祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」10・自己PR

今の二十代以下の若者たちは、「アラフォー」以上の「戦後世代」のことをどう思っているのだろうか。
戦後世代の大人たちは、自分を人に認めてもらいたいという欲求や、自分を守ろうとする意識がとても強い。大げさにいえば、その一心で生きているような人間がたくさんいる。
内田樹先生などはその典型だが、しかしそれは、他人にときめいていない、ということだ。
そういう大人たちがのさばっている世の中だし、そういう人間としてがんばればうまく生きていけるような社会の仕組みになっている。
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たとえば就職の面接試験を受けるときの願書に、自己PRを書き込ませることが多い。
どうしてこんなことをさせるのだろう。
面接するがわに人を見る目の自信がないからだろう。自分自身が自己PRばかりに熱心で人にときめくということのない人間なのだもの、あるはずがない。あれば、書かせる必要なんか何もない。面接のときに見抜けばいいだけではないか。感じればいいだけだろう。
彼らは、人間と人間の関係なんて、自己PRの「手続き」で成り立っていると思っている。その「手続き」を上手に熱心にする人間がいい人間だと思っている。つまり自己PRという「手続き」を交わすことが、心と心が触れ合うことだと思っている。
人に認めてもらうことが人と関係することだ、と思っている。たがいに相手に対してときめき合うことだとは思っていない。そういう心の動きを持ち合わせていない。
自分をPRすることと自分のアイデアを提出することは、またべつのことである。そこのところが何もわかっていないから、自己PRだけは熱心だがイメージはまるで貧困な人間を採用して後で後悔することになる。
彼らは、それを書かされる若者たちがどんな思いで書いているのかということを、何もわかっていないし、自分と同じように喜び勇んで書く人間がいい人間だと思っている。
自己PRを書かせるなんて、すごく失礼な話だ。俺の前で裸になれ、といっているのと同じではないか。自己PRなんて、この国の文化の伝統からすれば、すごく恥ずかしい行為なのである。裸になるくらい恥ずかしい行為なのである。
この国の文化の伝統からすれば、そんなことは自分でもしないし他人にもさせないというのが、人間としてのたしなみなのである。
よくも臆面もなくそんなことを他人に要求できるものだ。
この社会にそういうシステムを定着させてしまったのは、戦後世代の大人たちだ。彼らは、それくらい恥知らずな世代なのである。他者にときめくということがない世代なのである。
彼らは、自分の正当性を認識しようとする欲求がものすごく強い。そのためには、どうすればいいか。他人を安く見積もることである。他人を抑圧することである。
そういう自己のアイデンティティを、必死に守って生きている。守るためには、他人を安く見積もることだ。他人を抑圧することだ。それが、彼らの処世術である。彼らは、自分のアイデンティティが危うくなると、すぐ他人を安く見積もるという思考に走る。人を上から見下していないと生きられない連中なのである。
自分のアイデンティティを守って生きるためには、他者にときめかないことだ。それが彼らの処世術であり、そういう連中が、面接願書に「自己PR]を書かせている。
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だから、女房に逃げられたら、「あのバカ女」などと恨みがましいこという。おめえにセックスアピールがなかっただけのことじゃないか。おめえみたいな人にときめかない人間ならちんちんだって立たなくなるし、そりゃあ女房だって逃げ出したくなるさ。そうでしょう、内田先生。
たとえ七十、八十のじじいになっても、ちんちんなんか立たせようと思うな。そんな「自我意識」など、邪魔なだけで、何の役にも立たない。相手にときめいてしょうがなく立ってしまうだけのこと、そうやってちんちんを立たせているじいさんがちゃんといる。それが、生きものの生きてあるかたちだ。
この社会を牛耳っている大人たちが若者の面接願書に自己PRを書かせたがることは、他者に「ときめく」という人間としての根源の問題を喪失していることだと僕は思う。ただ西洋の真似をすればいいってものでもない。戦後の20世紀はそれでよかったのだろうが、もうそんな時代ではなくなってきている。
それが若者たちを追いつめているのであり、西洋人たちもそのシステムを反省し始めている。いい気になってそれが若者を発奮させ育てていると思っているのは、この国の大人たちだけだ。
「かわいい」というときめきは、21世紀を切りひらく問題だと思う。