反「日本辺境論」・可視範囲

(承前)
吉田拓郎は「今はまだ人生を語らず」と歌ったが、「今ここ」を生きて人生どころでないのが若者や子供であろうし、そういう気分は六十歳を過ぎた僕にだってある。
この世は無常、人生なんか語らないのが大人だ、という気分は、日本列島の歴史の水脈として誰もがどこかしらに抱えている。
「無常」は、縄文以来の日本列島の住民の世界観であり、これを避けて「日本人論」は語れない。
内田先生の日本人論はようするにどうしようもなく野暮ったく下品なわけで、それは、戦後世代の傾向として歴史と伝統のまとい方が板に付いていないからだ。こんなふうに。
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日本男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対的に優位に立つことが人生の目的である」というものである。
人類史のほとんどの時期、人類はそれほど豊かでも安全でもない社会を生き延びねばならなかった。そういった状況においては「競争において相対優位を勝ち取る能力」よりも「生き残る能力」の方が優先する「競争に勝つこと」よりも「生き残ること」の方が大切だということを学び知るのが「成熟」の意味である。
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「競争において相対的優位に立つ」とか「生き残る=生き延びる」とか、そういうことは戦後の「教育ママ」ということばとともに一般化してきたのであって、歴史的には一部のエリート階層だけの意識だった。それは、母親の権力欲と身体防衛の本能が子供に反映されるわけで、戦後の核家族化と高度経済成長は、たしかに子供たちにそういう傾向をもたらした。
しかしそれが、日本列島の歴史の水脈というわけではない。戦前までの家族制度における母親は比較的非中心的な存在であり、母親の意識だけで子供の人格が形成されることが回避される仕組みになっていた。まあ昔は、町内会だって子育てにかかわっていたし、母子関係だけに閉じこめられて子供が育ってゆくというような環境ではなかった。
歴史的な「日本男子」はむしろ、生き延びようとすることを恥じる傾向がある。だから、腹切りや特攻隊ということも生まれてきた。
日本文化は、「生き延びる」というコンセプトを持っていない。「滅びと再生」こそ、この国の歴史的な文化の基層になっており、「滅び」の意識を持つことがこの国における「成熟」だった。
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赤ん坊だろうと若者だろうと、人間が「生きもの」であるかぎり、明日も生き延びてある保証はどこにもない。生きてあるとは、次の瞬間死んでしまうかもしれない、ということだ。
「ガンです。余命はあと少しです」と宣告されて、「生き延びる」という信条がどれほどの役に立つというのか。
人間は、生き延びることを断念して二本の足で立ち上がった。それは、胸・腹・性器等の急所を外にさらし、生き延びるにはきわめて不都合な姿勢なのである。人間的「成熟」とは、その不都合を受け入れることであり、生き延びることを断念してゆくことにある。
熟しきったりんごの実は、もうそれ以上生き延びることはできない。後はもう朽ち果てるか、枝から落ちてしまうだけだろう、そんなようなことだ。
「ガンです」という宣告は、赤ん坊にだって、ある日突然降りかかってくる。誰だって、明日交通事故に逢わない保証はない。
大人に「余生」などない。余生がないのが、余生だ。
「生き延びる」というテーマなどないのが、日本列島の歴史の水脈である。日本列島の「無常」という生命観は、「生き延びる」という方法論を持っていない。「生き延びなくてもかまわない」という覚悟を持っているのが日本列島の「大人」であり、「成熟」だった。
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<日本男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対的に優位に立つことが人生の目的である」というものである>……だなんて、お願いだから子供をそんないやらしい目で見ないでくれ。
