祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」13

日本列島では、複数の男女が集まって求愛の歌を送ったり返したりする「歌垣」というイベントが縄文時代から定着していた。
みんなで歌い踊ること、そのカタルシスを共有しながら、しだいに「神話」や共同体のかたちになっていったのだろうか。
ただ、日本列島では、それが共同体のかたちになっていったとしても、神のことを歌っていたかどうかはわからない。いぜんとして、恋の歌ばかり歌っていたのかもしれない。
「歌垣」とは、「あのこが欲しい花いちもんめ」のようなコンセプトだったのだろう。そこから、べつに誰が欲しいというのでもなくただみんなで歌うという場もつくられていったかもしれないが、そういうときでも、男女のグループどうしの掛け合いで歌ってゆくとか、あいも変らず色恋のことばかり歌っていた、という可能性はある。
万葉集に収められた「歌謡」には、神のことを歌ったものがほとんどない。
日本列島においては、集団の「歌謡」が「神話」に発展していったという痕跡がない。
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弥生時代奈良盆地は、小さな集落がいくつも散らばって存在している、という土地柄だった。一か所に大勢の人が集まるというスペースがなかったから、集落の結束をつくってゆくという苦労は少なかった。
そのころの奈良盆地は大湿原地帯で、あちこちの水が干上がっている小高いところに小集落が点在する、というかたちになっていた。
だったら大雨が降っても水没する心配のない山の斜面に集落をつくってゆけばいいはずだが、なぜか人々は、平地の湿原に下りてこようとした。
平地に立てば、四方の山が見渡せる。そのたおやかな姿をした山々には、それぞれ神がやどっている。そこに立てば、神々に抱かれているというカタルシスを体験できる。
湿原の中の小高い場所に小集落をつくって住み着いていった者たちは、すでにそういうカタルシスを共有していた。彼らにとって、神話はあらかじめ存在していた。
つまり、集落の神話をつくらなくても結束してゆくことができた。彼らの愛着は、集落にではなく、まわりの景観にあった。
すでに神々に抱かれて、色恋の歌ばかり歌っていた。
集落の結束はあらかじめ約束されていたし、「制度」をつくって共同体にしてゆかねばならないほどの規模でもなかった。
彼らの人と人の関係に対する関心は、あくまで色恋のことだった。
幾つかの集落が集まって色恋の「歌垣」が催されることはあったらしいが、神にささげる歌垣にはならなかった。
現実的な色恋の場に、現実離れした神の話はそぐわない。
それは、彼らが現実離れした神に対する想像力がなかったからではなく、すでに現実離れした神に対する想像力で生きていたから、現実的な色恋の場に熱中してゆくことができたのだ。
そして、現実的な色恋に熱中していたから、たとえば三角関係などの個人的な恨みは起きても、集落間の対立は起きなかった。
男も女も、自分の集落よりも他の集落の異性のほうが気になる。どこも小さな集落だから、集落内では選べる相手が限られているし、狭いところで毎日顔を合わせていれば、なかなか恋のときめきなんか起きてこない。
だから、基本的には、他の集落と対立することはなかった。
色恋のことが気になったからこそ、集落間は連携していった。
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奈良盆地では、まず、色恋のことで集落が集まった「共同体」ができていった。これがおそらく、縄文末期から弥生時代にかけてのことだ。
そして奈良盆地の「歌謡」は、万葉集の時代になっても、ほとんどが色恋のことだった。
広場に集まってみんなが歌い踊る「歌謡」が「神話」に発展してゆくということがなかった。
それは、そうやってみんなの結束をはかっていかないといけないような大きな集落がなかった、ということを意味する。そして小さな集落ばかりだったから、必然的に連携することを覚えていったということだ。
そうしてその連携が、やがてまわりの湿地をみんなで干拓して田んぼをつくってゆく、ということを実現していった。
弥生時代の中ごろになれば、千人くらいの大集落は、もしかした日本列島中にいくらでもあったかもしれないが、百人前後の小集落がいくつも連携し合って大きな共同体を営んでいるという地域は、おそらく奈良盆地にしかなかった。そういう共同体のほうが、国家規模の共同体へと発展してゆく可能性をそなえている。
