内田樹という迷惑・ヨーロッパとアフリカ

現在、ホモ・サピエンスの遺伝子が地球のすみずみまで覆いつくしているのは、人類が旅をしたからではない、遺伝子が旅をしただけだ、と僕は考えています。
地球上のほとんどすべての集落がまわりの集落と血の交換(たとえば婚姻)をしていれば、ひとつの遺伝子が、1万年のうちに地球の端から端まで伝播していってしまう。
南北アメリカ大陸の問題はひとまずさておくとして、人類の居住域は、10万年前にはすでにアジア・アフリカ・ヨーロッパのほとんどすべての地域を覆い尽くしていたらしい。
50万年前からそうだった、といっている研究者もいます。
およそ700万年前ころのアフリカに誕生した人類が、森の暮らしからサバンナに出て行ったのが250万年前で、サバンナの暮らしに適合できないものたちは、そのころ地球が乾燥化してどんどん縮小してゆく森伝いに、やがてアフリカの外へと追い出されていった。
べつに、好奇心で旅していったのではない。
サバンナに出て旅する能力を持ったから、その能力でアフリカの外に拡散していったのではない。サバンナで暮らす能力をもてなかったものが、アフリカの外に追い出されていったのだ。
サバンナで暮らし始めたものたちは、どんどんサバンナの暮らしに適合できる能力とメンタリティを身につけていった。
一方、サバンナからはじき出されてアフリカの外に出て行ったものたちは、原初の「森の暮らし」の習性を引きずっていた。
森の暮らしは、比較的大きな集団で行動する。
それに対して危険の多いサバンナでは、コンパクトな家族的小集団で行動しなければ生き延びられない。つねに肉食獣に襲われる危険があり、襲われたらたちまち散りぢりになってしまうのが直立二足歩行する人間の群れの特徴である。馬や牛のように群れでかたまって走っていたら、ちょっと体がぶつかっただけで将棋倒しになってしまう。
それに、森と違って直射日光をまともに受けてしまう環境で、多くの個体がまとまって過ごせる大きな日影はない。また、大きな群れは、外敵に見つかりやすい。
サバンナの民は、必然的にコンパクトな小集団の暮らしへと移行していった。
現在、家族的小集団で暮らしているのは、ほとんどアフリカのサバンナの民くらいのものです。アジアやアマゾンの未開の民でも、家族が寄り集まった集団や集落をつくっている。そこに、アフリカの特殊性がある。アフリカの文化や個人主義的なメンタリティは、そういう暮らしが基礎になって培われてきた。
そうして集団の暮らしの習性を引きずってアフリカを出たものたちは、50万年前に氷河期の北ヨーロッパまでたどり着き、極寒の季節の中で寄り集まって暮らしてゆく文化とメンタリティを育てていった。それが、ネアンデルタールです。
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4万年前にアフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに進出してゆき、およそ2万年かけてネアンデルタールと入れ替わっていった・・・・・・これを「置換説」といい、現在の人類学の定説になりつつあるところです。とくに日本ではもう、置換説一色です。当事者のアメリカやヨーロッパの研究者のほうが、いやそうじゃないとがんばっている人もいる。
しかしそれでも、そこで両者が混血していったのだと言っているだけで、僕のようにアフリカ人なんか一人もヨーロッパに入っていっていない、と主張する研究者はいません。
とにかく研究者たちは、そのころはアフリカ人(ホモ、サピエンス)のほうが知能が高かったのだ、となんとなく決めてかかっている。
芸術を生み出す知能のことを、「象徴化」の知能というのだそうです。そういう頭のはたらきが、そのころのアフリカ人のほうがすぐれていたのだとか。
顔料になる赤土の塊のことを「赤色オーカー」というのだそうです。7万年前のアフリカ人は、その塊の表面を平らにして、直線を交差させた網の目のような模様を線刻していた。
人類初の芸術作品なんだってさ。
もちろん同じころのネアンデルタールも、そういう顔料は使っていた。ただ、そうやって模様が彫り刻まれたものは、まだヨーロッパでは見つかっていない。
もし見つかっても、アフリカのものとは少し違う模様になっているだろう、と僕は思います。
直線は、刻みやすい。しかしネアンデルタールの模様の趣味がもし曲線的なものだったとしたら、そうかんたんには彫り刻むことはできない。だから彼らは、ただ白墨のようなもので描いただけだったのかもしれない。そうしたら、7万年後の発掘品にそんな模様が残っているはずがない。
直線は、自然にはほとんどないかたちです。アフリカ人は、反(非)自然的なかたちにひかれていた。
ダンスにしても、不自然な変幻自在のステップを踏み、ノイズのような奇声を発する。
それに対してヨーロッパ人は、流れるように踊り、自然を模倣するような歌声を尊重する。
自然から逸脱してゆく直線の文化と、自然を模倣しようとする曲線の文化。
打楽器はどちらにもずっと昔からあったのだろうが、笛(フルート)を作り出したのはネアンデルタールのほうが先だった。それはたぶん、鳥の声を模倣しようとしたのだろう。
