内田樹先生、日本列島は中華の辺境ですか?

時代が人をつくるのか。
人が時代をつくるのか。
「日本辺境論」は、人が時代(歴史)をつくってきた、という前提で語っている。
内田樹先生の頭の中では、どうやら自分が時代をつくっているつもりの意識が活発にはたらいておられるらしい。
まあ、先生だけでなく、これは人がおちいりやすい思考の罠だろう、と思う。
支配者やオピニオンリーダーである知識人は自分が時代がつくっているつもりだし、われわれ庶民は、あいつらのせいで時代が悪くなったという。
われわれが「あいつらのせいだ」というから、よけいにあいつらがその気になってつけ上がる。誰もが、人が時代をつくっている、という前提に立っている。
庶民だって、ささやかに時代の一部分を担っているつもりでいる。
そういう「自意識」を、われわれは不可避的に持たされてしまっている。
昔の庶民はそういう自意識が希薄だったから、政治向きのことはひとまず「お上」に任せきりで暮らしていた。それは、「時代が人をつくる」「時代はわれわれの<運命>である」という意識があったからだ。
おそらくこれが、日本列島の底流になっている無意識のかたちだ。
明治維新によって世界と出会って以降、日本列島の住民はどんどん自意識に目覚めていった。しかしそれでも、われわれの心の底には、いつも「時代はわれわれの運命である」という意識が流れていた。
だから、太平洋戦争の責任を誰も取らなかった。そのとき政治家だって「自分が時代を動かしている」という思い上がった自意識に浸りながらも、もう一方ではどこかしらで「自分はそういう時代の運命の中にある」という意識があった。
戦後の東京裁判A級戦犯になった小磯国昭元首相は、最初は戦争に反対していたが、けっきょくはそれを遂行するリーダーになっていった。そのいきさつを聞かれて、彼はこう答えたという。
「われわれ日本人の行き方としてとして、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる行き方であります」
まあそんなところだろうな、と思う。僕だって、もしその立場だったらそうしただろう、と思う。時代は、われわれの運命なのだ。こういう自我意識の肥大化した政治家にだって、日本列島の無意識がやどっている。
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このことに対して、丸山真男という戦後を代表する思想家は、こういっている。
「右のような事例を通じて結論されることは、ここで<現実>というものはつねに作り出されつつあるもの或いは作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こってきたものと考えられていることである。<現実的>に行動するということは、だから、過去への繋縛(けいばく)の中に生きているということになる」
「現実」というのは、「つねに作り出されつつあるもの」と考えなきゃいけないのか。「作り出されてしまったもの」と考えたらいけないのか。
自分が時代をつくっているつもりの知識人は、すぐこういう思考をしたがる。そんな批判なんぞは、あんたの過剰な自意識が透けて見えるばかりだ。「時代はわれわれの運命である」と思って何が悪い。時代とは、まさしくそんなものではないのか。
「現実=今ここ」とは、「どこからか起こってきたもの」に決まっているじゃないか。「今ここ」は、「出現」して、次の瞬間に消えてしまう。われわれは、そういう瞬間瞬間の生成を生きているのではないのか。そんなことくらい、哲学の常識だろう。そういう世界観から、われわれ日本列島の住民は「こと」ということばを生み出し、そして今なお当然のようにしてそれを使いまわしている。
「こと」とは、今ここのこの瞬間のことをいう。「コトン……」「コトリ……」という擬音の「こと」、それが語原だ。
べつに、「過去への繋縛の中に生きている」から小磯国昭はそう行動したのでもそういったのでもない。今ここの「こと」の出現に驚きときめくのが、日本列島の住民の心の動きの伝統だったからだ。戦争に反対した自分の過去なんか振り捨ててそう行動したじゃないか。
なんにせよ、太平洋戦争の敗戦によって、丸山真男のような「人が時代をつくっている」と考えたがる自意識過剰な人間が続々登場してきた。
そのときこの国は、「一億総懺悔」し、誰もが西洋に心の中を蹂躙され、西洋人のような自意識過剰な思考をするようになっていった。
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そして丸山真男のこの発言に対して、内田先生は次のような感想を述べておられる。