司馬遼太郎はこういっている。
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 私は子供のころから、アジアという歴史地理的空間に身を置いているという感じが好きでしたし、……今でも自分の可視範囲は、西はパミール高原か安南山脈までで、そこを西へ超えるとだめだと思っています。
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内田先生は、「可視範囲という言葉が印象的です」という書き出しで、<日本人は歴史的にいつも「アジア(中華)」を意識してきた>といっておられる。
いいだろう、この「可視範囲」という言葉を問題にしてみよう。
「アジアが可視範囲である」というのは、日本人の普遍的な世界観でもなんでもなく、じつはこの世代特有の意識構造なのである。
その「可視範囲」は、明治以降、日本がさかんに大陸に進出していったことによってはじめて生まれてきた。
僕の父の母親は、昭和のはじめころ、五歳の父を捨てて網元のどら息子と満州に駆け落ちしていった。だから、父にも「アジアという可視範囲」はきっとあったことだろう。そういう時代だったのだ。それだけのことさ。それが日本列島一万三千年の歴史を通じての「常民」の意識であると規定されては困る。
この絶海の孤島の島国が、中国大陸から侵略されたり侵略し返したりという関係の歴史を歩んできたのならそういう「可視範囲」が伝統として血肉化されていることもあろうが、江戸時代以前はそんな関係ではなかった。われわれ日本列島の「常民」は、「アジア」という可視範囲など持たない歴史を歩んできた。
日本列島一万三千年の歴史において、中華の漢民族に侵略されたことは一度もない。それでどうして、「アジアという可視範囲」とか「辺境人意識」を持たねばならないのか。
日本列島の「常民」の意識の基層においては、実際に見渡すことのできる景色が「世界」のすべてなのだ。したがって水平線の向こうは「何もない」のであり、あの山の向こうも「何もない」と思ってしまう意識が、心の奥のどこかではたらいている。
目の前の見えるものが、この世界のすべてなのだ。目の前の「あなた」が人間のすべてなのだ。「遠くの親戚より近くの他人」といういうではないか、日本列島にはそういう「出会い」の文化の基層がある。
ユダヤ人や華僑は「近くの他人よりも遠くの親戚」という主義かもしれないが、日本列島の常民は、目の前のものが世界のすべてなのだ。
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たとえば、江戸時代の加賀の住民は、加賀の国を世界として生きていたわけで、「日本」という意識も、ましてや日本が中華の辺境であるという意識もさらさらなかった。
水戸黄門の話で、助さんだか格さんだかが印籠を取り出し「このお方をなんと心得おる、先の副将軍水戸光圀様なるぞ」というとみんなが「ははー」とひれ伏す、というのも変な話だ。加賀の住民にとって、副将軍なんか関係ない。将軍その人だってピンと来ない。彼らにとっての「お殿様」は、あくまで加賀の前田の殿様だった。副将軍が何ぼのもんじゃい、と思うだけだろう。彼らにとっては、将軍様より前田の殿様の方が偉かった。遠くの将軍様より近くの前田の殿様、だった。
水戸黄門」の話は、水戸藩がいかに将軍家において重要な位置にあるかという政治的な意図を持ったプロパガンダであったのであって、日本列島の常民の心を反映した「民話」ではない。
日本列島の住民は、見えない向こうのものは「ない」と思ってしまう心の動きを習性として持っている。それは、1万3千年前に大陸から切り離されてあの水平線の向こうは何もない、と思ったところからはじまっている。
目の前の景色を、この世界のすべてだと思ってしまう。そうやって目の前の「あなた」を人間のすべてだと祭り上げてゆく。われわれの世界観や人との関係に対する意識の基層には、そういう原始的な心の動きがはたらいている。
日本男子の子供の心の動きだって、基本的にはやっぱり目の前のものがすべてで、「人生」という未来がどうのというような小ざかしいはたらきなどあるものか。
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太平洋戦争のみじめな敗戦によって、日本列島の住民は「アジアという可視範囲」を失った。
