西洋の女の歴史と日本列島の女の歴史は、社会の構造と同じだけ違う。
西洋の共同体は、男たちがつくった。だから、男の論理で動いている。
たんなる「群れ」ではなく、法的な制度を持った「共同体」。西洋の「共同体」の歴史は、おそらく農耕牧畜が本格化した6千年くらい前から始まっている。戦争の歴史が始まったのも、このころからです。
日本列島では、約2千年前の弥生時代後期からです。この違いは大きい。共同体をもたないまま言葉を洗練させてきた日本列島と、共同体の発展とともに言葉を完成させていった西洋。
言葉はもともと純粋な「感慨」の表現だったが、共同体によって論理的な整合性を持った伝達の道具に変わっていった。
たとえばやまとことばにおいて「ひな」といえば、お雛様の「ひな」、鳥の「ひな」、ひなびた里の「鄙(ひな)」、さらにはお菓子などの木型を意味する雛型の「ひな」もあり、まことにまぎらわしい。しかしこれらの言葉は、ある共通の感慨の上に成り立っている。お雛様は、ふだんは大事にしまっておいて一年に一回だけ取り出して飾る人形のことです。鳥の雛は、卵の中に隠れている。鄙びた里は、隠れ里とも言う。そして、雛型は、商品としてのお菓子の向こう側に隠れているもとのかたちのことです。いずれも「隠れている」ものに対する感慨がこめられている。ただ「ひな」と言っただけではなんのことかわからないが、それでもよかったのです。それは隠れているものに対する感慨を表す言葉であって、「記号」としての意味を持っていたのではない。
やまとことばにはそういうまぎらわしい言葉がたくさんあるが、言葉に伝達する記号としての意味を持たせている西洋では、そういうことを許さない。ものそのものの意味を表して、ちゃんと区別している。
やまとことばは、ものそのものを意味していない。ものそのものに対する「感慨」を表現している。西洋の「ベア」は、熊という動物のことだが、やまとことばの「くま」は「大きな」とか「恐ろしい」という感慨を表す言葉です。だから荒れ狂う海や怖い神のことも「くま」といった。また、道の曲がり角とか奥まったところとか、不安にさせられる場所のことも「隈(くま)」といった。
西洋人は、言葉は「もの」そのものを表していると思っている。だから、「記号論」で言葉を考えようとするのだが、おそらくより原始言語に近いやまとことばは、記号としての「もの」の表現ではなく、ものに対する「感慨」の表現なのです。「山(やま)」と言っても、遠くにあるこの世とあの世の境目たいする昂揚感や戸惑いや野心のような感慨を表す言葉だから、物語の「山場」とか、助けてやりたいのは「やまやま」だけど、と言ってみたり、「山っ気が強い」とか「山を張る」、というような言い方もする。それらは「記号」としてはそれぞれまったく別の意味だが、どの言葉にも「はるかに遠い」とか「境目に立つ昂揚感や戸惑いや野心」というような感慨がこめられている。
言葉は、もともと「記号」として生まれてきたのではない。たんなる「感慨」の表現として生まれてきた。そういうことを、やまとことばが教えてくれている。
やまとことばにおける「記号」としての意味の表出は、二次的な機能にすぎない。
それに対して西洋の「共同体=男社会」は、「感慨」などというあいまいなものを削ぎ落として「記号」に変えてしまった。
そういうところを、たぶん多くの西洋人はわかっていない。ソシュールもたぶんそのひとりです。
だから、言葉が生まれる以前は、世界は分節されていないカオスだった、というようなわけのわからないことを言い出す。つまり、言葉を持たない原初の人類は、トンビとカラスの区別がつかなかったのだそうです。くだらない、それくらい、猿でもできますよ。消防自動車と救急車の違いくらい、言葉を知らない赤ん坊だってしていますよ。内田樹氏によれば、それを両方とも「ぶーぶー」というのは区別がついていない証拠なのだそうです。あほらしい、人を見くびるのもいいかげんにしろ、と言いたいです。彼らが自動車ぜんぶを「ぶーぶー」と言っているのは、お雛様も鳥の雛も「ひな」と言うのと同じことです。それは、自動車と出会ったときの「感慨(たぶんよろこび)」を表現する言葉であって、自動車そのものを「記号」として伝達しているわけではないのだ。救急車を見ても消防自動車を見ても同じようによろこんでいるだけであって、救急車と消防自動車の区別がつかないわけではない。
世界は、あらかじめ分節されてある。したがってその起源において分節しようとする衝動を持つことは、論理的にありえない。原始人は、世界を分節しようとして言葉を発したのではない、人類の歴史とともに世界に対する「感慨」が深まっていったから言葉が生まれてきたのだ。
人間性の基礎は、世界(他者)にたいする感慨を深くしてゆくことにあるのであって、内田氏やソシュールの言うように、世界を「分節」しようとすることにあるのではない。
ただ、「共同体」を立ち上げる際に、言葉によってあいまいになってしまった世界を、あらためて「記号」として分節していったのだ。救急車と消防自動車の違いがわかっているのに、同じように「ぶーぶー」というのはもう止めようよ、と言葉を「記号化=制度化」していったのが共同体の発生です。同じように「ぶーぶー」といってしまうのは、共同体運営の手続き上でいろいろ問題があったのでしょう。そのとき男は、世界に対する感慨を深くするよりも、世界を分節し支配してゆくことに目覚めた。
たとえば、女房はもうほかの家の男とセックスしちゃいけない、と決めた。それは、まさしく世界を「分節」する行為であり、たぶんそんなようなところから「共同体」が生まれてきたのだ。
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ヨーロッパの男たちは、共同体を立ち上げるために、男の観念傾向に沿うようなかたちで言葉を変質させてしまった。つまり女の感慨を表現する言葉を屠り去ってしまった。そしてそれによって共同体は発展し、近代の繁栄を迎えたが、ここに来て行き詰まりを見せ始めている。
僕は、西洋の女たちのフェミニズム運動を支持します。内田氏のように「男を否定しない範囲で認めてやる」というような、そんな意地汚い態度は取りたくない。男を否定しようとするまいと彼女らの勝手です。内田氏のように自分の正当性を守ろうとする男なんかどんどんやっつけてしまえばいい。そういう強迫観念でアイデンティティ既得権益や「性秩序」を守ろうとしている男なんか、徹底的にやっつければいいのだ。男なんか否定すればいいのだ。男なんかくだらない生きものだ、と言ってもいいのだ。その通りなのだから、僕は、喜んで否定されてやる。軽蔑されてやる。口ではおどけたことを言っていながら、腹の中では女から尊敬されたくてうずうずしている内田氏のような男なんか、僕から見ても目障りでしょうがない。「近代」という病巣を広げて何の反省もないそういう男がのさばっていていいはずがない。
われわれにもし「近代の超克」ということができるのなら、それは、西洋の女たちのフェミニズム運動がもっとも大きな推進力になるのだろうと思う。
それほどに西洋の男たちは、女のアイデンティティを蹂躙して歴史をつくってきたと思う。
女の性器を「ヴァギナ」と呼ぶことじたいに、その罪深さがあらわれている。
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