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ここには日本人の思考原型がみごとに言い表されています。……日本人は昔からずっとそうだったし、それで何とかやりくりしてきたからです。それでうまくいった政治的難局だってあった。いや、むしろその方が多かったかもしれない。ですから、その成功体験に固執しているのだと私は思います。成功体験が共有されていなければ、このような特異な心的傾向が広く内面化されるということは起こりません。……この「付和雷同」体質が集団の合意形成を早め、それが焦眉の危機的状況への対処を可能にした事例が事実歴史上には何度かあった。
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丸山真男が「過去への繋縛の中に生きている」といったように、小磯国昭は、過去の「成功体験に固執している」からそう行動したんだってさ。人を安く見積もるのもいい加減にしろよ。この人は、いつだって他人に対してこういういやらしい目を向ける。人を安く見積もって自分の正当性を確認する、ということばかりしている。まあ内田先生だけでなく、それが現代の大人たちの常套手段なのだが、内田先生はその代表格だ。このように自己愛に固執して生きる人間は、戦後にはじめて登場してきた日本人のタイプであり、日本列島の歴史的な傾向ではもちろんない。
ようするに、自分がいつだって「過去の成功体験に固執して」生きているから、人もそうだと思うのだろう。まあ日本人でなくとも誰だってそういう傾向は多かれ少なかれ持っているが、内田先生ほどじゃない。自意識さえ薄くすれば、人間はそれほどスケベったらしい生きものでもない。
内田先生、あなたとちがって昔の日本列島の住民は、そんな損得勘定だけで生きていたのではない。そんな卑しいものの見方ばかりするなよ。
付和雷同」が「焦眉の危機的状況への対処を可能にした」だなんて、だったら、無条件降伏もすばやく決断したのか。いつまでたっても決断できないでことを大きくしてしまった、水俣病薬害エイズの役人根性は、なんと説明するのか。
安っぽい歴史観だ。自分が時代をつくっているという自意識があるから、ついそういう発想をしてしまうのだ。そのとき小磯国昭は、時代をつくったのではなく、時代に殉じたのだ。
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日本列島の住民が「時代はわれわれの運命である」という意識を共有しているのは、「過去の成功体験に固執している」からではない。歴史は、そんなふうに動いてきたのではない。意識しようとするまいと、誰もが歴史に殉じて歴史が動いてきたのだ。
江戸時代までの日本列島は、よその国に歴史を書き換えられた(=侵略された)という体験をしてこなかった。だから、人間が歴史をつくるという意識が薄く、成り行きまかせで生きてきた。
つまり、時間とは一瞬一瞬生起して消えてゆくものであるという認識があって、歴史を過去から未来に向かって飴のように延びているものとして認識することができなかった。
「今ここ」がすべてだった。その「今ここ=こと」に驚きときめいてゆくことが、彼らの生きる流儀だった。そして、そういう流儀で小磯国昭は、歴史の運命に殉じたのだ。
僕は、小磯国昭に対して、あなたはどうして自決しなかったのか、と問いたい気持ちがないわけではないが、彼が「過去の繋縛の中に生きていた」とも「過去の成功体験に固執していた」とも、ぜんぜん思わない。
丸山真男であれ内田先生であれ、彼らのその、自分が時代を動かしているつもりのいやらしいスケベ根性こそ、太平洋戦争の敗戦によってもたらされた「歴史の異物」だと思っている。
われわれは、簡単に過去を水に流してしまう民族だ。そのことには、誰も異論はないに違いない。だったら、「過去の繋縛の中に生きる」ことも「過去の成功体験に固執する」心の動きも、そう強く起きてくるはずがないじゃないか。あなたたちは、その矛盾をなんと説明するのか。その薄っぺらな脳みそで。
丸山真男は、敗戦の混乱に頭をもみくちゃにされながら思想を形成していったから、そういういい加減な歴史認識しかできなかったのであり、あの時代の日本人はみんなそうだった。
吉本隆明だって、けっきょくのところは、人間とは自意識の過剰な生きものである、という前提で語っている。
しかし現在の若者たちは、もうそのような外向きのスケベったらしい自意識は洗い流して、もっと内向きに、この国の歴史の水脈に遡行してゆこうとしている。そうやって「かわいい」とときめいてゆく「癒し」だの「萌え」だのというムーブメントが生まれてきた。
内田先生は、そういう時代の流れに棹をさして、何がなんでも自分が主導する「自意識(自己愛)の時代」に引き戻したいらしい。時代は人がつくるものだと思っておられるから。