女は出家する・ここだけの女性論11


日本列島の男と女の関係の歴史は、世のフェミニストたちがいうほど女にとって不幸な歴史だったとは思えません。むしろその歴史は、女の感性に引きずられながら流れてきたのではないのかというようなかたちを持っています。「あはれ」とか「はかなし」とか「無常」というのは基本的には女の感性であり、女の感性こそが日本的なメンタリティをつくってきたのではないのか。
日本列島の男ほど率直に女のあとを追いかけている存在もないのではないのか。
そして、日本的な男と女の関係はきっと、人類の原始的で普遍的な男と女の関係でもあるはずです。なぜなら日本文化の本質は、人類の原始性をそのまま洗練させてきたことにあります。
日本列島では、共同体(国家)の成立が大陸よりも数千年遅れた。それは、日本列島が極東のしかも絶海の孤島であったからだが、その代わり、人類の原始性をそのまま洗練させてくることができた。まあこのことを語り出すときりがなくなってしまうのだが、それはともかくとして、われわれが雌雄の関係を持った生き物であるかぎり、人と人の関係は男と女の関係を基礎にして成り立っているはずです。日本列島の男と女の関係を考えることは、そういう原初のかたちを考えることであると同時に、人間社会の普遍的な人と人の関係について考えることでもあります。



男は、根源において女に引き寄せられてしまう存在です。
女は、その寄ってきた男の相手をしてやったりしなかったりしているだけです。
女から女性論を聞けば女のことがよくわかるかといえば、必ずしもそうとはいえない。その女の個人的なレベルのことが語られているだけのことだってよくあるでしょう。
たとえば藤原道綱の母による「蜻蛉日記」は女の普遍的真実が語られているかといえば、「あんなもの、反吐が出る」といっている女性もいます。ジコチュウの女が亭主への不満や自分の人生に対する愚痴を自己正当化しながらたらたら吐き出しているだけじゃないか、そんなふうだから亭主が寄り付かないのだ、と。
フェミニズムとは、女が男に大きな不満を持って男を啓蒙しようとする運動だったのでしょうか。そういう意味で「蜻蛉日記」は、現代社会の多くの女の気分を先取りしているともいえる。
ある歴史家によれば、古代以前は女権社会だったからその伝統が蜻蛉日記のような一夫一婦制にこだわる心模様を生んだということらしいのだが、たぶんそうじゃないのです。日本列島では、古代以前から現代まで、ずっと女は男の世話をする存在だったのであり、そこから日本的な「サービス=おもてなし」の文化が生まれてきた。古代以前は女が家の主だったが、べつに女が威張っていたわけでも男が虐げられていたのでもない。そしてべつに一夫一婦制だったのではなく、たぶん乱婚社会だった。



もともと女は、男に幻滅している存在なのだろうと思います。
女は、男なんかなしでも生きられる存在だが、男は、どうしても女に引き寄せられてしまう。女は、幻滅するという心の動き持っていなければ、体がいくつあっても足りない。鳥のメスだって、オスを追い払う生態を持っている。幻滅するというのは、そういう本能的な心の動きでもあるのでしょう。
もしもメスにもオスに寄ってゆく生態というか本能のようなものがあったら、オスのひたむきな寄ってゆこうとする衝動は育ってこない。
オスとメスが「優秀な子孫を残す」という「種族維持の本能」とやらで選び合っていたら、ほんの限られた交配しか起こらない。これがたぶん、現在の婚活ブームの根っこにあるかたちで、そういう意味できわめて不自然な現象なのでしょう。
生き物のオスとメスはもう、同じ種ならどんな組み合わせであろうと交配が起きてしまうような仕組みになっているのであり、だから現在の地球上の生き物は雌雄を持っていることが主流になっているのでしょう。
女は男に幻滅しつつ、男が持っている女に寄ってゆこうとする衝動を育てているというのか、挑発しているというのか。ひとまずそうやって人間の男と女の社会が成り立っているのでしょう。



幻滅するのも女の愛情のうちだというのなら、そうだといえなくもない。女にとってセックスをするということは、ペニスを怖がり幻滅している体験であるのかもしれない。
それは、ペニスという異物で膣の中を引っ掻き回されているのだから、いわば受難の体験であり、その受難がセックスの快楽になっている。
女には受難に対する偏愛というようなものがあって、セックスをすることも子を産むことも、ひとつの受難であり自己処罰なのでしょう。
女は、自分が生きてあることそれ自体に幻滅している。女に幻滅するなというなんて、ありえない話だ。
女は、幻滅するというかたちでこの生を受け入れている。幻滅することのカタルシスがある。それもまた、みずからの生を処罰することのひとつになっているのでしょうか。そうやって女は、この世界から消えてゆこうとしている。
女が消えてゆこうとしている存在だから、男はけんめいに追いかける。
男と女がくっついてしまうもっとも純粋でもっとも効率的な仕組みというのが、ほかの生き物の世界だけではなく、人間の世界の基礎にもあるのでしょう。
それは、男と女がたがいに寄ってゆき合うというかたちではない。女に男を引き寄せるものがあり、男はもう他愛なく引き寄せられてしまう、というかたちです。女のほうからもむやみに寄っていったら、男の寄ってゆこうとする衝動も半減して、選ばれた一部の者たちの関係ができるだけです、現在の合コンのように。
人類史の中で女はもう自然に、男に幻滅しむやみに男に寄ってゆかない存在になっていった。そしてそれは、けっして男と女がくっつくための障害になる心の動きではなかった。それによってこそ男はなお女に引き寄せられるようになっていったし、女のセックスの快楽も深くなっていった。
まあそうやって人類は、一年中発情している猿になっていったのでしょう。



