この世の中には明日死んでしまうかもしれない人がたくさんいるというのに、「ひとりでは生きられないのも芸のうち」という著書の中で内田樹氏は、「あなたなしでは生きてゆけない」というのはこの世で最も純度の高い愛の言葉である、などと薄気味悪いことをほざいていやがる。
哲学者といわれる人が、そんな無造作で無神経で薄っぺらなことを言うか?
あなたには、そうやって無念の思いで死んでゆく自分よりずっと年少の人たちに対して「ごめん・・・・・・」という思いはないのか。多少なりともそういう思いがあれば、「私が生きてゆくこと」を当然の権利のように吹聴し、他人を自分が生きてゆくための道具のように扱う、そんな愚劣で傲慢な発言はできないでしょう。
あなたの勝手だから、してもいいんだけどさ。
しかし、あなたの言うことなんかくだらない、と僕が言うのも僕の勝手だ。
大学教授だからえらいとも頭がいいとも僕は思わない。
あなたがフェミニズムを「学術的」な問題として語るのであるのなら、僕はあくまで「ちんちん」と「おまんこ」の問題にしながら、あなたよりももっと根源的なことを問うてみせる。
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セックスをしているときの女は、どうしてあんな怖がっているような様子を見せるのだろう。
喘ぎ声、という。それは、意識によるのか、無意識なのか。
そのとき彼女は、喘いでいる。それはたぶん、男に処罰されているのではなく、自分で自分を処罰しているのでしょう。
ペニスが女を処罰し征服する道具だというのは、男の幻想です。
僕は、ペニスをぶち込んでいると自覚したことはない。
膣穴の壁に「包まれている」という感じがする。そしてその壁がひたひたと押し寄せてくる気配があれば、とてもすてきだと思う。
怖いほどにそう感じればきっと最高なのだろうが、残念ながら、それほどの体験をしたことはない。
それに、怖いことを快楽に変えられるほどの自己処罰の衝動も持っていない。
女は、おどろいたり怖がったりしたときに「きゃあ」という。
それは、無意識に出る言葉でしょう。セックスのときの喘ぎ声も、おそらく無意識のうちに出ている。もちろんわざと声を出して男にサービスすることも多いだろうが、本質的には無意識の声でしょう。
そのとき女は、無意識の世界に入っていて、そんな自分を見つめる「もうひとりの自分」が消えてしまっている。
男は、「もうひとりの自分」が捨てられないから、征服欲だのなんだのという「物語」を持とうとする。そういうことにして「もうひとりの自分」を満足させようとする。
しかし、女のように「もうひとりの自分」が消えてしまうほうが、その何倍も快楽は深い。
征服欲だといって「もうひとりの自分」を満足させているあいだは、男のセックスなんて本格的な「快楽」の範疇に入らない。
女は、「無意識的な自分」だけになるタッチを持っている。だからふだんでも、すぐに「きゃあ」という。
男に媚を売ってわざとそんな態度を見せる場合はともかくとして。
女にとって自分で自分を見つめるという状態は、苦痛である場合が多い。とくに自分の身体は、鬱陶しいだけの対象でしかない。だからセックスのときは、自分で自分を見つめる「もうひとりの自分」とともに、そういううっとうしい身体も消えてゆく体験がもたらされる。
オルガスムスとはたぶん、身体が消えてゆく体験なのだ。
身体=自分が消えてゆく体験だから、目をつぶるのだ。
そのようにして世界だけを感じている即自的な自分になりきれるところが女のすごいところで、言葉も、そこから生まれてきた。セックスのときの女の喘ぎ声は、無意識のうちに出ている場合もあるにちがいない。ふだんでも、意識しないで「きゃあ」と言ってしまうように。
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われわれは、言語によって、すでに世界に気づいていることに気づかされる。言語によって世界に気づくのではない。「すでに気づいている」ところから、言語が発せられる。
「きゃあ」と言ってから、自分がこわがっていることに気づく。
「すでに気づいている私」と「すでに気づいていることに気づかされる私」との狭間に「言葉」がある。
サルトル言うところの「即自」と「対自」。無意識的な自分(=即自)と、その自分に気づく「私」という自覚を持った自分(=対自)。
そのとき「私=対自」は、「私=即自」がどのようにこわがっているのかよくわからない。その「きゃあ」という言葉をたよりに遡行してゆくしかない。
われわれは言葉よりも先にこわがっているはずだが、言葉でしかそのこわがっている自分を自覚できない。なぜならそれは、「消えている自分」だからです。
「私(対自)」は「私(即自)」がなぜそれを欲望するのか、よくわからない。なぜならそれは「他者の欲望」であり、われわれは他者の欲望を欲望する、と内田樹氏は言う。そういうことじゃないのですよね。「他者の欲望」なんかわかりようがないのです。
「私(即自)」は、「他者の存在」に気づくのであって、「他者の欲望」に気づくのではない。その「他者の存在」に気づいているかたちが「欲望」になる。
