祝福論(やまとことばの語源)・「原」を「ばる・はる」と読む地名

新田原(にゅうたばる)、西都原(さいとばる)、春日原(かすがばる)白木原(しらきばる)、このように「原」を「ばる・はる」と読ませる地名は、九州独特のものらしい。
その地名は、九州全体に広がっていて、福岡には27もある。
なぜ九州だけにしかないのか。
朝鮮語の「原=ボル」が伝わったものだという説があるが、古代の帰化人は、九州だけにやってきたのではない。古代の製鉄は出雲地方がもっとも盛んで、それは朝鮮から伝わった、というのが定説になっている。朝鮮から出た船は、日本海流親潮)に流されて山陰地方にたどり着くことも多かった。山陰地方から岡山にかけては、帰化人の子孫らしい苗字が今でもたくさん残っている。
本格的に地名が生まれてきたのは、人々が定住して農耕生活を始めたからだろう。日本列島では、それが弥生時代になってからのことで、縄文時代に組織的な農耕をしている地域はなかったし、集落といってもほとんどが10戸から20戸くらいまでの規模で、よく集落ごと移動していたらしい。そういう時代には、山や川の名はあったかもしれないが、自分たちの住んでいるところを地名として名乗るということは、おそらくなかったに違いない。自分たちの集落を「村(むら)」といっておけば、それでこと足りた。
日本列島の地名は、おそらく、農耕生活を始めた弥生時代になってから続々生まれてきた。
しかしその頃は、帰化人が集団でやってきて村とは別のある場所に住み着く、などということはなかった。
航海術も発達していなかったその時代に、村ごと玄界灘を渡ってやってくる、などということがあるはずがない。歩いて別の地域に移動する、ということはあったとしても、だ。
やってきたのは、一部の漂着民だけだったはずだ。漂流できるくらいの船は、あったかもしれない。
その地名が九州にしかない、ということは、関門海峡や豊後水道ですら交流を阻む隔たりになっていた時代に生まれた地名であることを意味する。その地名は、関門海峡すら渡ることができなかったのだ。
それは、九州で生まれた地名なのだ。そして九州全域に広がったが、九州の外まで広がってゆくことはなかった。したがってその地名は、ずいぶん遠い昔(おそらく弥生時代はじめ)に生まれた、ということでもある。
(ちなみに、沖縄の「山原(やんばる)」などの呼称は、中世以降の薩摩による琉球支配によってもたらされたのだろうと思える)
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マクドナルドのこととを「まくどなるど」とたどたどしく発音するのは日本人くらいのもので、韓国人も中国人もネパール人も、ちゃんと「メァクドゥナードゥ」と、原語のように発音する。
やまとことばには一音一音に固有のニュアンスや意味があるから、英語のように、ひとまとめにしてしまうような発音はできない。われわれは、一音一音のニュアンスを表出しながら発音する癖が体にしみこんでいるために、英語を発音しようとすると、どうしてもたどたどしくなってしまう。
やまとことばの語源の解釈は、一音一音のニュアンスを問うてゆくことからはじまる。
「原(はら)」の「は」は、「はかなし」の「は」、「空間」の語義。
「はっとさせられる」とは、心のすきま(=空間)を突かれること。
「はあ?」といぶかることは、よくわからなくて、心にすきま(=空間)ができてしまう心地の表出。
心が空っぽになってしまって、「はあ」とため息をつく。
「ら」は、「われら」「彼ら」「ここいら」「そこいら」の「ら」、「集合」の語義。
「原(はら)」とは、平原(スペース=空間)のこと。
村の外のそこいらじゅう何もない「空間(スペース)」だから、「原(はら)」という。
ちなみに、古代の「腹(はら)」ということばは胴体部分のことを言っていたのだが、彼らはその部分を「空間=スペース」と認識していたらしい。やまとことばは、内臓の語彙が極端に少ない。全部まとめて「はらわた」あるいは「わた」と言っていたくらいである。
胸が苦しいとか、腹が痛いとか、内臓が意識されるのは、身体の危機的状況のときだけである。健康であれば、そんな部分のことは忘れている。忘れているときのその部分は、たんなる「空間=スペース」である。だから、「はら」と言った。
古代人は、身体が「空間=スペース」と感じられることの心地よさを大切にして生きていた。それが、やまとことばのタッチである。身体を「空間=スペース」と感じることが、「生きた心地」であり、人間存在の根源のかたちである。古代人は、すでにそういうことを知っていたらしい。というか、われわれの無意識には、そういう「生きた心地」の感触がある。
