人類が生まれたのが孤立した豊かな森だったとしたら、四方を海に囲まれた縄文時代の日本列島もまた、いわば孤立した豊かな森だった。
縄文人はそのころ世界でもっとも進んだ石器を使っていたが、ことばも含めたそういう文化を、もっともプリミティブなメンタリティで洗練させていった人々だった。彼らは、それほど文化が進んでいたにもかかわらず、直立二足歩行をはじめた原初の人類のメンタリティや生態を残していたのであり、その痕跡は現在を生きるわれわれにも残っている。
少なくとも先進国の中では、われわれはもっとも原始的な生態とメンタリティを持った民族である。それが、われわれのアドバンテージにも足かせにもなっている。
この国の歴史は、原始的な「群れの孤立性」で文化を洗練させてきた。
人間の歴史は、「群れの孤立性」としてはじまっている。
原初の人類は、おそらくチンパンジーであったにもかかわらず、チンパンジーとは交配しなかった。だから、チンパンジーから分化した種になった。
そういう「孤立性」こそ、人間性の基礎である。
何はさておいても、原初の人類は、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」を確保しようとして立ち上がっていったのであり、それ自体が「孤立性」を追求する態度だったといえる。
群れようとしたのではない。群れている中においてもなお「孤立性」を確保しようとして、二本の足で立ち上がっていったのだ。そのようにして人間は、ぎりぎりのところで「孤立性」を確保できるから、どこまでも大きく密集した群れをつくってゆくことができる。
生き物の群れは、群れようとする衝動の上に成り立っているのではない。群れてもなお孤立性、すなわち身体のまわりの「空間」を確保できることの上に成り立っている。それは、小魚の大群を見ればほんとによくわかる。あんなに群れても、体をぶつけ合っている魚なんかどこにももいない。
人間の限度を超えて密集した群れだって、たとえば満員電車の中でも体をぶつけ合わない(くっつけ合わない)センスの上に成り立っており、そういうセンスは、先進国の中では日本人が頭抜けている。われわれは、縄文以来そういうセンスを磨くトレーニングを繰り返して歴史を歩んできたのだ。
その代わりわれわれは、ぶつかり合ったときの対処の仕方が下手である。だから、いつだって外交交渉で相手にしてやられてしまう。
やつらは、人間どうしはぶつかり合うように出来ていると思っているし、われわれはといえば、ぶつかりあわないようにできなければ人間ではないと思っている。
国境を持っている人種と、国境を持たないで歴史を歩んできた人種との違い、ということだろうか。
しかし、原初の人類は、チンパンジーと境界を接して向き合ったり共存したりすることなくいつだって追い払われ、つねに孤立した森で生きていたのであり、人間の群れどうしだって、つねにたがいのテリトリーのあいだにサバンナという「空白地帯」を持っていた。
人類は、そういう「空白地帯」を持とうとする衝動によって、アフリカを出てゆき、地球の隅々まで拡散していった。
人間は、個人と個人のあいだでも国と国の関係でも、たがいのあいだに「空間=空白地帯」を持たなければうまくやっていけない。そういう「孤立性」の上に、「人間」という概念が成り立っている。
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いまやわれわれはもう、群れの孤立性を生きることができない時代に生きている。
海でさえ「空白地帯」になりえない時代なのだ。
中東の民主化運動はあっという間に飛び火してゆくし、日本もまた、尖閣問題で中国からあれこれいわれなければないし、中国を当てにして経済の立て直しを図ろうとしている。
人間の群れは、ほんらいこんなふうに成り立っていたのではない。
人間は、「空白地帯=空間」を確保しないと生きていけない。そこのところでもう、歴史は行き詰ってきている。
