やまとことばと原始言語 41・「神」と「かみ」のあいだ

やっぱり、はじめに「ことば」があった、のかもしれない。
ことばを持っていたから人間は、「神」という概念を発見したのだろう。
結論から先にいおう。
ことばは、あなたと私のあいだの「空間=すきま」で生成している。その「空間=すきま」が「神」だ。
われわれは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を保ちあいながら、この限度を超えて密集した群れの中で暮らしている。この「空間=すきま」が確保されているから、身体が動くことができる。肺や心臓が動くことも含めて、体が動くことが生き物の生の根源である。限度を超えて密集した群れの中に置かれて存在している人間は、この「空間=すきま」に対する意識がことのほか切実であり、この「空間=すきま」を止揚し祝福してゆくことが生きるいとなみになっている。そういういとなみとして直立二足歩行が生まれ、ことばが生まれ、やがて「神」という概念が見出されていった。
「神」は、この「空間=すきま」に対する意識から生まれてきた。
この何もない「空間=すきま」に対する切実な意識から、何もない「あの世=他界」という概念が見出されていった。
日本列島の古代の「黄泉の国」は、何もない空間としての死後の世界のことをいった。
この身体の外には何もない空間が広がっているように、の生の向こうの死後の世界もまた何もない空間にちがいない、と古代人は考えた。
この身体が存在するという意識は、この身体の外の「何もない空間」との対比の上に成り立っている。
人間は、この「何もない空間」を畏れつつ祝福している。この「何もない空間」があるから、身体は安定を保っていることができない。死ぬことは、この空間に身体がさらわれてしまうことである。
と同時に、この空間によって、身体が動くことすなわちこの生が保証されている。
この身体が「何もない空間」ではないように、この生もまた、「何もない」ところの「死」ではない。
この生の外にあるものを、原始人は「神(かみ)」と呼んだ。それは、あなたと私のあいだに横たわる「空間=すきま」でもあった。あなたと私をつなぐものはこの「空間=すきま」であり、この生と死をつなぐ「空間=すきま」を「神(かみ)」と呼んだ。
少なくとも古代の日本列島においては、「かみ」は、「存在」するものではなく「何もない空間」であった。
キリスト教の「神」が天国を体現する「存在」であるのに対し、古代の日本列島における「かみ」は、「何もない空間」であるところの「黄泉の国」そのものだった。そして、おそらく人類史の最初に見出された「神」は、この「何もない空間」だったはずである。
人類は、直立二足歩行をはじめたときから、この「何もない空間」を「神」として歴史を歩んできたのだ。もちろんそのとき「神」ということばはなかったが、そのとき見出されていった他者の身体とのあいだの「空間=すきま」は、すでに「神(かみ)」として機能しはじめていた。
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原始人は、居留地から見渡す景色のこの世界の外は「何もない空間」だろうと思っていたから、「異民族」を想像すると、どうしても人間以外の人間の姿かたちに想像してしまう。そうして2万年前のヨーロッパのクロマニヨンは、異民族を「頭がライオンで体は人間」の姿として想像していった。
彼らはまだ異民族との遭遇を体験していない人たちだった。
したがって、4万年前にアフリカのホモ・サピエンスの大集団がヨーロッパに移住してきてネアンデルタールという「異民族」との遭遇を果たした、ということもありえない話なのだ。
このことは、僕は何度でもいってゆくことに決めた。
現在、研究者もアマチュアも世界中の人が、アフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに移住していった、といっている。そういう合意が崩れてくるまで、僕はいい続ける。そんなことなど何もなかったのだ、4万年前にアフリカからヨーロッパに移住していったアフリカ人など一人もいない、ヨーロッパで混血していったのではなく、アフリカ北部で生まれた混血の遺伝子が北へ北へとリレーされていっただけのことだ、と。
このことが合意されるまで、僕はいい続ける。
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人間は、「何もない空間」に対する意識が切実で、この空間を「神(かみ)」と呼んだ。
それは、あなたと私の関係をつくる空間であると同時に、この生と死のはざまに横たわる空間でもあった。
人類史のどこで「神(かみ)」ということばが生まれたかはわからないが、直立二足歩行をはじめたときからすでにそう「概念」は見出されていたはずである。そのときから、あなたと私のあいだの「空間=すきま」は「神(かみ)」になった。
人間の精神生活において、もっとも切実な問題は、「人と人の関係」である。「人と人の関係」として人類は直立二足歩行をはじめた。このことが破綻すると、人は生きられない。