サバンナの民は、自然から逃れるようにして暮らしていた。肉食獣から身を潜め、逃げ、太陽の日差しも避けて木陰に入り込む。彼らにとって、自然は敵だった。じっとしているのがいちばん安全で、その酷暑の中で動き回れば、たちまち体は消耗してしまう。
それに対してネアンデルタールは、切実に日光を恋しがり、懸命に自然と和解しようとしていた。寒さから逃れるために彼らは、じっとしているより、ひたすら歩き回り、激しく大型草食獣と格闘した。そうやって自然と和解してゆき、自然を模倣していった。
自然を模倣しようとする感性から生まれてくる模様は、きっと直線的なものではないはずです。
そして、じっとしていることが生活スタイルだったサバンナの民が、何を好きこのんでヨーロッパまで出かけてゆこうとするでしょう。
彼らが移動生活していたのは、同じところに長く滞在していると体の匂いが充満して外敵に嗅ぎつけられるからでしょう。そういうレベルでひとつの地域内を移動していただけのことだ。
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ヨーロッパとアフリカに決定的な差が生まれたのは、地上からネアンデルタールミトコンドリア遺伝子が消えてしまったとされるおよそ2万年前ころです。
4万年前から2万年前のあいだは、氷河期の中だるみで、一時的に気候が温暖になり、それによってすべてのネアンデルタールホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアになってしまった。
そのときネアンデルタールと入れ替わったとされている「クロマニヨン」という人種は、じつはホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになったネアンデルタールのことだと僕は思っています。
で、2万3千年前あたりからまた寒さがぶり返し、すでにすべての個体がホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになってしまった2万年前のネアンデルタール=クロマニヨンは、生存の危機に陥った。もう、かつてのような寒さに耐える身体能力はない。
しかし、文化は、その危機によって、一気に花開いた。頭がライオンで体が人間という神像彫刻や、多産を祈願する豊満なヴィーナス像をまつるという習慣が広がったのはこの時期です。そうして、有名なアルタミラの洞窟など、今までの人類史になかった華やかな壁画文化もぞくぞくとあらわれてきた。
人類学者の先生方、直線の文化であるサバンナの民は、牛のかたちをリアルに模倣して描くということは苦手なのですよ。あの牛の絵は、ネアンデルタールの末裔にしか描けない。
もちろん衣装の縫製や埋葬の仕方なども、飛躍的に高度なかたちになっていった。
おそらくこのころ、群れの規模も、いくつかの群れが合流しながらさらに大きくなっていったに違いない。そうしないと生き延びられなかった。
そうやって人がたくさん集まり、そして大きな「嘆き」を抱えていったことによって文化が花開いた。
「嘆き」のないところから芸術が生まれてくるはずがない。
それに対してアフリカでは、人口も激減し、文化も衰弱していった。
ヨーロッパの極寒の気候に耐えていたクロマニヨンが、アフリカのホモ・サピエンスと同じ人種なら、アフリカで人口が激減するはずがないじゃないですか。
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現在の南北問題として、「北の飽食・南の飢餓」などといわれています。
5万年前の、ヨーロッパのネアンデルタールとアフリカのホモ・サピエンスと、どちらが食料の生産力が高かっただろうか。
銛や槍に使う石器は、アフリカのほうが繊細で進歩した形をしていた。
ネアンデルタールは、愚直で頑丈な石器に固執していた。
そりゃあ、そうでしょう。小動物や川魚を捕まえて暮らしていたアフリカ人に対して、ネアンデルタールは、大型草食獣と格闘しつづけていたのですからね。やわな石器など使っていられなかった。
それに、極寒の気候の下で動き回っていたネアンデルタールと、酷暑のサバンナで身を潜めるようにして生きていたアフリカ人と、どちらが多くのエネルギー補給を必要としたか、考えるまでもないことです。おそらくネアンデルタールは、アフリカ人よりずっとたくさん食っていたはずです。
人類学者は、アフリカのほうが石器が進歩していたから食料の生産力も高かった、というが、そんな問題じゃないでしょう。
ネアンデルタールは、食わないと凍え死んでしまう環境で生きていたのだ。そういう意味で、北にはネアンデルタールいらいの飽食の伝統がある。
それに対して温暖なアフリカでは、あまり食わなくても何とか生きてゆけた。だから、歴史的に食料の生産力も上がらなかった。
現在の南北問題は、そういう伝統の上に存在しているということも考える必要があるのではないだろうか。
ヨーロッパでいち早く近代国家が生まれ、アフリカでは国家の建設が遅々として進まなかったことにしても、おそらく、一箇所に住み着いて集団的な行動をしていたネアンデルタールと、家族的な単位でバラバラに移動生活していたサバンナの民との対照からはじまっている。
そういう歴史を、「置換説」の研究者たちはなあんも考えていない。