「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?・9 今どきの早婚志向

内田樹氏が嫌いというのでもないような気がします。
きっといい人なのでしょう。
しかし僕にとって内田氏を批判することは、「近代」を批判することです。
内田氏の向こうの世界中の人間と戦っているような思いがないわけでもありません。
彼が「文明=知は、デジタルな二項対立の擬制である」というとき、ソシュールをはじめとする西洋思想から借りてきた知識がある。彼はそういう人たちをバックにものをいっている。たとえば、「原初の世界は混沌(カオス)であり、言葉の起源はそこに切れ目を入れて分節してゆく意味作用にあった」、というソシュールの知見をバックにしている。
で僕は、そんなことあるものか、原初の世界こそ分節されていたのであり、その分節された二項にアナログな連続性を見つけて行くことこそ言葉の起源であり、文明=知の働きだろう、と反論する。このとき僕は、味方なんか、ひとりも知らないのです。
「意味」なんか、言葉がなくてもみんな知っているのです。りんごが赤い実であることくらいみんな知っていたのです。そのすでに誰もが知っている空間(共同体)において、言葉が生まれてきたのです。意味を伝えたのではない、意味を共有しているという状況から言葉が生まれてきたのです。そこからしか言葉は生まれてこないのです。意味を伝えるのではなく、あなたと私はすでに意味を共有しているという状況が祝福される体験こそ、言葉の起源です。
「りんご」といって、「ああ、あの赤い実だよなあ」とうなずく。それは、意味を伝えたのではなく、意味が共有されていることが確認されたのです。意味を伝えるのは、不可能なのです。すでに共有されている場においてしか、言葉は成り立たないのです。言葉によって「意味」が生まれるのではなく、「意味」がすでに存在し、共有されているところから言葉が生まれてくるのだ。
「結果」でしかないことを「原因」であるかのように言い立ててくる。そこが内田氏というか「近代」という制度のいやらしいところです。
「共有」すること、たがいの身体のあいだの空間を「共有」すること、「共有」していることを祝福すること、これが直立二足歩行です。そしてここからマルクスの知見までは、目と鼻の先です。
「分節」することが人間の起源ではない。「共有」するところから人類の歴史が始まっているのだ。
直立二足歩行の起源は、密集しすぎて体がぶつかり合う群れにおいて、それぞれの個体が立ち上がって他者とのあいだに空間をつくっていったことにある、と僕がしつこくいうことだって、今のところ世界中に誰も味方はいないのです。だから、しつこくなる。
僕は、内田氏が錦の御旗のように差し出してくる前提が、ことごとく気に入らない。僕は、世界中の人間を敵に回しても、それらを疑う。
「所有」という概念の起源は、内田氏の言うような「あなたのもの」と「私のもの」を分節していったことにあるのではない。人間は、サルと違って深く「もの(対象)」に愛着してしまう生き物だからです。そうやって自分の心と「もの」とのアナログな連続性を持った関係を結んでしまう観念的な傾向から「所有」という概念が生まれてきたのだ。
何が「二項対立の擬制」か、くだらない。薄っぺらなことばかりほざきやがって。
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ひところは「若い女性がいつまでたっても結婚しようとしなくなり、それが国の人口減少の原因のひとつにもなっている」といわれていたが、近ごろではさっさと結婚してしまう女性が増えてきているのだとか。
早婚といえば「やんきい」娘の専売特許だったが、近ごろの場合、もっと高学歴でレベルの高い職業についている女性のあいだでも起きているらしい。
これは今までにない新しい傾向らしく、内田樹氏はこう解説してくれる。
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 ・・・・・・ほんとうに重要な(時代の)変化はいつだって「私たちこれまで見たことのないもの」であり、そもそもその良否について判定する基準そのものが私たちの手元にないものなのである。
 ・・・(中略)・・・
この早婚傾向は、「結婚や育児がどれほどの人間的能力を要求するかも知らず、ものの弾みで結婚し子供を産んでしまう人たち(そして、のちに家事放棄や児童虐待に向かうタイプ)」のそれではないだろう。むしろ結婚と育児が高い人間的能力を涵養(かんよう)する機会であることを感じ取って、自分自身の心身のパフォーマンスを高め、幸福な大人になるために結婚し、子供を産もうとする新しいタイプの女性が出現してきた兆候とみなすのが適切であろう。
この二者はいずれも早婚志向という形態では似ているかもしれないが、志向している方向はずいぶん違う。
私たちの社会の未来を担うのはあとの女性たちである。
