閑話休題・「チームワーク」について1

ワールドカップも近づいていることだし、サッカーの話をしたいのだけれど、たぶん逸れていってしまうと思う。
前回のドイツ大会で、サッカー通をもっとも驚かせたのは、アフリカのガーナチームだったのだとか。
その天性の身体能力に加え、アフリカにも組織的な連係プレーが育ってきていることを証明して、ヨーロッパの強豪に一歩も引かない試合をして見せた。そのガーナチームが、今回はどれだけ進化してきているか。
大番狂わせを演じるとしたら、このチームかもしれない、と誰かが言っていた。
僕は、南米のチリを応援する。
サッカーは、チームワークのスポーツである。
このスポーツが世界的に愛されているのは、そこで展開されるゲームに、人間のもっとも原初的なチームワークが見られるからかもしれない。そしてそれは、究極のチームワークでもある。
つまり、そこにチームワークの根源がある、と感じながら人々が熱狂してゆく。サッカーとは、そういうスポーツであるらしい。
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上手にボールを蹴ることは、とてもむずかしい。
プロの選手だって、ミスから逃れることはできない。
ミスは、いつでも、いたるところで起きる。
だから、おもしろい。
ミスや好プレーによってめまぐるしく攻守が入れ替わり、何が起こるかわからない、というスリルが選手も観客も熱くしてゆく。
サッカーは、ミスをすることの上に成り立っている。
ミスがあるから、好プレーが際立つ。
上手にボールを蹴ることのできる選手が神のように賞賛されるのは、ミスをするのが当たり前のスポーツだからだ。
ミスをすれば、「あのへたくそ」と思うのが人情であるが、それでも、誰もがどこかしらでそれも運命だと受け入れる。受け入れてゆかなければ、サッカーというゲームは成り立たない。
ミスをすれば、誰だって悔しいに決まっている。その「嘆き」を、選手も観客も、みんなが共有しながらゲームが展開されてゆく。
その、「嘆き」を共有することが、チームワークなのだ。
「嘆き」を共有しながら、選手も観客も熱狂してゆくのだ。「嘆き」を共有してゆくことが、人の心をもっとも熱くする。たとえば、もらい泣きのように、それによって、はじめて人と人が深く連携してゆくことができる。
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サッカーは、「嘆き」のスポーツだ。
深い「嘆き」を知っているものでなければ、サッカーはうまくなれないし、そのゲームに熱狂する観客にはなれない。
イギリスでサッカーが労働者階級のスポーツになっているのは、「嘆き」を持っている労働者階級の子弟のほうが圧倒的にうまくなってしまうスポーツだからであり、「嘆き」を持っている労働者階級だからこそ熱狂的な観客になれるスポーツだからだ。
サッカーほど、うまくなるのに時間のかかるスポーツもない。大半のものは、最後までうまくなれない。一流選手になっても、誰も完璧にはプレーできない。
だから、サッカーを覚えたてのころは、思い通りになることなんか何もない。それでもボールを蹴り続けることができるのは、「嘆き」と和解できる心を持っているからであり、その「嘆き」からカタルシスを汲み上げてゆくことのできる心を持っているからだ。
心に深い「嘆き」を持っているものは、そのぶん世界や他者に対するときめきも深く体験している。なぜなら、世界や他者にときめくことによって、「嘆き」から解放されるからだ。「嘆き」は人の心を世界や他者に向けさせる。そうして世界や他者に深くときめいてゆく心の動きをもたらす。
腹がへっていたら飯を食いたくなるし、へっていれば何を食ってもこの上なく美味いと感じる。それと同じことだ。
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異論のある人もあろうが、僕は、この国で小野伸二ほどボールを蹴るのがうまいサッカー選手はいない、と思っている。
彼は、貧しい母子家庭で育った。だから、深い「嘆き」を知っている子供だった。彼は、小学校二年まで、サッカーチームに入ってサッカーをしたことがなかった。ただもう、壁に向かってボールを蹴り続けていた。それだけで誰よりもうまくなり、そのうまさを見込まれて少年サッカーチームに誘われた。
幼い彼がなぜ来る日も来る日もそんな行為に熱中できたかといえば、「嘆き」と和解してゆく心の動きを持っていたからだ。思い通りに蹴ることができなくても、蹴ったボールが転がってゆくというそのことにときめき続けることができたからだ。そのとき彼にとって、ボールは、世界であり他者であった。蹴ったボールが転がってゆくというそのことが、彼を「嘆き」から解放し、カタルシスをもたらした。
そういうボールに対する「好奇心」を持った子供でなければ、ただ蹴り続けるというだけのことに熱中してゆくことはできない。
彼が「天才」といわれるゆえんは、幼少期に誰よりもたくさんボールを蹴っていたことにあり、それは、誰よりも深く「嘆き」と和解してゆく心を持っていた、ということでもある。
そういう心の動きを持っていなければ、サッカーはうまくなれないし、サッカーを楽しむこともできない。
だからサッカーは労働者階級のスポーツであり、世界中で愛されるスポーツになっているのだ。
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人生は思い通りにならないという、そのことがサッカーの醍醐味になっている。
そういう「嘆き」を共有しながら、サッカーのチームワークがつくられ、観衆も熱狂してゆく。
