内田樹という迷惑・武道と、拒絶反応

意識は根源において他者を拒絶している。
拒絶することがこの生のいとなみである。
ここからはじめるしかないと思っています。
内田樹氏の言うような「共生」するというかたちは「結果」であって、根源的な意識は「拒絶反応」としてはたらいている。拒絶することの結果として、「共生」というかたちが生まれる。
われわれは、「愛」とか「共生」などという心的現象は信じない。そんなものは、ただの「概念」なのだ。人間について深く考えることのできない連中が捏造している、たんなるスローガンであって、そんな心的現象が先験的にはたらいているわけではない。
われわれは、人間の中の、人殺しをしてしまうほどの他者に対する「拒絶反応」をひとまず肯定する。
「関心」とは「拒絶反応」のことだ。
人間は、拒絶するくらい世界や他者に対して深い感慨を抱いてしまう生きものであり、人殺しも恋も、拒絶の仕方のバリエーションにほかならない。
認識するとは、「違和感」という拒絶反応であり、それが「受容」する態度でもある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相撲の取り組みで、「同体」というかたちになることがある。二人一緒に倒れてゆくこと。そのとき力士は、何とか先に落ちるまいとして、手をつくのをやめて顔から落ちていったりする。
内田氏は、「同体」こそが相撲の本質である、という。
違うんだなあ。運動神経の鈍いやつは、すぐそういうこじつけをしてくる。あなたは、「武道」の本質が何にもわかっていない。
相撲という武道においては、「同体」という結果は否定されている。だから、「かばい手」とか「死に体」という基準にしたがって勝ち負けが下される。その基準を当てはめることが難しいときは、「取り直し」になる。「同体」の引き分け、などという勝負はぜったいにない。
力士が顔をすりむいてでも手をつくまいとするのは、「同体」を否定する相撲道に身を捧げる者の本能なのです。「同体」になってしまうことは、相撲を穢すことなのです。
日本文化の本質の問題ですよ、内田さん。
「寿(ことほ)ぐ」という。古代のやまとことばにおいては、もっとかんたんに「寿(ほ)ぐ」とだけいった。ことをほぐすから、寿(ことほ)ぐ。日本文化におけるめでたいことは、「ほぐす」ことだった。
すなわち「同体」を否定して、勝負を勝ちと負けにほぐしてしまうのが日本文化なのだ。
日本文化においては、男女同権、などということはいわない。ちゃんと「男の領分」と「女の領分」に分けてほぐしてしまう。
日本文化にいて、もっとも原初的な祝祭としての「ほぐす」行為は、「土をほぐす」ことにあった。
土は、ほおっておくと穢れてくる。古代の日本人は、そう感じていた。だから、ほぐして清めなければならない。畑を耕すことしかり、新しく家を立てるときも、まず土を掘り返す(ほぐす)ということをして清めた。これを「ねほぐ=ねぐ」という。「ね」とは「土」という意味です。神社の神官のことを「禰宜(ねぎ)」というのも、そこから来ている。「ねほぐ=土をほぐす」ことが、日本文化のおめでたいことの基本です。
だから、土俵だって、場所が始まる前ごとに新しくつくる。
相撲における「同体」は「穢れ」なのです。それは、ほぐさねばならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
わかりますか、内田さん。運動オンチがばかなこと言ってんじゃないよ。
体を組み合えば、相手の身体ばかり感じている。抱きしめ合えば、相手の身体ばかり感じるでしょう。男なら、相手のおっぱいがふたつあることをありありと感じるでしょう。それと同じです。
内田氏のいうように、たがいの身体がとけて「一体化」してしまうことなどありえないのです。そんなオカルトみたいなことをいっちゃいけない。それは、インポテンツの論理なのだ。抱きしめ合えば、自分の体のことなど忘れて、いやおうなくふたつのおっぱいを感じさせられるでしょう。
武道とは、「一体化」することではなく、相手の身体をありありと感じることです。そしてみずからの身体を、消してしまうことです。厳密にいえば、みずからの身体が「輪郭=空間」として感じている状態になることです。そういうかたちでみずからの身体が消えてしまうくらい相手の身体を「物体」としてありありと感じている状態において、「わざ」が生まれてくる。
相手と一緒に倒れ込んでゆくときの力士も、相手の体の「物性」ばかり感じて、みずからの身体はたんなる「輪郭」を持った「空間」としてしか感じていない。だから、顔をすりむくことなんか何も怖れない。相撲は、「共生」の文化じゃない。そのとき力士は、顔をすりむくこともいとわないくらい、「共生」することを拒絶しているのだ。
すなわち、「共生」を拒絶して、「自他」の「差異」を「輪郭(空間)に対する物体」としてありありと感じるのが武道です。
相手の身体の「物性」を拒絶するというかたちでありありと感じ、その「物性」を拒絶してゆくのが武道の「わざ」です。
たとえば、組み合っていて、相手のどちらの足に体重がかかっているかを感じ、その体重がかかっているほうの足に足払いを仕掛けてゆく。武道家は、それくらい相手の身体の「物性」をありありと感じている。そしてありありと感じるためには、みずからの身体の「物性」に対する感覚は消えていなければならない。意識は、「自他」の両方を同時に意識することはできない。
「身体を消す」とは、みずからの身体が「輪郭=空間」として感じられる「擬制」をつくる行為です。そしてわれわれの生のいとなみそのものが、この「擬制」の上に成り立っている。それは、この生がみずからの身体に対する「違和感=拒絶反応」の上に成り立っている、ということでもある。だから「擬制」をつくろうとする。
飯を食うことは、空腹という身体が「物体」として感じられる状態を忘れてしまうための行為です。衣装を着ることは、身体を「輪郭=空間」にしてしまう「擬制」そのものの行為にほかならない。
認識するとは、「違和感=拒絶反応」なのだ。この生のいとなみは、そこからはじまっている。
運動神経の鈍いやつは、みずからの身体を「輪郭=空間」にしてしまうという「擬制」をつくることができない。だから「物性」のまま身体を支配していこうとする。そうして「一体化する」とか「共生する」などという倒錯的なもうひとつの「擬制」を捏造してくる。そういう倒錯的な「擬制」によって共生してゆくことを、世間では「支配する」という。内田氏ほど支配欲が強い人間もそうはいない。
しかし人間は、根源において「共生」することを拒絶している。
道を歩いていて相手とぶつかりそうになったら、よけようとするでしょう。それは、相手の前から「消える」行為です。そういうことのできない運動神経の鈍いやつは、いったん相手と一体化して共生しながら相手の体をどかす、ということをしなければならない。
しかしそんな鈍いやつでも、とりあえずはよけようとすることを試みるでしょう。それは、意識の根源においては「一体化=共生」などという衝動はなく、まず「違和感=拒絶反応」としてはたらいているということを意味するはずです。
断っておきますが、ここでいう「運動神経の鈍いやつ」とは、あくまで内田氏のことを指しているのであって、他意はありません。彼があんまりいっぱしの武道家を気取って自慢たらしいことばかり言ってくるから、ついそういう反論の言葉を使いたくなってしまうのです。