二本の足で立って歩くことは、じっと立ったままでいることの居心地の悪さから解放される行為であり、そのとき人は、身体のことは忘れ、身体はたんなる「空間=スペース」になっている。疲れてきたときにはじめて、「足が痛い」などといって身体を意識しはじめる。
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「原(はら)」ということばは縄文時代からあった、という説もあるくらいだから、「ばる・はる」という地名が生まれてきたころの九州にも、そのことばはとうぜんあったに違いない。
とすれば「ばる・はる」は、「はら」と区別するために生まれてきたのかもしれない。「はら」のようだが、「はら」ではない、それを「ばる・はる」と呼んだ。
現在の宮崎の人々は、平たい台地のことを「ばる・はる」と呼んでいるらしい。
地面がふくらんでいるところにある平地だから、「ばる・はる」という。そこは、「はら」のようだが、「はら」ではない。
「張(は)る」は、「ふくらんでいる」という意味。満腹になって腹がふくらんでいることを、「腹がはる」という。
「春(はる)」とは、草木が芽生えて、大地がふくらんでくる季節のこと。
「梁(はり)」は、家の中の空間のふくらみをつくっている柱のこと。
土を耕すことを、古代では「墾(は)る」といった。硬い地面を掘り返せば、土と土のあいだにすきまができて、地面はふくらむ。
「ばる・はる」とは、地面がふくらんでいる「台地」のこと。宮崎の人々がいうように、おそらくこれが語源のかたちに違いない。
ただ、これだけでは、九州にしかないことの説明はつかない。
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縄文時代の人々の多くは、小高い台地や山間地で暮らしていた。そういう場所のほうが、野草や木の実やキノコなどがたくさん採集できたし、狩の獲物もたくさんいた。
そういう意味で、小高い台地は、集落をつくるのに最適の場所だったのかもしれない。
そこは、何もない原っぱではなかった。集落があった。だから、「はら」のようで「はら」ではなかった。
「ばる・はる」の「る」は、「ある」「する」「みる」の「る」。物がすでにあることや、行為がすでに行われていることをあらわす動詞の語尾。すなわち「決定」の語義。
何もない平地のことを「はら」というのに対し、人々がすでにそこに住み着いているから、「はら」ではなく、「ばる・はる」といったのだろう。
集落のことを「ばる・はる」といったのではない。集落のある台地のことを、「ばる・はる」と呼んだのであり、その呼び方には、そこで暮らす人々のその地に対する愛着がこめられている。愛着があるから、ただ「はら」といっているだけではすまなかったのだ。
集落のある地名には、人々のその地に対する愛着がこめられている。
「はら」という地名の場合は、そこに集落をつくる前にすでにそういう地名ができてしまっていたからだろう。
それに対して「ばる・はる」は、すでに集落があったところから生まれてきた地名であるにちがいない。なぜならそこは、縄文時代からすでに人が住み着いていた土地なのだ。
後世になって朝鮮からやってきた人たちが住み着いたのではない。
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たとえば「田主丸(たぬしまる)」とか、九州には「まる」ということばがつく地名も多い。
だから、「まる」が変化して「ばる・はる」になったのではないか、といっている人がいる。たとえば、「さむい」が「さぶい」に変化するように、それは、ありえないことではない。
しかし、「まる」がつく地名は本州にもたくさんあるわけで、なぜ九州だけ「ばる・はる」に変化していったのかというところは、誰も説明できない。
「馬(うま)」という名詞は、漢語の「バ」が変化したものであるらしい。馬は、もともと日本列島には生息しておらず、大陸から輸入された。
では、そのとき日本列島の住民の耳には、「バ」が「ま」に聞こえたのかといえば、そんなこともあるまい。日本列島の住民の馬に対する感慨が、「バ」を「うま」にしてしまったのだ。
古代人は、馬のことを「バ」と呼ぶのに、どこか違和感があった。ただ意味もなく「うま」になってしまったのではないはずだ。
「ば=は」は、「空間」であり「場(スペース)」のことであって、「馬」という動物の印象とは違う。まあ、それくらい馬に対して愛着や親しみを持ってしまったから、「バ」というだけではすまなくなっていったのだろう。