人がミニスカートをはいているのを見て自分もはきたいと思うのは、その人のミニスカートはこうとする欲望が自分に乗り移ったからでも、その欲望を察知したからでもない。そのミニスカートが「すてきだ」と思ったからです。それだけのことです。その人は、いやいやはいているだけかもしれない。しかしそんなことは関係ない。とにかく「すてきだ」と思ってしまったからです。たとえば「その人」が、ショーウインドウのただの「マネキン」の場合もあるのですよ。それでも「すてきだ」と思えば、自分もはきたくなるのです。
ただ、どこが素敵なのかというと、よくわからない。確かなことは、自分もはきたいと思ったということだけだ。だから、他者の欲望が乗り移った、とつい誤解してしまうのだが、乗り移るはずなんかないじゃないですか。「マネキン」に「欲望」がありますか。
即自的な自分の感慨は、言葉によってしかわからない。しかし、即自的な自分が言葉以前に感慨を持ち、そこから言葉が生まれてきたことも、おそらくたしかなのだ。
言葉は「私(対自)」の「主人」であると同時に、「私(即自)」が言葉の「主人」でもある。
「私(即自)」と「私(対自)」の狭間に「言葉」がある。
そこのところを、内田氏は、なんにもわかっていない。J・ラカンがどうとかこうとかと言っても、頭の中でりくつをこねくるだけで自分の存在をかけて実感するものが何もないから、つい論理が上滑りしてしまう。
内田氏は、「人は他者の欲望を欲望する」とか「他者の愛を愛する」とか、ラカンレヴィナスの受け売りでいろいろそんなことを言ってくるのだが、基本的に「他者」は「欲望」も「愛」も持った存在ではないのです。そんなことは誰にもわからない。欲望や愛の「表現」として言葉や表情や態度を持っている、というだけのことです。われわれはそういう「表現」されたものに反応しているのであって、愛や欲望そのものに反応しているのではない。
女は、「私」の体を触ってくるその手や「私」の体に入ってくるそのペニスに反応しているのであって、相手の欲望や愛に反応しているのではない。
セックスに「愛」も「欲望」も必要ないのです。他者の存在そのものを必要としているだけなのだ。
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「女は何を欲望するか?」の中で内田氏は、次のように言っています。
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言語と主体についての問題系の輪郭が整ったのは、19世紀の終わりころから20世紀のはじめにかけてのことである。マルクスニーチェフロイト、そしてソシュールが、わたしたちは自分の操作する言語の「主人」ではなく、むしろ言語の方がわたしたちの「主人」であるのだということを教えてくれた。これが現在、言語についてどんな考察を始めるときにも、最初に踏まえておかなければならない前提的了解である。
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もしそうであるのなら、内田氏にはマルクスニーチェフロイトソシュールといった多くの味方がいて、そんなことあるものかと思う僕には味方などひとりもいないことになる。僕は、こんなくだらないことを「前提的了解」にして考えようとは思わない。
もしそれがほんとなら、マルクスニーチェフロイトソシュールも、ぜんぶアウトなのだと僕は思う。
彼女が「きゃあ」と言ってこわがったのは、「きゃあ」と言ってからその言葉にうながされてこわくなったのか。そんなはずないでしょう。
「言語が主人だ」という内田氏は、その通りだといっているのですよ。
では、「きゃあ」といわせたのは何か。内田氏のいうとおりなら、その言葉を発する直前はこわくなかったことになりますよ。
こわくもないのに「きゃあ」というでしょうか。
ただ反射的に「きゃあ」という言語習慣を持っているからだ、といっても、それはこわいときに「きゃあ」と言ってしまう言語習慣でしょう。こわいと思ったらつい「きゃあ」と言ってしまう言語習慣でしょう。
「きゃあ」と言ってから、自分がこわがっていることに気づく、というだけのことです。
まずこわがる「主体=意識=即自」があった。そして「きゃあ」という言葉を発したのちに「私」は自分がこわがっていることに気づいた。それだけのことです。
こわがる「主体」がなければ、「きゃあ」という言葉は生まれてこない。
いったい何が「きゃあ」といわせるのですか。
われわれはこわいときには「きゃあ」と言ってしまう言語習慣を身体(脳)と世界の「境界」に持っている。この言語習慣によって「私(対自)」は自分がこわがっていることに気づかされる。
「意識」は「私(対自)」と世界の「境界」において発生する。そして「私(対自)」とは、「意識に気づく意識」のことである。
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女は、「きゃあ」と言う即自的な自分だけの存在になってしまうことができる。言葉は、そういう「自分」によって発せられる。そのとき女は、言葉によって気づかされる自分を忘れて、言葉を発する自分だけになっている。
言葉が生まれてくるとき、「自分」が消えて、世界だけを感じている。世界だけを感じている自分になっている。すなわち、言葉は、自分が言葉の「主人」になることによって生まれてくるのだ、ということです。
女が言葉に敏感なのは、おそらくそういう即自的な自分になりきれるからでしょう。
つまり、「私が消える」ことが「私になる」ことだ、というパラドックスがある。