われわれ戦後世代は、そのみじめな敗戦の落とし子である。
だから、僕の子供時代には、司馬氏のような「アジアという可視範囲」などなかった。
僕は伊勢の生まれで、いつも野球をしていた空襲跡の空き地の目の前には、たおやかな姿をした朝熊山(あさまやま)の山なみが見えていた。僕にとって、その山の端が世界の果てだった。その向こうなど、想像したことは、不思議なくらい一度もなかった。遠足で二見や鳥羽の海岸に行っても、目の前の水平線の向こうに何があるかなど、まったく想像しなかった。たぶん、司馬氏や僕の父のような戦中派世代は、きっとその向こうの「アジア」や「都会」を思い描いていたのだろうが、僕ら戦後世代は、幸か不幸か、そんな遠い地や遠い未来を想像できるような時代には生まれてこなかった。
目の前のものがすべてだった。ついこのあいだまで日本が戦争をしていたという実感もなかった。
そのとき日本は、明治以来の歴史を清算し、清算したあとに生まれた僕らの中に日本列島ほんらいの歴史の水脈がよみがえった。そのとき僕の世界観は、江戸時代の加賀の住民そのままのものだった。
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ただ、都会では、少し事情がちがっていた。
都会の焼け跡・闇市の景色は、「可視範囲」にするには、おそらくあまりに無残すぎた。
だから、もっと狭い範囲を「可視範囲」にしていった。そういう「小さな世界」を世界のすべてと見てゆく心の動きも、たとえば「盆栽」や「茶室」など日本列島の伝統だったわけで。
核家族」や「自我」という世界、都会の人々やみじめな敗戦の記憶を引きずっている大人たちは、そういう「小さな世界」を「可視範囲」にしていった。
戦後、最初に大流行した歌謡曲は「りんごの歌」だろう。その、東京という廃墟から発信された「りんご」という世界が敗戦後の日本人の「可視範囲」だったのであり、「自我」という世界のかたちでもあった。
目の前の見える景色が世界のすべてだという「可視範囲」は、じつはとてものびのびとした広い世界観なのである。そのときわれわれ戦後世代の子供だけが、敗戦の記憶もないままそうした無邪気な世界観をつむいでいた。
異民族に侵略されれば、みずからの集団や自己そのもののアイデンティティを確認しようとする意識が芽生えてくる。そうやって見えない向こうがわの世界との関係を意識してゆくことは、広い世界を意識しつつ、「自我=アイデンティティ」というより狭い世界を「可視範囲」にしてゆく心の動きでもある。
戦中派が「アジア」という可視範囲をイメージしていたとすれば、戦後の大人たちはヨーロッパやアメリカまでを可視範囲にしていった。そのとき日本人は、「大東亜共栄圏」を超えて、はじめて「世界市民」になったのかもしれない。と同時に、「核家族」や「自我」という極小の可視範囲に閉じ込められてもいった。つまりそうやって「見えない世界」にばかりにこだわって、「目の前の見える世界」という具体的な可視範囲を失っていった。
アジアが可視範囲だとか地球が可視範囲だとかというのは、たんなる「自我=アイデンティティ」という狭い可視範囲のことでもあるのだ。「自我=アイデンティティ」という可視範囲に閉じ込められてあるから、見えないアジアだの西洋だのが可視範囲になっているだけのこと。
明治以降の日本人は、自我意識の目覚めとともにしだいに(江戸時代の加賀の住民のような)具体的な見える世界の可視範囲を失ってゆき、その心模様は、太平洋戦争の敗戦で決定的なものになった。と同時に、そのみじめな敗戦のあとに産み落とされた子供たちの中に、そうした日本列島ほんらいの歴史の水脈である具体的な見える世界を可視範囲とする世界観がよみがえった
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戦後の核家族化の傾向も、可視範囲を狭くしてゆこうとする衝動のひとつであるのだろう。
そうなれば、母親が家族の中心に居座って、思う存分みずからの権力欲を発揮できる。
女は、監視し検閲する生きものだ。核家族の中の母親は、つねに男や子供を監視し検閲している。
