反「日本辺境論」・マンガ脳とやまとことば
「マンガ」の文化がなぜこの国で発達したのか。
内田先生はこれを、日本語の性格の問題だといっておられる。日本語には、表意文字の「漢字」と表音文字の「かな」がある。われわれはこの二つを脳内の別々の部位で「同時処理」しているのだとか。養老孟司先生の受け売りだが、とひとまず断ってそう説明しておられる。
受け売りでもなんでもいいのだが、「同時処理」なんかしていないじゃないか。
漢字を読むのとひらがなを読むのとでは、時間差がある。同時に読んでいるようでいて、げんみつには同時ではない。意識はつねに何かについて意識である……といわれるように、われわれは、漢字とかなを同時に読んでいるわけではないし、そのとき脳の二つの部位を同時にはたらかせているわけでもないだろう。
これは、意識の根源について考えるときに、大切な問題である。
意識は、根源において、ひとつのものについてはたらいている。したがって、根源においては、「中心と辺境」というイメージ(世界観)など持っていない。目の前にある「今ここ」がすべてである。原始人や子供は、「中心と辺境」という世界観など持っていない。日本列島の文化やことばは、そういう原始人や子供の世界観(感性)をそのまま引き継いで洗練されてきたのだ。
つまりわれわれは、漢字と仮名を同時処理するなどという小ざかしいことはしていない、ということだ。漢字を読み、かなを読み、また漢字を読んでかなを読んでゆく。そして漢字を読むとき、われわれは漢字の読みの音声などほとんど考えないで、そのかたちの画像そのままを直接意味につなげてゆく。これは、われわれは漢字をつくった民族ではないし、漢字の読みが歴史的に体にしみこんでいないからだ。
だから、その読み方だって、本場の読み方をそのまま受け入れることができなくて、適当に自分たち流の適当な読み方にして済ませてしまっている。中国人は、「歴史的」という文字を、「れきしてき」というようなたどたどしい読み方などしないだろう。
日本人は漢語も英語もなんでも受け入れるが、受け入れ方はあんがい不器用なのである。不器用だから、なんでも自分流に変えてしまう。赤ん坊が赤ん坊ことばになってしまうように。
すなわち、日本人ほど「同時処理」とか「並行処理」というようなことが下手な民族もいないのである。だからわれわれは、過去のことなど面倒くさくなってすぐ「水に流してしまう」のだ。われわれはそういう民族であるということを、今一度立ち止まって考え直したほうがいい。
われわれは「中心と辺境」という二項対立でものを考えることがとても下手な民族なのである。
1万3千年前に日本列島が大陸から切り離されたとき、縄文人は、あの水平線の向こうは「何もない」と思った。あの水平線の向こうにもうひとつの世界がある、などというような二項対立の物語など考えなかった。そして、原始人は世界中どこでもそうだったのであり、幸か不幸かそのとき絶海の孤島に置かれてしまった縄文人は、原始的な世界観(感性)をそのまま引きずって洗練させてゆく歴史を歩むほかなかった。彼らはその歴史をさらに1万年歩み続け、けっきょくその世界観(感性)が、現代にいたる日本列島の住民の世界観(感性)の基礎になっている。
われわれは、世界でいちばん器用に他国の文化を受け入れる民族ではない。世界でいちばん不器用で原始的に受け入れているのであり、だからなんでも受け入れてしまうともいえる。
原始人や子供は、道端で興味深いものを見つけると、すぐに拾って持ち帰る。それらは、さしあたりなんの役にも立たない無用のものだが、あるとき突然何かの役に立ったりする
ことがある。たとえば、拾ってきた牛乳瓶が貯金箱になったりするように。そしてそれは、もとの用途からずいぶん外れてしまっているのだが、そんなことは知ったことではない。
漢字やかなが文字として定着してきたことも、まあそんなようなことだ。漢字が日本列島に入ってきたのは、おそらく鉄器や青銅器などが入ってきたのと同じ弥生時代のことだろう。卑弥呼の時代の銅鏡の裏には、漢字が刻み込まれている。しかもそれらのほとんどは、大陸から輸入したものではなく、日本列島でつくられたレプリカなのである。そのとき彼らは、漢字をことばの表現としてではなく、たんなるおしゃれな模様として扱っていたらしい。