人と人の関係として、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」が止揚され、「神(かみ)」ということばが生まれてきた。
「かみ」ということばは、人と人の関係から生まれてきたのであって、自然との関係からではない。
人と人の関係をどうしてゆくのかということこそ、限度を超えて密集した群れをいとなんでいる人間にとってのもっとも切実なテーマなのだ。そこにしか「かみ」ということばが生まれてくる契機はない。
世の歴史家はよく、原始人や古代人は自然と調和し一体化していた、という。
自然との関係になんの問題もないのなら、いまさらのように「かみ」ということばを持ち出してくることもないだろう。自然との関係が不調和だったから「かみ」ということばが必要になったのだ。そして、人と人の関係はもっとややこしく悩みも多かったから、「かみ」ということばが生まれてきたのだ。
1+1が2であることなんか、ややこしく考えることもないだろう。しかし、複雑な計算になれば、XやYを使ったり図形に補助線を引いたりしていかないと解けなくなる。まあ、そのようなことだ。人間の脳みそから「かみ」ということばが生まれてくる契機は、人と人の関係にある。その関係を解決するXやYや補助線としての「空間=すきま」に対する意識が契機になって「かみ」ということば生まれてきた。
つまり、ことばが発達し、衣装なども着るようになってきて、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」に対する意識や、みずからの身体の「非存在としての身体の輪郭」に対する意識など、そういう「異次元の空間」のイメージに目覚めてゆくことが契機となって「かみ」ということばが生まれてきたのだろう。
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ただ、人と人の関係といっても、西洋では「異民族」との関係が契機になっている。
異民族を、ただぼんやりと想像しているぶんには、「神」という概念は必要ない。じっさいに異民族との軋轢が生まれ、そういう関係が生じているこの世界をどう解釈すればいいのかという問題を考えるようになってきて、はじめて「神」という概念にたどり着く。
しかし、もともと異民族は人間の範疇から逸脱した異質な他者であるという意識があるから、まずそのことを確認し、さらにはみずからの人間としての正当性を確認してゆくための機能として「神」という概念を発想していった。
異民族に対しては、戦って勝たねばならない。交易の場においても、負けるわけにはいかない。
西洋人が「他者の異質性」とか「神は他者である」というとき、異民族に対する攻撃性を隠し持っている。つまり彼らは、われわれにとっての他者は神であって、おまえら異民族ではない、といっているのだ。異民族を神として向き合う、といえば聞こえはいいが、それによって異民族の異民族たるゆえんを消去している。
彼らは、神を「他者」とすることによって、目の前にいる他者の他者性を消去している。
人間は、異質なものを排除しようとする。「他者の異質性」を認識することは、そのまま他者を排除しようとする衝動になる。他者が異質であるということは、他者は人間以外の存在である、と認識することだ。
人間は、異民族を人間以外の存在として空想する。二万年前のヨーロッパクロマニヨンは、「頭がライオンで体は人間」という姿の異民族を想像していた。そしてその無意識は、今なお世界各地の民族対立として現在まで引き継がれている。人類は、そういう2万年の歴史を持っている。
人類が本格的に異民族との遭遇を果たしていったのは、氷河期明け以降のおよそ1万年くらい前からのことである。そのころからヨーロッパや西アジアにおいては、戦争や交易が本格化してきた。
彼らは、異民族とのあいだの「空間=すきま」に神を見出し、神は、異民族の異質性・非人間性とみずからの人間としての正当性を証明する存在としてイメージしていった。まあ、旧約聖書にそう書いてある。
預言者(=神の使者)は、民族と民族、すなわち共同体と共同体のあいだの「空間=すきま」に現れ、みずからの正当性と異民族の非人間性を告げにやってくる。彼らは、人との関係を異質で隔たったものにして、そのあいだに神をおき、みずからのアイデンティティを確認してゆく。
したがって彼らにおける他者の身体とのあいだの「空間=すきま」は、自分と神との関係を祝福するものであり、その関係の上に立って他者はあくまで攻撃し説得してゆく対象になっている。そういう人と人の関係の上にユダヤ教キリスト教が成り立っている。
彼らは、いわば主導権争いのように、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を奪い合っている。
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これに対して日本列島においては、他者は、異質でもなんでもない。同じ人間だ。四方を海に囲まれて異民族を知らない歴史を歩んできたわれわれ日本列島の住民は、他者を異質な存在であると認識できるどんな確証も持っていない。
