40歳前後の年代のことを、アラ・フォー(アラウンド・ザ・フォーティ)というらしい。
そろそろ人生の秋風が吹き始めるころである。
自分の人生のかたちが、だいたい見えてくる。そこで、自分の人生はこれでよかったのだ、と思いたがるのはたいてい男で、多くの女は「こんなはずじゃなかった」という気持をどこかに抱えている。おそらく、それでも、しょうがない、とひとまずあきらめることができるから、そう思ってしまうのだろう。
それに対して男はあきらめることができないから、なんとかして「これでよかったのだ」ということにしようとする。
毎日満員電車に揺られながら、俺は人生の敗残者ではない、と確認している。人生をつくり上げる、という労働。
いっぽう、このころに自主退職し、田舎暮らしの第二の人生をはじめる人もいる。そういう人は遊び心があるのかといえば、それもまた懸命に人生をつくろうとする労働かもしれない。
成り行きまかせでやっていくしかないじゃないの、と思っている人もいる。
ごく普通の暮らしをしながら心の中に砂漠を抱えている人もいれば、はぐれ狼のような生き方を続けながら、言うことは妙に凡庸で退屈なだけの人もいる。
どんなふうに生きればいいかなんて、わからない。
これでいい、という人生なんかあるのだろうか。
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このころを境にして、男にしても女にしても、ますます人間に磨きがかかってゆく人もいれば、無残なくらい醜くみすぼらしくなってゆく人もいる。
十年ぶりくらいに会った相手から、「いい顔になったね」とほめられる人もいれば、あいまいで困ったような笑いを投げかけられるだけの人もいる。それは、単純に社会的な地位だけの問題ではない。
その人の生きてある心のかたちが、顔や姿やしぐさに現れてくる。
40代は、人生でもっとも社会とのかかわりが深くなる時期だろう。そこで人間が清潔でいられるのは、そうかんたんなことではない。男が、人生の中でいちばんかっこよくなる時期であると同時に、脂ぎっていちばん醜くなってしまう時期でもある。
ともあれ、清潔な40代の男はなかなかいないから、とてももてる。20代の男と競争したって負けやしない。
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僕が20代のころ、友人の恋人が、友人を捨てて妻子ある四十歳の男のもとに去ってゆくということがあった。
友人は、ハンサムな男だった。そして相手の四十歳の男は、あまりうだつの上がらないサラリーマンらしいのだが、すてきな話をたくさんしてくれる、と彼女は言う。
彼女は、人間に対してとても繊細で豊かな感受性をそなえている娘だった。相手の家庭を壊すつもりはないという。彼女は、ハンサムな男との幸せな結婚を捨てて、ちょいと人生に疲れたような中年男の愛人になることを選んだ。
僕は、なんだかかっこいい決断だな、と思った。
だから、友人にはこう言った。「相手のほうがいい男だったのなら仕方ないよ。取り戻したいのなら、こちらもがんばって男を磨くしかないんじゃないの」と。
まあ、ハンサムな男だったから、こんな残酷なことも言えたのだが。
彼女は、けっきょく三十年近くその男の影の愛人の立場を通し、結婚も子を産むことも捨てて生きた。
彼女の潔い生き方も素晴らしいと思うが、それをさせた男の魅力もたいしたものだ。いや、魅力という言葉だけではすまない何かが、彼らのあいだにあったのだろう。
彼女から直接聞いたわけではないが、伝聞を寄せ集めて察するに、いつもたがいにひざまずきあって、二人のあいだには何か生きてあることの「嘆き」を共有しているようなつながりがあったらしい。
彼女は、自分の人生を息苦しい「労働」にしなかった。こころときめく「遊び」であることを貫いて生きた。
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