チンパンジーは、たがいのテリトリーが重なるオーバーラップ・ゾーンで「緊張関係=力関係」を持ちながら共存してゆく。これは、個体と個体の関係においてもおなじである。つねにそういう順位関係がはたらいて共存している。
それに対して直立二足歩行をはじめた人類は、身体(=テリトリー)がぶつかり合うオーバーラップ・ゾーンという緊張関係をいったん解体し、たがいの身体=テリトリーのあいだに「空間=空白地帯」をもうけ、チンパンジーとは決定的に生態を別にした生き物として歴史をはじめた。
チンパンジーやゴリラは、手のこぶしを地面につけて歩く。それは、馬やライオンのような完璧な四足歩行ではなく、手(前足)にかかる体重の負荷は後ろ足よりずっと少ない、半分二足歩行のような姿勢である。相撲の仕切りに似ている。つまり、他者との緊張関係の中に生きている姿勢なのだ。だから彼らは、立ち上がっても、軽く膝を曲げたり背を少し丸めたりして緊張を解いていない。
いいかえれば、緊張が解ければ、今すぐでも人間と同じような姿勢で歩くことができる。つまり、そういう猿としての本能がなくなれば。
「オーバーラップ・ゾーン」に対する「空白地帯=空間」、これは、猿と人間の生態の違いであると同時に、人間自身の意識がそういうかたちで引き裂かれてあるということでもある。
原初の人類は、「オーバーラップ・ゾーン」をいったん意識の底に封じ込めて二本の足で立ち上がった。そしてそのまま人間としての歴史を歩んできたのだが、個体数が爆発的に増えて世界中に拡散してゆき、氷河期明けの1万年前以降になってくると、もうそれぞれの群れのテリトリーが接近して「空白地帯=空間」をつくる余裕がなくなっていった。そうして「オーバーラップ・ゾーン」の意識が復活するとともに「共同体」が生まれてきた。
その境界線は、ひとまず「オーバーラップ・ゾーン」をつくらないためのものであるが、同時につねに「オーバーラップ・ゾーン」を意識させる存在にもなっていった。
そのころ戦争が起きてきたということは、そうした意識が突出してきたことを意味している。
人類は、1万年前にはじめてことばの通じない異民族と出会った。そうして、交易をしたり戦争をしたりする「オーバーラップ・ゾーン」の意識に目覚めていった。
われわれは、世界(他者)との関係において、そういう二つの意識に引き裂かれている。
他者との「緊張関係=力関係」が発する「オーバーラップ・ゾーン」によって自己意識(自我)を持ち、他者とのあいだに「空白地帯=空間」をつくってゆくことによって連携の意識を高めてゆく。
「空白地帯=空間」は、連携によってしかつくれない。二本の足で立ち上がることは、ひとつの連携である。
赤ん坊の模倣行動は、「連携」の行為である。そのとき赤ん坊は、他者の身体とのあいだの「空間」を意識している。この「空間」がなければ、模倣という行為は成り立たない。たとえば、お母さんに手を持たれて手を動かすのは「オーバーラップ・ゾーン」の行為であり、お母さんと同じように手を動かす模倣行為は、両者の身体が離れているから成り立つ。
人と人は、たがいの身体のあいだに「空白地帯=空間」をつくりながら連携してゆくと同時に、「空白地帯=空間」を無化しながら干渉しあってもいる。
人間は、「空間」を意識することによって人間になった。
人間とは、空間感覚である。この空間感覚によって「孤立性」を確保しながら限度を超えて密集した群れをつくってゆく。
この感覚によって人間的な高度な連携も生まれてきたのだが、いまやこの空間感覚を失ったまま他者に干渉したり他者を排除したりしながら「孤立性」を確保してゆくという倒錯的な傾向のほうが強くなってきている。
ともあれ直立二足歩行する人間は、ほんらい他者の身体とのあいだの「空間=空白地帯」を意識する存在である。したがって「オーバーラップ・ゾーン」による緊張関係=力関係には大きなストレスがかかっている。なのに世界は今、この関係で生きようとしている。因果なことに人間は、ストレスを引き受けてしまう存在でもあるのだ。
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