閑話休題・「チームワーク」について2

現代社会は、「自立」や「自己統治」などということばがスローガンになってしまっている。
大人たちは、それによって心の秩序や社会の秩序を得ることが「チームワーク」であり、すべての問題を解決することだと思っている。
しかしサッカー選手は、そういう「秩序」を喪失した「カオス」のなかでプレーしており、そこから生まれてくる「チームワーク」の上にゲームが成り立っている。
それは、あきらかに現代社会や大人たちが持っている「チームワーク」とは異質である。
内田樹先生が、分子のはたらきの根源にからめて、サッカーのチームワークを次のように語っておられる。
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ボールゲームにおいてパスを送る相手を選ぶ基準は「できるだけ可動域が広く、つぎの動きについて多くの選択肢をもつプレイヤー」である。
私たちは、送られたボールを抱きこんで座り込むプレイヤーや、同じコースにしかパスを出さないプレイヤーには、けっしてパスを送らない。
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例によって、鈍くさい運動オンチが、知ったかぶりをしてとんちんかんなことをほざいておられる。
「送られたボールを抱きこんで座り込むプレイヤー」なんかいるはずがないじゃないか。あなたのような鈍くさい運動オンチじゃあるまいし。そして「同じコースにしかパスを出さない」というようなことをしていられるほど、サッカーは退屈なスポーツでもない。
そうやって他人を安く見積もることによって自己を正当化してゆく、というのが、あなたの常套手段だし、そんな人種が現代社会にはうんざりするほどあふれている。そうしてその一方で、誰かの腰ぎんちゃくになって必要以上に持ち上げる。それで帳尻を合わせようとするのが、あなたたちの処世術だ。
「できるだけ可動域が広く、つぎの動きについて多くの選択肢をもつプレイヤー」だって?
そんなところにパスを出したいのなら、敵にからまれていないディフェンダーのところにバックパスを出しておけばよかろう。
ようするにこの先生は、誰もが自立し自己統治している「秩序」によってチームワークが成り立っている、といいたいのだろう。鈍くさい運動オンチの考えそうなことだ。やつらは、そういうところでしかボールを扱えない。
たとえば、中盤のボランチが、ディフェンダーにバックパスをする。そのときパスを出したボランチは、そのボールをどこに出すかという指示を出す。つまり、ボールを受けたディフェンダーの「選択肢」はひとつしかない、ということだ。ゲームが高度になればなるほど、選択肢は「ひとつ」しかないのであり、「多くの選択肢」があることなど何の意味もない。ひとつあれば、じゅうぶんなのだ。そのとき優秀なボランチと優秀なディフェンダーであるのなら、同時にたった一つの選択肢をイメージしている。たくさん選択肢があるからそこに出したのではない。
そうやってバックパスばかり出していれば、安全だが、ゲームは進まない。そういうことは、勝っているチームが終盤の時間稼ぎのときにやっているだけのことさ。
パス回しのアクセントとしてそれが有効な局面もあるが、最終的には、誰もが「可動域」も「選択肢」も奪われているゴール前の密集にボールを運んでゆくしかない。
ここからが勝負なのだ。
ここからの「チームワーク」によってゴールを目指すのが、サッカーというゲームなのだ。
パスを受けるフォワードは、相手ディフェンダーにぴったり張り付かれ、「可動域」も「選択肢」も、きわめて限定されている。
そこに、パスを出す。
そのときパスを受けたフォワードが、そのボールをシュートするか、さらに別の選手にパスを出すのかは、「選択肢」ではない。その場の状況と転がってきたボールによって、すでに決定されている。さらにパスを出すためのボールか、シュートをするためのボールか、そのパスされたボールがすでに決定している。
つまり、そのときパスを出す選手と受けるフォワードとのあいだで、すでにその状況における最良の選択肢が共有されている、ということだ。高度なサッカーほどそのようにプレーされているし、そのようにプレーしなければ、ゴール前の密集を克服することはできない。
すぐれたパサーは、選択肢が決定されていないようなへぼなパスは出さない。シュートを打たせるためなら、シュートを打ちやすいボールをちゃんと出す。
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また、相手のマークがきつすぎてとてもゴール前の密集にはパスを出せないというとき、サイドのオープンスペースを駆け上がってきたウィンガーにいったんボールを送る。
そのウィンガーの選択肢は、ひとつしかない。中央の密集にボールを折り返すこと。
サイドのウィンガーにボールが送られれば、相手は、その選手が自由にプレーすることを誰かが止めに行かなければならない。すると、ゴール前の密集が少しまばらになる。
そうしてフォワードが相手に競り勝ち、そのボールに先に触れることができたら、ゴールにつながる。
で、そのときパスを受けるウィンガーの身体の可動域が広いかといえば、そんなことはまったくない。走りながらボールを受けるのだもの、足のすぐ前に出してくれなければうまく蹴ることはできない。いきなり横に行くことも後戻りすることもできないのだから、その限られた可動域でボールが蹴りやすいように出してやるのが、パサーの仕事だ。