そして、同質であるのかどうかもわからない。
他者が何者であるかと問うことはできない。
だから、深くお辞儀をする。
他者はただ、私の目の前に存在する。目の前に存在するあなたが人間のすべてだ。古代以前の人々は、そういう感慨で他者との関係を結んでいった。
だから「遠くの親戚より近くの他人」という。
たがいにみずからの存在を消去するように深くお辞儀をし、たがいのあいだの「空間=すきま」を祝福してゆく。
西洋ではこの「空間=すきま」に「神」が存在するが、日本列島においては、この「空間=すきま」そのものが「かみ」になっている。
「かみ」というやまとことば。
このことばがいつ生まれてきたのかはわからないが、おそらく縄文時代から使われていたことばだろうと思う。
「かみ」は「噛(か)む」という動詞から来ている、と本居宣長小林秀雄はいっている。おそらくそうだろう。今でも「神」を「かむ」と読ませる場合もある。
では、何を「かむ」のか。
「噛む」とは、「噛み合わせる」こと。すなわち「関係する」こと。
あなたと私の関係を成り立たせているのは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」である。この「空間=すきま」でことばが生成し、この「空間=すきま」を「かむ」といった。人と人の関係を成り立たせている「空間=すきま」を「かむ」といった。そしてそれは、一対一の関係もあれば、集落全体の人と人の関係を成り立たせている「かみ合わせ」の「空間=すきま」でもあった。
「かむ」の「か」は古語の「離(か)る(=離れる)」の「か」、つまり「空間」のこと。
「む」は、「状態」をあらわす動詞の語尾。
「かむ」とは、「生成する空間」、口の中で物を「噛む」のも、まあそのようなことにちがいない。
日本列島においては、すべてのものに「神」がやどっている、という意識がある。人間、鳥、けもの、魚、虫、太陽、月、星、山、川、木、草等々、すべてのものの「身体」に「かみ」がやどっている、と認識されていた。
「かみ」がやどっているということは、それらの身体はすべて「空洞=空間」としてイメージされている、ということである。「身体の輪郭」という「空間」が意識されていた。
大陸の人々は、地平線の向こうの見えない「異民族」を意識している。しかし海に囲まれた日本列島においては、水平線の向こうの「見えないもの」は、「ない」と認識していた。
空を飛ぶ鳥の身体の中は見えない。その見えない中味の内臓なんか意識しない。見えないものは「ない」のだ。つまりその身体の中は「空間」であり、そこに「かみ」がやどっていると認識されていた。
「かむ」とは「(空間に)やどっている」こと、すなわち「空間の生成」。
「かみ」の「か」は「空間」の語義。
たとえば、焚き火を囲んで人が集まっているとき、中心の空間は「かみの場所」であり、火の中に「かみが宿っている」と思う。
歌垣で男女が集まっている場でもいい。その「空間=場」に、かみがやどっている。そんなふうに「かみ」ということばが生まれてきたのではないだろうか。
「かみ」とは、「出会いのときめき」のこと。そこから、森羅万象に神がやどっているという世界観になっていったのだろう。
美味しい物を「食べる=噛む」ことは、歯と歯が出会ってときめきはしゃいでいる体験だろう。そのように空間が生成していることを「かむ=かみ」という。
西洋のことばが他者を説得する道具であるのに対し、やまとことばは、おしゃべりの花を咲かせる機能として生まれ育ってきた。
「話がかみ合う」という。おしゃべりのたのしさ(カタルシス)から「かみ」ということばが生まれてきた。「かみ」とは、ようするに、生きてあることの驚きや畏れやよろこびなどの深い体験から思わずこぼれ出たことばなのだ。西洋人だって、何かというとすぐに「オー、ゴッド」というではないか。
はじめに「かみ」ということばがあった。そのあとに、「かみ」についての概念やイメージが形成されていった。
「かみ」ということばは、生きてあることのもっとも深いところにある感慨から思わず発せられるようにして生まれてきたのであって、べつに「かみ」のイメージが最初にあったのではない。
「かみ」とは、人と人が出会ってときめく体験から生まれてきたことば。
とすれば西洋の「ゴッド」は、異民族の出現に驚き畏れる感慨がこめられている。
やまとことばの「こと」は「出現」の語義。その出現に驚き畏れるから、「ゴッド」という濁音になるのだろう。
何はともあれ原始人は、「神(かみ)」の何たるかも知らないで「かみ」とか「ゴッド」という音声を発していたのだ。
そしてそこから、あれこれ想念がふくらんで、「ゴッド=かみ」という概念が形成されていった。
「ゴッド=かみ」ということばが生まれてきた契機は、とりたてて宗教感情などというものではなく、たんなる生活感情なのだ。たかが生活感情、されど生活感情。僕は、それこそが宗教感情よりもっと重く、人間の歴史を動かしてきた当の感情だと思っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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