日本列島に入ってきた漢字は、そうやって長いあいだおもちゃ箱にしまいこまれたまま、数百年後の国家建設のときに取り出して使われていった。
日本人は、けっして器用な民族とはいえない。不器用に原始時代の世界観(感性)を引きずってきた民族なのだ。
われわれは、「中心と辺境」などという二項対立を世界観(感性)として持っている民族ではなく、ましてやそれらを器用に同時処理する能力もない。
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日本語が漢字という表意文字とかなという表音文字の二つを使っているとすれば、外国の文字は、どちらかひとつである。英語は表音文字で、中国語は表意文字。しかし、だから日本人は器用だというのは、おかしい。不器用だから、漢字と仮名を使い分けるしかなかっただけだ。大陸の人々は、そのひとつだけで、表音作用も表意作用も頭に入れてしまう。
やまとことばは意味作用を前提として持っていないために、最初の漢字は、意味を帯びていない表音文字として使われた。それが、「万葉仮名」である。
しかし、共同体の運営のための文書は、意味をはっきりさせておかなければならない。そのための表意文字として漢字が採用されていった。表意文字としての漢字は、あとから採用されていったのだ。しかも、やまとことばそのものには意味作用を前提として持っていないから、共同体の「文書」にはそぐわない。だから、「文書」をつくるためにはもう、やまとことばを捨てて、漢文そのままで表記するしかなかった。
そのとき、やまとことばで共同体の文書をつくることは不可能だったのだ。
「橋(はし)」と「箸(はし)」と「嘴(はし)」と「端(はし)」、このときの「はし」というやまとことばには、意味作用の前提がない。意味は、語られるその場の「空気」で汲み上げられてゆく。しかし「文書」には「音声」がない。それは、意味をくみ上げるための「空気」がないということだから、もう漢文そのままで表記するしかなかった。もう万葉仮名で「波志(はし)」などと書いているわけにはいかない。「橋」と「箸」と「嘴」と「端」は、ちゃんと意味を示して使い分けてゆかねばならない。
また、かといって意味作用という前提を持たないやまとことばを日常会話として採用しているかぎり、そういうやまとことばの表記の仕方も考えなければならない。漢字表記がただの万葉仮名で済んでいるあいだはそれでもよかったが、意味作用を持った文字として定着してしまえば、もう別の表記の仕方を考えてゆくしかなかった。そのようにして、「かな」文字が生まれてきた。
日本人は、ことばに対して、とても不器用で原始的なのだ。
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漢語にせよ英語にせよ、大陸のことばは、意味作用を前提として持っている。やまとことばのように、あらかじめ意味はないかたちにしておいて発せられたそのときその場の空気で意味が決定されてゆく、というようなことばではない。はじめから意味を持っていて、意味を伝えるためのことばである。
ことばをそのように扱うことは、人類の歴史において、いわば「パンドラ」の箱を明けてしまう行為だった。それによって人類は、他者を「説得する」という欲望に目覚め、それが戦争や人殺しの歴史につながっていった。つまり、そういう「二項対立」の思考に目覚めていった。
しかし、絶海の孤島に置かれていた日本列島の住民は、長いあいだ異民族と出会うこともなく、あの水平線の向こうにもうひとつの世界があるという二項対立の思考を持つことがないまま歴史を歩んでゆくことを余儀なくされた。
この島の文化の基層においては、まだ「パンドラの箱」が開けられていない。
そうかんたんに「表意文字と表音文字が脳内で同時処理されている」などといってもらっては困るのである。
そういうことは、ひとつの性質の文字ですませている外国人のほうが、ずっとうまくやっているし、うまくやっているからひとつの性質の文字ですんでいるのだ。彼らのことばは、あらかじめ「意味」がまとわりついているから、その表音文字だけで意味を汲み取ることができる。
