいことは問題でもなんでもないし、貧しいことの解決でもあるにちがいない。
生きてあることがしんどいのなら、生きてあることに無関心になればいいだけのはずだが、現代人は、生きてあることの価値ばかり追求して、それで解決しようとしている。
大陸の人々はそれが解決かもしれないが、この島国の住民はそれでは解決にならないような心の動きを持ってしまっている。それは「神」と「かみ」の違いであり、古来から引き継がれてきた生活感情の違いでもある。
はじめに「生活感情」があった。「神=かみ」ということばは、そこから生まれてきた。
はじめに「神=かみ」ということばがあった。それはただ生活感情を表出することばだったのであり、「神=かみ」という概念は、そのあとにつくられていった。
命の尊厳、といっても、この国の自殺しようとしている人を説得することはできない。それは、「かみ」以前の歴史的な「生活感情」の問題だ。
「他者を排除しない愛」といっても、神を信じる国の人々が「神の愛」や「神への愛」などといってその問題を解決しているかといえば、そんなことはまったくなく戦争ばかりしている。それは、「神」が知らないふりをしているのではない。また、神への愛や信仰を持ったら戦争が亡くなるわけでもないし、彼らの中の他者を排除しようとする心の動きがなくなるわけでもない。それは、「神」以前の歴史的な「生活感情」の問題なのだ。
「神」との関係を持ったら問題が解決されるわけではない、それは「神」以前の問題なのだ。
だいたい、解決できるつもりでいること自体がいやらしいのだ。その瞬間、人は受動性を捨てる。
いやまあ、何をいってもしっくりこない。僕はまだこの問題の入り口に立っているだけである。
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