オープンスペースを駆け上がっているからこそ、とても可動域が狭い状況に置かれているのだ。しかも、もしボールが送られてこなければ、それは、ただの無駄働きである。それでも彼は、駆け上がる。
そういう「嘆き」を抱えて、ウィンガーは駆け上がっている。
誰かの「役に立っている」と思えることが労働のよろこびである、と内田先生はいう。鈍くさい運動オンチは、そういう薄っぺらな欺瞞ばかり語っていろ。そのウィンガーがそんなスローガンを後生大事に抱えて駆け上がっていたら、ボールが来なかったときの落胆と腹立たしさは、耐え切れないものになってしまうだろう。
彼がそこを駆け上がっていったのは、そこにオープンスペースがあったからだ。それだけのことさ。誰のためでもない、それが彼の本能だったからだ。
彼は、「誰かの役に立っている」という「秩序」の上に駆け上がっているのではない。そんな「秩序」などないのが、サッカーである。それでも、優秀なウィンガーは、オープンスペースを駆け上がろうとする本能を持っている。
また、「秩序」がないから、思わぬところでぽっかり穴があく、ということが起きるのであり、それが、サッカーというスポーツなのだ。
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たしかに、チームワークの根源は、分子の運動にあるのかもしれない。
では、分子の運動は、内田先生のいう「秩序」という目的の上に成り立っているのか、アトランダムな「カオス」であるのか。
「チームワークの根源」を問うことは、社会的な「差別」を問うことでもある。われわれは、「差別」が克服されているかたちとして、「チームワークの根源」を問いたいのだ。
たとえば、体のはたらきには、異物や毒素を排除しようとする「拒絶反応」がある。
それは体の細胞に拒絶反応があるからだ、ということになっていたが、それよりさらに小さい「分子」という単位が発見されて、そういう言い方が成り立たなくなってきた。
細胞が分子を動かしているのではない。分子の動きが、細胞のかたちになっている。そうして、分子よりももっと小さい原子とか電子とかいう単位も発見されている。もっと顕微鏡の精度が上がれば、もっと小さな単位も発見されるだろう。もしかしたら、無限に「より小さな単位」があるのかもしれない。
そしてそれらの「より小さな単位」は、上位の単位から動かされているのではない、勝手に動いているのだ。
とすれば、「拒絶反応」はどの単位が持っているかといえば、もうどの単位も持っていないことになる。
拒絶反応は「結果」であって、「原因」ではない。拒絶反応があるから拒絶反応が起きるのではない。
だから僕は、命のはたらきに「志向性」などというものはない、といいたいのだ。われわれは、生きようとして生きているのではなく、「すでに生きている」のだ。それだけのことさ。
分子の動きはアトランダムな「カオス」であって、「秩序」や「法則」があるのではない。「カオス」であることが「法則」なのだ。
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畑に農薬をまき続けていれば、農薬に強い害虫が現われてくる。まあそれは、農薬にも死ななかった強い害虫が生き延びて子孫を増やしていったということだろうが、どうして死ななかったかといえば、それは強くて健康な細胞や分子を持っていたからだ、というだけではすまない問題がある。
少なくとも分子という単位に、強いも健康もないだろう。仮にあったとしても、それは無数の集合なのだから、強くて健康な分子だけが生き延びて弱い分子がぜんぶが死滅したということなら、その時点でもう細胞の存在が成り立たなくなる。
その細胞が生き延びるということは、その細胞を組織する分子が減らずに生き延びたということだろう。分子の数が減れば、細胞だって衰弱して小さくなってしまう。
もっと強い細胞にならなければ、生き延びられない。それは、全体の分子の運動が活発になった、ということかもしれない。そうして新しい「チームワーク=構造」が生まれてきた。
体に痛みや苦しさがやってくれば、体が勝手に動いて大いにもがいてしまう。身体の危機においてこそ、細胞や分子のはたらきは活発になる。
べつに拒絶反応があったからではなく、細胞や分子が活発に動いて外に吐き出してしまっただけのことだろう。その毒素が刺激になって、活発に動いてしまった。べつに「拒絶」しようとする意志や志向性があったのではない。
毒素を排出したのは、あくまで「結果」にすぎない。
つまり、強い細胞や健康な細胞や分子が生き延びたのではない。活発に動いた細胞や分子が生き延びたのだ。
強ければむしろ、そう活発に動く必要もない。だから、毒素が出ていかない。
とすれば、活発に動いてしまう弱い細胞や分子の持ち主の個体が生き延びたのかもしれない。
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原初の人類が地球の隅々まで拡散していったのは、そこに住み着くことのできない弱いもたちが移動していったからだ。戦後の日本人のブラジル移住や、近代のヨーロッパ人のアメリカ移住だって同じだろう。
強くて賢い者たちは、移動する必要がないのだから、移動しようとしない。
分子の運動だって、動くことを封じられるから動くのであって、動く能力があるからではないに違いない。
そこで動くことができるのなら、そこで動いていればいい。そこでは動くことができないから、動けるところまで移動してゆく。
サッカーにおいて、サイドバックがサイドのオープンスペースを駆け上がってゆくのと同じことだ。