しかしこの国のことばは「意味」がまとわりついていないから、「はし」と書いただけではわからない。「橋」とか「箸」とか「端」と表記されて、はじめてわかる。
そのときわれわれの思考は、「はし」という音声から「橋」という意味にジャンプしてゆく。日本列島の住民は、いちいちそういう手続きをとらないと、「意味」を認識することができないのである。「はし」というかな表記だけでは、「意味」にならないのである。
だからこの国では、文字が読めなくなる病気も、漢字だけが読めないとか、漢字は読めるけどかなだけが読めない、というようなことが起こってくる。
内田先生はこのことを、表音文字と表意文字を同時処理している民族であることの証明のようにいっているのだが、まったく何をあほなことをいっているのだろう。先生、そんな我田引水のこじ付けみたいな浮ついたことばかりやっていないで、ちゃんと腰を据えて考えなさいよ。
同時処理している民族なら、両方読めるか両方読めないかのどちらかなのだ。
われわれはことばの音声と意味を同時処理できない民族だから、別々の部位の脳で処理しているのだ。
われわれがそのことばの音声から意味をくみ上げるためには、別の脳の部位に移行するくらいの「ジャンプ」をしなければならない。そういう苦労の果てに、漢字と仮名で表記するというかたちが生まれてきたのであって、べつに、器用だからそういう表記をしているのではない。
そういうことの同時処理は、外国人のほうがずっと上手なのだ。
中国には3億人の文盲がいるらしいのだが、それは、漢字という文字が、意味中心で音声との結びつきが希薄であることにも原因があるのかもしれない。漢字こそ、音声と意味作用を同時にイメージできる能力が要求されることばであるのかもしれない。
また英語は、逆に音声と結びついているから、読むことくらいはすぐに読めるようになる。しかし、読めても、それだけで意味がわかるわけではない。意味は、最初から知っていなければならない。意味をあらわすために文字が生まれてきた。
そのように外国人の頭の中では、音声と意味が密接につながっている。
しかし「かな」は、音声だけをあらわすために生まれてきた文字である。意味をあらわすためには漢字を使った。
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日本人は、意味以前の音声のニュアンスだけの文字を持っている。われわれは、「もの」とか「こと」いうような意味不明のことばを、意味なんか意識せずに、それでもそのなんとなくのニュアンスだけで、べつだん使い方を誤ることなく使いこなしている。
「はし」というかな文字に、あらかじめ決められた固有の「意味」はない。意味が付与されていない音声のニュアンスだけのことばがこの国にはあり、それが、この国独自のマンガ脳になっている。つまり、音声と意味を同時処理できない不器用な脳のはたらきから、この国独自のマンガ表現が生まれてくる。
「意味」という「規範」にとらわれていない感性を、「ジャパン・クール」という。
内田先生は、日本人はマンガを読みこなす能力が圧倒的にすぐれているから、マンガの本は世界中で日本の「ひとり勝ち」になっている、という。
そうじゃないのですよ、先生。外国人が異文化である日本のマンガをこんなにも興味深く読めるのは、外国人のほうがむしろマンガを読みこなす能力がすぐれているともいえるからだ。
日本のマンガ家の表現力は、意味と音声を同時処理してゆくマンガを読みこなす能力にあるのではない。意味以前のニュアンスを表現する能力を持っているからだ。
たとえば、額の横に汗の粒をひとつ描いて、それだけで登場人物のあせったりびびったりしている内面のようすを表してしまう。こういう意味以前のニュアンスを表現してゆく芸を、無数に持っているから、外国の読者が「へえー」と感心してしまうのだ。
意味と音声を同時処理できるからではない。そんな能力はむしろ外国人のほうがすぐれているのであり、そういう能力が希薄で意味以前のニュアンスだけで世界をとらえてしまう芸にこそ、「ジャパン・クール」の真骨頂がある。