「うま」の「う」は、「うっ」と息が詰まる感慨からこぼれてくる音韻。「困難」「苦痛」の語義。
子を「産(う)む」ことは、けっして楽な行為ではあるまい。
犬や猫しか飼ったことがなかった当時の日本列島の住民には、馬の体の大きさは、それなりに圧迫感があったにちがいないし、調教することや世話することの困難もあっただろう。
そして「ま」は、「まったり」の「ま」。「充足」の語義。
馬は、そういう圧迫感や飼うことの困難をともなう動物ではあるが、一度飼いならしてしまえば、とても親しみ深いし、大いに役に立つ。おそらく、馬に対するそういう感慨から、「うま」というようになっていったのだ。
「うま」という音声は、「悲喜こもごも」というような感慨からこぼれ出る。そのように人生を共にする相手だから、「うま」といった。
「うまが合う」、というではないか。
「上手(うま)い」とは、困難なことを収拾してゆく能力のこと。
「美味(うま)い」とは、食べることの面倒を忘れさせ、充足が与えられる体験のこと。
「バ」というだけではすまないわけがあった。あったから変わったのであって、ただなんとなく意味もなく変っていったのではない。
同様に、「田主丸」の「まる」の「ま」も、変わるべき理由がなければ「ば」には変わらない。
「さむい」を思わず「さぶい」といってしまうこととはわけが違う。いや、それだって、わけがないではない。「さむい」の「む」は、寒くて体が固まってしまうような心地をあらわしている。「無理(むり)」の「む」。それに対して「ぶ=ふ」は、「震(ふる)える」の「ふ」である。寒くて体が震えたから、思わず「さぶい」といってしまうのだ。
「まる」という言い方が今でも残っているということは、ただ意味もなくそれが「ばる」に変わってしまうことはありえない。変わるなら、それなりのわけがあるし、やまとことばにおいては、「まる」が「ばる」に変わったら、意味も変わってしまう。
「まる」と「ばる」は、別のことばなのだ。
「まる」の「ま」は、「まったり」の「ま」。「充足」の語義。
「る」は、「ばる・はる」の「る」と同じように「決定」の語義。
すなわち「充足」が「決定」している場所のことを「まる」という。そこに住み着いた人々が、ここは豊かで住みやすい土地だ、という感慨を込めて「まる」と名乗ったのだ。
したがって、そうかんたんに「まる」が「ばる」に変わるはずがないし、じっさい今日まで変わらず残ってきている。
「まる」とは、安定して落ち着く感慨のこと。それが、「まる」の語源だ。
そこから、丸いかたちのことを「まる」というようになり、そうして「まがる」「まわる」ということばが生まれてきた。
「かしこまる」とか「あらたまる」というときの「まる」という接尾語は、「行為の完結」をあらわしている。
それに対して「ばる」は、「踏ん張る」「頑張る」「気色張る」の「ばる」で、気持ちが「ふくらむ=昂揚する」ことをあらわしている。すなわち、「まる」が最終的な「決定」の感慨だとしたら、「ばる」は、気持ちが動きはじめふくらみはじめることをいう。
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「ばる・はる=まる」であるなら、城の「本丸」とか「二の丸」というときの「丸(まる)」は「砦」という意味だから、「ばる・はる」も同じ意味であるに違いない、という人もいる。
「丸(まる)」という地名の語源は「充足をもたらす場所」という意味だったのだから、それが後世の戦国時代になって「充足=安全」を約束するための「砦」という意味に使われていったのはうなずける。
しかし、最初から「砦」という意味だったのではない。
初期の大和朝廷に、「砦(=城壁)」などなかった。したがって、おそらく弥生時代にも、日本列島には「砦」などというものはなかった。
砦などつくらないのが、原始時代から古代にかけての日本列島の集落の伝統だった。
魏志倭人伝に、そのころの日本列島が「小国相乱れて戦争ばかりしていた」という記述があるが、そんなものは、いいかげんなただの伝聞情報にすぎない。そのころの朝鮮半島はそんなことばかりしていたから、中華思想漢民族としては「野蛮な連中はそんなことばかりしている」といいたかったのだろう。
そのころ日本列島にやってきた魏の役人など、一人もいないのだ。
平城京は、唐の長安をモデルにしてつくられたが、長安のような「砦=城壁」は模倣しなかった。
だいたい、魏志倭人伝のころ、すなわち卑弥呼の時代は、歴史的にまだ「国を奪い合う」というような段階ではなかった。農耕生活を始めてまだ数百年しか経っていない段階で、自分たちの住み着いた土地を完全に支配し切れておらず、どこでも土地は有り余っていたのだ。