フェラチオとは、ペニスを監視し検閲する行為だと僕は思っている。女はそれを、男に教えられなくても、自然に自分で身に付けてゆく。「おんな」の「な」は、「親愛」の語義。女は「親愛」の情が深い存在であるがゆえに、監視と検閲の意識も豊かにそなえている。
男は、女に監視され、検閲されて生きている。だからお父さんは、満員電車に揺られて会社に行くことも我慢ができる。それはそれで、女の監視と検閲からの解放なのだ。
サラリーマンという職業は、核家族という制度のしんどさの上に成り立っている。
核家族の自営業者の男は、かなりしんどい。だから農民の家は、今でも大家族制度が残っている。
また、子供を持っていない夫婦の家も、けっこうストレスフルであるらしい。そこでは、女の監視と検閲が子供に分散されないで亭主ひとりに向けられている。
子供二人くらいは、どうしても必要だ。
つまり、戦後の核家族は、歴史上もっとも亭主や子供が女の監視と検閲にさらされた時代だった、ということだ。内田先生のいう「競争において相対的に優位に立つことが人生の目的である」という価値観が社会に広がっていったのは、戦後の核家族における女の権力欲と身体防衛本能が亭主や子供に乗り移っていった現象であり、それによって高度経済成長が果たされていった。
内田先生が子供とはそういう存在であるというのは、自分がそういう子供だったということであり、団塊世代のそうした競争意識は、戦後の核家族における母親の影響下から生まれてきたものであるらしい。
とくに内田先生の子供時代の満鉄エリートの家庭には、そういう競争意識が育つ条件が二重にも三重にも用意されていたらしい。
僕の子供時代の伊勢では、町内の子供みんなが一緒に遊んでいた。しかし、都会の核家族団塊世代の子供たちは、同じ学年だけでかたまって、違う年代の子供とはあまり遊ばなかった。また団塊世代は、同学年の人数が多かったから、それだけで遊び相手に不自由することもなかった。
同学年の仲間意識と競争意識、それはもう核家族の母親の薫陶によって、ますます高まっていった。団塊世代は、競争意識も強いが、仲間どうしのネットワークも、ほかの世代以上にしっかり持っている。そうやって彼らは、高度経済成長社会の中心勢力になっていった。
彼らの競争意識という自我の強さや同学年どうしで遊びたがる傾向は、戦後の「可視範囲」を小さくしていこうとする風潮とも重なっているわけで、それほどに彼らは母親の影響を強く受けて育っていった。女の閉じようとする防衛本能は、もともと可視範囲を狭く限定しようとする傾向がある。内田先生の「生き延びる」という錦の御旗も、つまりは母親の防衛本能の反映なのだ。
しかしそうした戦後世代の親たちに育てられた現在の「ロストジェネレーション」といわれる世代は、家族という可視範囲を疑っているし、少子化で、同年代だけで完結できるような可視範囲=アイデンティティも持っていない。彼らは、「可視範囲」を喪失している世代である。広いわけでも狭いわけでもない、喪失しているのだ。
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核家族においては、家族旅行をしても家族という可視範囲の中にいる。
今どきの子供がコンピューターゲームに熱中したり自分のへ部屋に引きこもったりするのは、可視範囲を狭くして母親の権力から逃れようとしているのかもしれない。
内田少年が自分の人生について考えていたということだって、それほどに可視範囲が狭かったということであり、それほどに強く母親の監視と検閲のもとに置かれていたということだ。
しかし伊勢にいた僕の子供ころは、自分のことなど考えなかった。それは、祖母に育てられて、母親の監視と検閲を受けていなかった、ということもあるのかもしれない。つねに、目の前の世界が輝いてたち現われていた。僕の可視範囲は、つねにそこにあった。
僕が若いころ、目の前の好きでもない女をむきになって口説いてしまってあとで窮地に陥るということをよくしていたのは、そのときだけは、それが世界のすべてになってしまうからだった。まったく、おばあさんっ子は三文安い。
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しかし意識の基層においては、もっとも広い世界は、見渡す地平線や水平線や山の端である。意識はそこから世界を細分化してゆく。カメラのレンズが焦点をあわせてゆくように、細分化すればするほど世界は確かなものになってゆく。