女はこの生に幻滅している存在であり、この世界から消えてゆこうとしている。そしてその消えてゆこうとする気配に男が引き寄せられてゆく。
日本列島では、女の「消えてゆくカタルシス」が主導して文化を洗練発達させてきた。
「無常」とか「あはれ」とか「はかなし」なんて、けっきょく女の感慨の文化です。
しかしそれは、女が啓蒙したのではない。それが人間の普遍的なかたちだからそうなっていっただけであり、女のほうがそういう普遍性を色濃く持っていて、男もそれを追跡してゆくかたちで日本列島の文化が育ってきた。
日本列島は海に囲まれた孤島だったから、そのあいだに人類の原始性を引き継いだ文化をどんどん洗練発達させてゆき、共同体(国家)が出来上がっていっても、基礎的な文化風土が変わることはなかった。それは、共同体の外の存在である女が男と女の関係をリードしていたからです。
制度的にはどうであれ、日本列島の男は、女に対する負い目のようなものを持たされてしまっていますよ。
ひとまず共同体(国家)の発生以後に男の地位のほうが高くなっていったが、たとえば女に「出家」の権利を認めたのは、女を俗世間の家の中に閉じ込めておくことができなかったということであり、それはそれで女の人格を尊重した制度であったはずです。
女はべつに、男から追い払われたのではない。自分から出家していった。女はそうやって「消えてゆく」心の動きを本能的に持っている。乞食になったり娼婦になったり旅芸人なったりすることだって、ひとつの出家でしょう。
宮廷の女は出家したが、庶民の町や村では、金持ちの家ほど娘や女房が「神隠し」にあいやすいということがあったそうです。その家ではいちおう世間に対する体面上「神隠し」ということにしているが、ようするに「出て行かれてしまった」ということです。
中世は「厭離穢土(おんりえど)」などといって、この世界やこの生を嘆きかなしむ気分が広がっていったが、それはもう、女によって主導された気分だったのかもしれません。
日本列島の男は、どこかしらで女に甘えている。それはもう、縄文時代以来、ずっとそうだったのです。そして日本列島の女は、ずっと男に幻滅するという心を抱いて歴史を歩んできた。幻滅しながら、男の世話をしてきた。
女というのは、いざとなったらいつでも出家してしまう存在である……日本列島の男にはそういう不安がどうしてもあって、それで甘えて寄っていってしまう。



日本列島は、女の「幻滅する」という心が生き続けてきた。そしてそれが、男の女に対する性欲を担保してきた。
恋に夢中の独身者には実感は薄いかもしれないが、一緒に暮らせば、とたんにそれを思い知らされる。
いや、いまどきは、恋愛関係のさ中においても、女は幻滅を隠さないのかもしれない。
女の「幻滅する心」は、日本列島の伝統だと思います。もちろんそれは、社会的な関係においての話ではありません。あくまで男と女の関係において、ということです。
もともと女は、身体的にわずらわしいことをいろいろと抱えている存在だから、どうしてもそういう気分を持ってしまう。
フェミニズム全盛のころは、女は家父長制のもとで虐げられた歴史を歩んできたとよくいわれていましたが、いつの時代であれ、日本列島の男と女の関係はそんな味気ないものではなかったと思いますよ。
イスラム教のアラブ社会ではないのだから。
女のことを「やまのかみ」とか「おかみさん」と呼ぶのは、女に甘えている証拠だと思います。そしてそれは、女が幻滅する存在だったからです。



「女三界に家なし」ともいうように、女は、いざとなったら出家してしまう存在です。
だから、男は、どこかで女に気を遣っている。
まあフーゾク嬢は、出家した女ですからね。ときどき説教したがるお客のおじさんがいるのは、自分がこんなところにきてしまったことの言い訳をしているのと同時に、女の思い切りの良さに対する負い目もあるのでしょうね。
女の心は、すでにこの世界を捨てて、「非日常」の世界入り込んでしまっている。フーゾク嬢だけじゃなく、普通の女だって、そうやって男を置き去りにしてしまうようなところはあるでしょう。
日本列島の男は、誰だってどこかしらで女のそうした「非日常」的な気配を感じており、もともとあんがい女に対して従順なのです。だから「本番はやらせないよ」というフーゾクサービスも成り立つ。
男だって、家父長制にあぐらをかいて歴史を歩んできたわけじゃないのです。
ひとまずフェミニズムは、女の社会的な地位を上げてゆくことにはそれなりの成果をあげたのでしょう。しかし、それによってこの社会の人と人の関係や男と女の関係が進歩したかといえば、あまりそうだともいえない。フェミニズムによってかえって殺伐なものになってしまったという部分もありそうな気がします。
蜻蛉日記の作者のように、男が悪い世の中が悪いといって自分を正当化してばかりいられたら、男だって寄ってゆく気も失せてしまう。フェミニストたちはそうやって女の社会的なポジションを獲得していったのだろうが、女はいざとなったらいつでも出家してしまう存在なのだという不安を男にもたせてくれないと、まあ、女が魅力的に見えてこない。
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