語源としての「丸(まる)」という地名は、自分たちの土地に対する愛着をあらわすことばだった。
「丸(まる)」という地名が生まれたであろう弥生時代には、砦などなかった。
砦などつくらないのが、日本列島の集落の伝統なのだ。
日本列島のサービスの文化は、自分を捨ててもてなしてゆくことにある。それは、「砦」をつくらない文化である。
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「まる=ばる」の語義は「砦(の集落)」にある、という仮説の提出者は、「ばる・はる」という地名はわりあいひとつの地域に集中していて、そういう地域(国)どうしの同盟関係が結ばれていたのだろう、ともいっている。
しかし、そのことばが生まれたであろう遠い昔にそんな「国」があり「同盟関係」が結ばれていたのなら、その同盟によってまわりの地域を次々にやっつけてすぐに統一王朝が生まれ、九州が日本列島を支配する歴史になっていたことだろう。
お願いだから、そんな政治的妄想で遠い昔の歴史を語るのはやめていただきたい。
この国の語源としての地名は、そんな「政治」ではなく、人々の暮らしの中から、すなわち人々の土地に対する愛着から生まれてきたのだ。
そのころ「文字」がなかったということは、そういう「政治」などなかった、ということなのである。
そんな通俗的な空想や妄想では、文字以前の時代の人々の暮らしや心の動きに推参してゆくことはできない。
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「ばる・はる」の語源を考えるなら、けっきょく宮崎の人々の「台地」という意味に戻ってゆくしかない。
問題は、その地名が九州にしかない、ということであり、九州にたくさんある、ということだ。
もちろん、台地が九州にしかなかったわけではない。
しかし、台地の下の平原は、遠い昔には九州にしかなかった。
一万年前に氷河期が明けてからおよそ二千年前までの縄文・弥生時代の日本列島では、平地のほとんどは、氷河が溶けた水によって、湿原になってしまっていた。
だから、「豊葦原の瑞穂の国」などともいうのだが、氷河期にも氷河がなかった南九州・四国地方だけは、乾いた平地の原っぱが広がっていた。
ただ、四国は、ごつごつした岩だらけの土地で、なだらかな「台地」はあまりない。
それに対して九州南部は火山が多く、火山灰の台地が多く点在している。
火山灰地は、土地が痩せていて、農耕には向いていない。稲作には、なお向いていない。弥生時代の九州南部は、農耕生活が遅れていた。
南九州の平地は、乾いてはいたが、不毛の土地だった。人々の多くは、弥生時代になっても、いぜんとして台地で暮らしていた。台地のほうがまだ作物は育ったし、狩の拠点にもなった。それに、台風が多いところだから、漁民でも、海辺の平地に集落をつくることは危険だった。
人々は台地に対する愛着を持って暮らしていた。ここは平地の原っぱではない、という深い感慨があった。
「ばる・はら」ということばは、そういう暮らしの感慨から生まれてきたのではないだろうか。
平地に立てば、そこがふくらんでいる土地だということがよくわかる。
平地が湿原であれば、そこに立って台地を眺めることもほとんどないし、湿原から浮き上がっている台地こそが平地の原っぱになる。
遠い昔の日本列島において、本格的な台地の眺めは、九州南部にしかなかった。そして台地の下の平地は、不毛の地だった。
その台地は、原(はら)のようで、原(はら)ではなかった。
だから、「ばる・はる」といった。
そのことばは、おそらく南九州の火山灰地で生まれた。朝鮮から伝わったのではない。
そしてそれが、やがて九州全域に伝わっていった。
なぜ伝わったかといえば、土地に対する深い愛着の響きを持ったことばだったからだ。「ばる・はる」ということばには、なぜか、そこがとくべつな土地であるかのような響きがある。それが「はら」を言い換えたことばだとわかるからだろうか。
いや、「ばる」という音韻それ自体が、気持ちが昂揚する感慨を表出している。
平地に立ってその台地を眺めたとき、気持ちが昂揚したのだ。
「頑張る」「踏ん張る」のの「ばる」。
だから宮崎の人々は、地名とは関係なしに台地そのものを、「はる」ではなく、あえて「ばる」と呼ぶ習慣になっている。
しかしその呼称は、ついに関門海峡を渡ることはできなかった。本州には、南九州ほどあざやかな台地はなかったし、平地が不毛の地であったわけでもない。だから、台地に対するとくべつな愛着も生まれてこなかった。
地名は、そこで暮らす人々の、土地に対する深い感慨がこめられている。