人間が二本の足で立っているということは、胸・腹・性器等の急所を外にさらしていることである。しかも、とても不安定で、かんたんに転んでしまう姿勢でもある。そういう二本の足で立っていることの居心地の悪さを「嘆き」として共有しながら、原初の人類は、他者との関係を結んでいった。
その限度を超えて密集した群れの中で、四本足の姿勢でうろうろしていたら、他者と体がぶつかってばかりいてヒステリーを起こしそうになる。だから、みんなで立ち上がって、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくっていった。それは、ひとりだけ立ち上がってもあまり意味がないし、戦うことにおいて圧倒的に不利な姿勢であるのだから、みんながいっせいに立ち上がらなければ実現しない。
そのとき人類は、戦うことのできない弱い生きものになってしまうという「嘆き」を共有しながら、いっせいに立ち上がった。
これが、もっとも原初的なチームワークのかたちである。
他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくりそれを確保しあう、というチームワーク。
他者の身体とつながってゆくのではない。
このあたりは、微妙である。かんたんに考えるべきではない。
他者が転ばないように手を出して支えてやるチームワークではない。転ばないでもすむように、ぶつかってゆかないチームワークである。おたがいが、他者の動きの邪魔にならないように、おたがいのあいだに「空間=隙間}をつくってゆくチームワークである。
たがいに自立した個体として関係していったのではない。たがいに自立できない「嘆き」を共有しながら連携していったのだ。
手を出して助けてやることは、一見チームワークのようだが、それは、「支配者」と「被支配者」の関係としてたがいに自立してゆく「秩序」がつくられているにすぎない。
代わりに蹴ってあげるのでも、蹴るのを助けてあげるのでもない。蹴らせてあげるのが、「パス」というプレーだ。
サッカーも原初の直立二足歩行の群れも、誰もが自立できない「カオス」の中で連携している。それぞれが個人として自立してゆくためのチームワークではない。自立できないというそのことと和解し、そのことを止揚してゆくチームワークなのだ。
ここで紛らわしいのは、誰もが自立しないでチームの自立を止揚してゆく、ということではない。「自立できない」というその「カオス」からカタルシスを汲み上げてゆくプレーなのだ。
チームのためにプレーしているのではない。チームの中でプレーしているのだ。そのときチームは、それぞれが自立できないことからカタルシスをくみ上げてゆくための装置として機能している。それぞれの上にチームがあるのではない、それぞれがチームという基盤の上に立っている、というだけのこと。
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サッカーは、誰もがミスをしてしまうことから逃れられない「カオス」の中に投げ込まれ、連携していっている。それは、直立二足歩行が、個体として自立できないことの上に成り立っているのと似ている。
選手たちは、足だけしか使えない不自由さと、いつも相手が邪魔をしてくるというプレッシャーの中でプレーしている。
誰も、支配者のような安全なところにいることはできない。
とくにゴール前では、敵味方入り乱れて密集状態になっている。そこにボールを運んでいかなければならない。そこにパスを出さなければならない。その「カオス」の中でプレーしなければならない。
悠々と自立しているものなど一人もいないし、パスをもらわなければプレーはできないのだから、そういう意味でも自立した存在であることはできない。
連携しなければボールはもらえないし、パスは出せない。
その「カオス」の中で、何かが起こる。
相手ディフェンダーを振り切って走りこんだ選手のところに鮮やかなスルーパスが通り、矢のようなシュートを放つ。それは、自立(自己完結)を奪われたものどうしの連携なのだ。
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人間の歴史は、自立(自己完結)できない「嘆き」を共有しながら二本の足で立ち上がるという「連携」を見出していったところからはじまっている。サッカーというゲームは、そういう根源的な「連携(チームワーク)」のかたちを持っている。
たとえば、会社などの働く現場において、誰もが自立した個人としてチームの「秩序」をつくってゆくのか、それとも、こんな仕事など誰もが身過ぎ世過ぎのために仕方なくやっているのだという「嘆き=カオス」を共有しながらかばいあい助け合ってゆくのか……いったい、どちらがほんとうのチームワークだろうか。
かばいあい助け合うことは、「カオス」であって、「秩序」ではない。
世界や他者にときめくことは、狂おしい「カオス」としての心の動きであって、予定調和的な心の「秩序」ではない。
あなたたちは、なぜそんなものを欲しがるのか。世界の秩序だけでなく、自分の心まで統治して「秩序」を得ようとしている。
この社会は、それぞれが「個人としての自立」をスローガンとして「秩序」のチームワークを目指しており、それが、若者を追いつめ、ニートやフリーターの世界に逃げ込ませている。
それはたぶん、とても不自然で非人間的なチームワークなのだ。そのようなチームの中で、人は、この世界や他者にときめく心を失ってゆく。
それはたしかにこの社会の正義ではあるが、あなたたちは少しもときめいていない。
「いじめ」も、ひとつの「秩序」を目指すチームワークなのだ。
現代人の「自立」やら「自己統治」やらを欲しがる、その「カオスを怖がる」心が、この社会の「差別」やら「抑圧」やら「いじめ」やらを生み出している。(つづく)