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僕は早婚ではないが、ものの弾みで結婚し子供をつくってしまったタイプの人間だから、こういう差別的な視線には、ちょっとむかつきます。
いかにも「やんきい」は劣等な人種だといっているみたいじゃないですか。
「家事放棄や児童虐待」をしている高学歴の嫁だっていくらでもいますよ。ただそのやり方が「やんきい」娘よりも巧妙でひねくれているから表沙汰にならないだけです。
つきつめて考えれば、文明社会の育児なんか、すべて「児童虐待」の要素を含んでいる。自分以外の人間を育てることがどんな畏れ多い行為かということを、深く自覚していない。むしろ正義のつもりでいる。
「結婚と育児が高い人間的能力を涵養する機会」であるかどうかなんておおいに疑問であり、そんなものはただの幻想である、と思わないでもない。
現在の社会に、「結婚と育児」によって「高い人間的能力を涵養」している大人の女が、いったいどれほどいるのでしょうかね。醜く歪んでしまっている大人の女なら、僕だってたくさん知っているが。
出産も大変だが、育児はもっと母親の精神も体も消耗させる。そういう知的な女がはやばやと結婚して子を産み、育児ノイローゼになったという例はいくらでもあるはずです。
いったい「高い人間的能力」って、なんなのですか。僕はそんなもの知らないし、内田氏がそのことの例をいくつ並べ立てようと、無限にけちをつけてみせる自信はある。
人間であることが、「人間的能力」なのだ。高いもくそもあるものか。
永田町のオフィスの仕事も大事だろうが、水道工事で夜中に穴を掘る仕事だって「私たちの社会の未来を担」っている。「私たちの社会の未来を担う」ことにおいては、「やんきい」も高学歴の女も等分であるはずです。「私たちの社会の未来を担うのはあとの女性たちである」などといううさんくさいことをいわれると、殺意すらおぼえる。
「良否について判定する基準」だって?エリート意識と俗物根性丸出しにして、そんなことをえらそげに「判定」したがるなよ。お里が知れる。そういう「二項対立」の思考態度がいかに愚劣で制度的かということくらい、あなただってとっくに知っているはずです。
「良否」なんてどうでもいいのだ。われわれが時代をつくっているのではない、時代がわれわれをつくっているのだ。
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ただ女は、未婚の若い娘でも、子を産み育てることをあまり怖がっていないということはある。だから、そういう状況にさえ置かれれば、「やんきい」だろうと高学歴の女だろうと、わりとあっさりトライしてしまう。
内田氏の分析は、薄っぺらなのですよ。歴史というものが人間の意志だけで動いているかのように思っている。だから、高学歴の女たちのそういう目論見によってこうした早婚傾向が生まれている、というような安直な結論が導き出される。
「状況」というものがあるでしょう。それに、結婚は、相手があっての話です。男のがわの事情というのもあるにちがいない。
現代のエリートサラリーマンの仕事は、けっこうハードです。彼らは入社早々から心身ともに酷使させられる。だから、安定した息抜きの空間を確保したい、と早くから願う。もちろん、精神的なことだけではなく、食事や掃除洗濯などの身のまわりのことも安定させたい。そうして、子供がいれば、ハードな仕事に耐える励みになる。
高学歴の男のがわにも、早く結婚したい事情が生まれているはずです。結婚するか仕事をやめるか、仕事を続けるためにはもう、結婚して落ち着くしかない。
それに、30代40代の高収入の独身男がたくさんうろついている世の中になった、ということもあるかもしれない。そういう男をつかまえれば、はやばやとセレブな暮らしに入ってゆける。
新婚生活が、高級マンションと年に二回の海外旅行から始められるのなら、独身でいる必要なんか何もない。
男が三年でせっかく入った会社を辞めてしまう世の中なら、体力も立場も弱い女はもっと早く仕事に疲れてしまうでしょう。そんなとき、親の家に戻ってニートをするよりは収入のある男と結婚した方がまだましだと思うのかもしれない。
「結婚と育児が高い人間的能力を涵養する機会であることを感じ取って、自分自身の心身のパフォーマンスを高め、幸福な大人になるために結婚し子供を産もうとする」ことくらい「やんきい」の娘だって思うし、江戸時代の女だってそう思っていたにちがいない。そんなふうに思うことのどこが「新しいタイプの女性」なのか。むかしから結婚なんて、おおむねそういう大義名分でなされているのだ。あほらしい。
高度経済成長の時代は、仕事に生きる女をたくさん生み出したが、今や高学歴の若い娘さえ、はやばやと仕事をすることに対する「穢れ」を感じるようになった、ということかもしれない。
いつの時代も女にとっての結婚は、「穢れ」をぬぐうための「忌みごもり」のようなものであるのかもしれない。
彼女らは、ひとつの「禊(みそ)ぎ」として、自分に子を産むことを課すのでしょうか。
ニートや引きこもりのことといい、若い男女の「忌みごもり」の時代、そんなものを感じます。