言葉が発せられるとき、すでに言葉の「主人」である「私」が生起している。
古代のやまとことばは、たいてい女によって生み出された。それは、「きゃあ」というときのように、世界に対する感慨が自然に声になったところから生まれてきたのです。
英語の「I(=私)」は、おそらく即自的な自分を見つめている「もうひとりの自分」のことでしょう。「あ」という声は、対象に気づく感慨から発せられる。「あっ」と気づいたり「ああ」とうなずいたりするときの「あ」です。そして「い」は、声がぴったり体に張り付いてゆく発声。つまり、体があるという自覚とともに発声される。それは、はっきりと「自分」を確信している音韻です。
ところが、やまとことばの「私」である「わ」という発声は、口をあけて息がぜんぶ抜けてゆくとともに体が消えてゆく感覚です。つまりやまとことばにおいては、他者や世界に心を奪われて自分が消えてしまっている状態が「私」のかたちだったわけです。
「私」が「不在」であることが「私」であることのアイデンティティだった。「不在」を表現することによってかえって表現された当のものがたしかに浮かび上がってくる。これは、言葉の重要な機能のひとつです。やまとことばの「ひ」とは、秘密の「ひ」であり、「隠れる」という意味です。「太陽=日(ひ)」は夜の底に隠れているものであり、「火(ひ)」は消えてしまうもの、という意味です。
それにたして英語の「SUN」は、さんさんと輝くの「サン」です。「FIRE(ファイア)」といえば、いかにも燃え盛るという感じです。
やまとことばは対象にたいする「感慨」が表現され、英語は対象そのもののさまが説明されている。だから、日本語は身体的で、英語は論理的だといわれたりする。
やまとことばはたぶん、プリミティブな発声のかたちがそのまま言葉として完成されていった。
それにたして英語は、最初の唸り声のような原始言語が、「もうひとりの自分」によってしだいに論理的な整合性を持たされていったのでしょう。
したがって欧米のフェミニストたちが、言語が「男たちのものになってしまっている」と異議申し立てをするのは、あながち言いがかりとも言えないはずです。「私」という言葉じたいが、すでに男性化してしまっている。
ロラン・バルトは、テキストに最終的な意味があるという神話をつくってしまうのは「ヨーロッパ固有の宿業」であるといったそうだが、それは、言葉じたいがすでに男性化してしまっているという「宿業」であるのだろうと思えます。
女は、即自的な自分だけの存在になりきれる人種です。そういう即自的な自分にしっくりくる言葉があまりにもなさ過ぎる、という不満がきっとあるのでしょう。
言葉はほんらい、そういう即自的な自分から生まれてきたものであるはずです。
言葉は、即自的な自分が言葉の「主人」として生まれてきたのだ。
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セックスのときの女が、思わず発したような「いや」とか「だめ」という言葉は、どれだけ意識的なものか、無意識的なものか。これは人さまざまだし、場合にもよるだろうし、いちがいには言えない。
しかし、自分の意志とは違うような違わないような、なかなか微妙な言葉なのだろうと思えます。
そのとき彼女は、「処罰されているもの」として、「いや」とか「だめ」という。では、そのとき誰が処罰しているかといえば、相手の男というより、彼女じしんなのだ。
かならずしも、「そこ触っちゃだめ」というのとは違う
さらには、オルガスムス近くになったり、そう言いながらオルガスムスに堕(お)ちていったり、そういうときの「だめ」とか「いや」というメッセージはもう、相手の男に対するものでも自分自身に対するものでもない。その処罰されている自分は、自分という意識のない自分です。だから、「自分」が言うというより、自分が処罰されているという「事態」、あるいは処罰されているという「感慨そのもの」、そんなものが言わせている。
では、そのとき彼女を処罰している「他者」とは、いったい誰なのか。これはもう、女になったことがないからよくわかりません。
彼女は、その言葉を、自分に言ったのでも、相手の男に言ったのでもない。相手の男の体と自分の体のあいだに堕ちてゆく「空間」があり、そこに向かってその言葉を投げ入れた、と考えるしかない。
とにかくこのことには、いろんなややこしいことを考えさせられます。
まず彼女は、ペニスを「承認」したのではない、ということ。
ペニスが言わせたのではない。ペニスは「いや」とか「だめ」と言わせようとしていない。ペニスを拒否している「主体」があった。拒否していることが、受け入れていることなのだ。拒否しているから「処罰」になっているのであり、「処罰」になっているから、オルガスムスに堕ちてゆくくらい「きもちいい」のだ。
その言葉は、「わたし」の「主人」になりえていない。「私」は、言葉によって「だめ」と思ったのではない。言葉を聞く「私」は、そのとき消えている。言葉は発せられたが、「私」はその言葉を聞いていない。
ゆえに、言葉は、私の「主人」ではない。ひとまずそれだけは言えそうなのだが、まだまだいっぱい存在論的な問題が浮かんできそうで、わけがわからなくなってきます。
宿題です。
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