農薬に強い害虫になったのは、農薬に強い細胞を持っていたからではなく、そのとき分子が激しく運動して、分子そのものや分子間の「構造」が変わったからだろう。そして激しく運動したのは、強い分子だったからではなく、ともあれそういう状況から運動させられただけのことだ。
運動したことの「結果」として、毒素が排出された。排出しようとしたのではない。
そのとき毒素を排出した分子の「チームワーク」は、それぞれが激しく運動するほかない「カオス」から生まれてきたのであって、強い分子が排除する「秩序」を組織していったのではない。
それは、弱い分子が激しく動いて「構造」を撹乱し、そこから新しい「構造」が生まれてきたのかもしれない。
金持ちけんかせず、というように、強い分子は、けっして「構造」を撹乱しない。
「チームワーク」とは、「秩序」をつくってゆくことではない。カオスの中に置かれてある「嘆き」を共有しつつ「連携」してゆくことだ。
「秩序」が「チームワーク」になりえないことは、江戸の幕藩体制が「秩序」の名のもとに停滞し腐敗しきっていったことがいいお手本ではないか。そして、このままではわれわれは人間以下の存在になってしまうという危機感を募らせたものたちによって、明治維新という革命が達成された。
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サッカー選手は、「カオス」の中に置かれてあるという「危機感=嘆き」を背負いながらプレーしている。
そこから生まれてくる連係プレーや結束というチームワークがある。
好むと好まざるとにかかわらず、われわれは「チームワーク」で生きている。
人間においては、1対1の関係ですら、たがいの身体のあいだに「空間(すきま)」をつくり合うというチームワークの上に成り立っている。
人間が二本の足で立ち上がるということは、胸・腹・性器等の急所をさらしてしまうことであり、そうやってわれわれは、「危機」を共有し合って存在している。
禁じられた恋ほど燃え上がるのは、「危機」を共有しているからだ。
国が戦争をしていれば、国民の結束はどうしようもなく強くなる。仕方がない、人間存在は、そのようにできている。それは、戦争がいいとか悪いというような問題ではない。チームワークの根源の問題なのだ。
ゴール前の密集で、安全なパスなどない。選手たちは、危機を背負いながらパスを通し、危機を背負いながらパスを受ける。そこから生まれてくるチームワークという連携や結束は、貧しいものや弱いものこそもっともよく知っている。
たとえば、しがない町工場の工員たちがひとつの製品を仕上げてゆく「チームワーク」と、大企業や官庁のエリートたちがつくるチームワークと、どちらが根源的だろうか。
誰もが身すぎ世すぎでしょうがなくやっているという嘆きを共有したところから生まれてくるかばいあい助け合うチームワークと、誰もが自立した自我をそなえて仕事を生きがいにしながら「秩序」を整備してゆくチームワークと、いったいどちらが根源的だろうか。
前者のチームがたがいにかばいあい助け合おうとしているのに対し、後者のチームでは、仕事の能力のないものは差別され排除される。
仕事に生きがいを持っているものほど、チームワークを乱す存在もない。彼は、仕事のできない人間を許さない。許さないことによって、自己のアイデンティティを確認している。
そういう人間は、フリーランスになったほうがよい。
働くことが人間性の本質であり、そこにこそ生きがいがある……などという人間が集まっているチームでは、それぞれが支配と被支配の関係になって自立し、「秩序」をつくってゆくしかない。
まあ現代はそういう社会になっているから、われわれはサッカーに熱中し、その憂さを晴らしている。
「自立した個人」の集団のチームでは、「差別」の上に立った「秩序」というチームワークしか生み出せないし、いまどきの大人たちはみんな、それこそがまっとうなチームワークだと思っている。
人間社会において、差別をともなわない秩序などない。秩序をつくるとは、差別をする、ということだ。
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自立できないことが、人間のかたちであり、そこから自立してゆこうとするのではなく、自立できないというそのことからカタルシスをくみ上げてゆくのが、チームワークの根源のかたちなのだ。
しかし、いまやそういう社会になっていない。
だからわれわれは、その代償行為として、サッカーに熱狂してゆく。
いまや、しがない町工場にも、差別的な秩序はあるに違いない。小さな過疎の村にもあるだろう。
「秩序」が正義の世の中だもの。人々が心の「カオス」を怖がっている世の中だもの。
とはいえ、それでも官庁のお役人の世界にだって、チームワークの根源は潜んでいるはずだ。人間がつくっているチームなのだもの。
あまり希望など持てない社会ではあるが、われわれは、絶望もしない。
われわれは、カオスの中に身を置くことを怖れ、カオスの中に身を置きたがっている。
人間がつくっているチームであるかぎり、どこかにチームワークの根源が潜んでいる。
だからわれわれは、サッカーに熱狂してゆく。
少々大げさに言えば、この世にサッカーというスポーツが存在するということは、誰もがどこかしらに「チームワークの根源」を抱えて存在している、ということを証明している。
「おはよう」とあいさつすることだって、ひとつのチームワークなのだ。
そういう「チームワークの根源」は、内田樹先生のように「労働こそ人間性の根源であり、自己の証明である」というようなたわけたことをいっている人には、死ぬまでわからないのだろう。