見渡す広い景色よりも集落、集落よりも家族、家族よりも自分自身、そうやって世界を細分化し、アイデンティティを確かにしてゆく。
逆に見渡す景色に焦点をあわせれば、集落や家族の輪郭はぼやけてゆく。
日本列島の住民の視線は、「見渡す景色」に焦点が合っている。盆栽や茶室の空間ですら、世界(可視範囲)としての「見渡す景色」だった。だから自我というアイデンティティはぼやけている。
歴史的な日本列島の集落や家族は、可視範囲としての焦点がぼやけて自己完結していない。だから、他の集落や家族と連携してゆこうとする。村のはずれに祭りの場や市(いち)をもうけて近在の者たちが集まってきたり、下町長屋の家族どうしが連携し助け合ったりしていったのも、集落や家族を自己完結させないという歴史的な文化である。
それは、「見渡す景色」という広い「可視範囲」を持っていたからだ。
それに対して大陸のように、地平線の向こうにもうひとつの世界があってそこから侵略されるかもしれないというおそれがあれば、自然に集落や家族で自己完結してゆこうとする意識になってくる。だから大陸の人々は、集落には城砦を築き、家族の意識も高い。
日本列島は、太平洋戦争の敗戦によって歴史上はじめて異民族にに侵略された。それによって、歴史上もっともタイトな国家意識や家族意識や自我意識が住民の中に生まれてきた。
と同時に、「見渡す景色」が「可視範囲」であるという日本列島一万三千年の歴史の水脈もよみがえった。
おそらく、この二つの「可視範囲」が混在しながら戦後の時間が流れてきたのだろう。
そしてバブル景気の時代までは前者の家族意識や自我意識の時代であったが、それ以後に登場してきた「ロストジェネレーション」は、後者の日本列島ほんらいの歴史の水脈を汲み上げようとしている。
敗戦の傷は、家族や自我を可視範囲として焦点を合わせてゆくことに癒され、またそれこそが高度経済成長の原動力になっていった。
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現在のマスコミ言論界は、世界をグローバルな単位として考える知識人のグループと、内田先生のように家族主義の狭い可視範囲を止揚してゆくグループに分かれているらしいが、じつはどちらでも同じなのだ。けっきょくは自我と自我がぶつかり合っているだけである。自我がグローバルな世界をイメージし、内田先生のように自我を守る家族にこだわっている人たちも、それなりにグローバルな世界観をしっかり持っている。同じ穴のムジナなのだ。
両者はともに、目の前の「見渡す景色」という可視範囲を喪失している。したがって彼らには、日本列島の歴史の水脈に推参できる視線はない。だから、「日本辺境論」などという「トンデモ本」が日本文化論のスタンダードのように語られては困るし、グローバルな世界観でもう一方の論陣を張ってもらっても、ちっともうなずけないのだ。
同じ団塊世代といっても、内田先生が敗戦の傷としての大人たちの縮小してゆく可視範囲を背負って成長していったとすれば、僕は、大人たちとは異質な、敗戦の傷を持たない子供だった。
僕にとって戦後の60年は、とても生きにくい時代だった。それなりに楽しい思い出もないわけではないが、時代や家族や大人たちに対する違和感は、いつもついてまわった。
僕には、未来の人生を設計する能力が決定的に欠落していた。いつも、目の前の「今ここ」についのめりこんでしまう。母親や女房から「もっと上手にまじめに生きろ」と尻を叩かれても、子供のころからずっとそうだった。
内田先生とちがって僕の可視範囲は、家族でも自我でもなかった。そういうところに焦点を合わせることができなかった。
僕の可視範囲は、あくまで山の端であり、水平線だった。ひとまずここ数年、そのパラダイムで原始時代や古代の心模様をここで語ってきた。たどり着いたと思える地平も、なくはない。悪いけど僕の子供のころの可視範囲は、内田先生よりずっと原始的で広々としていた。あんないじましい論理で日本文化を語ってもらっては困る。「日本辺境論」のように他人の説をつまみ食いしながら適当に舌触りよくアレンジして語っているだけで満足できるのなら幸せだろうが、僕はもう、それについてはしんどくても自分で道筋を捜しながら書いてゆくしかない。