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いくつかの集落のものたちが一か所に集まって「歌垣」のイベントが催される。
そのようにして、奈良盆地における集落間の連携はつくられていった。また、そうなってゆくにさいして、たおやかな姿をした山なみに囲まれてわれわれは神々の景観を共有しているという、あらかじめの合意があった。
弥生時代後半の奈良盆地纏向遺跡は、大きな集落跡だが、住居が見つかっていない。祭殿とか、集会所だとか、鉄器や土器を作る工房だとか、そんな施設が集まっているところだったらしい。つまり、集落間の連携のための施設だったのだ。そして、そのころの日本列島にそんな施設は、奈良盆地にしかなかった。
集落間で連携して共同体をつくり、さらに共同体間で連携して都市国家へと発展してゆく。それは、政治ではなく、民衆の心の動きのダイナミズムだったのであり、そういう連携は、奈良盆地の人々しか組織することはできなかった。
米をつくるために集落間の連携をつくっていったのではない。集落間の連携がつくられていたから、みんなでまわりの湿地帯を干拓して米をつくり始めたのだ。
人間の歴史が「食う」目的によってつくられてきたというような、そんな卑しく短絡的な歴史観にわれわれは組するつもりはない。
そのころの人々がどのような心映えを持ってどのように暮らしていたかということに対して真率な想像をめぐらすという態度が、彼らにそなわっているとは思えない。
食い物が目的で人々が寄り集まっていったのでも、米をつくろうとしたのでもない。
また、共同体をつくろうとして共同体をつくったのでもない。共同体をいとなんでゆくことは、人々の心にさまざまな軋みをもたらした。それを克服する装置として、「神話」が生まれてきたのだ。
その神をまつる祭殿や神について語り合う集会所の規模において、纏向遺跡よりも大掛かりなものはまだ発見されていない。
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古代人にとって、米は「神」の食べ物だった。たんなる空腹を満たすためのものでも、美味だったからでもない。言い換えれば、おいしいということは、単純な味覚だけの問題ではない。それを食べることのカタルシスは、単純な味覚だけの問題ではない。「味がない」ということそれ自体が「おいしい」というカタルシスになったりもする。
つまり、味がない米を食うことは、食うことが目的だというような卑しさやわずらわしさから解放されている、という感覚でもある。
彼らは、そこから解放されて、色恋の「歌垣」に熱中していったのだ。
米を食うことのカタルシスは、食うことが目的の生存から解放されることにあった。
初期の弥生人は、縄文人と同様、まだまだ色恋に熱中して暮らしていたのだ。
さらには万葉集の「歌謡」までが色恋のことばかりだということは、そのころの日本列島の歴史が、縄文時代から一直線に連続していたということを意味する。
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弥生時代のはじめに大陸から人がやってきて日本列島の人種や文化がまるで別のものになってしまったかのようにいう歴史家は多いが、ほんとに、何をくだらないことを考えているのだろうと思う。
古墳時代の始まりだって、大陸、あるいは九州や吉備地方からの侵略者のよって大和朝廷が打ち立てられたという説もよく聞くが、それだって、そこに暮らしていた人々の暮らしぶりや心映えに推参しようとする想像力がなさすぎる連中の結論にすぎない。そんな薄っぺらな「古代ロマン」などなかったのだ。だったら、九州や吉備に都(大和朝廷)をつくればいいだけの話じゃないか。米作りに適した土地だって、奈良盆地よりももっといい土地がほかにいくらでもあったのだ。
奈良盆地の人々が一番米作りに熱中していた、というだけの話さ。そこは、わざわざ厄介な「干拓」という土木工事をしてはじめて米作りに取り掛かることができると、いうような、そんな苦しい条件を負っていた土地だったのである。それでも彼らは、米作りに熱中していった。そこが、問われなければならない。
そんなしんどい干拓工事をみんなでやっていたから、集落間の大きな連携が生まれてきて、やがて大和朝廷が打ち立てられていったのだ。
支配者の強権や政治的な手続きだけで人と人の連携や絆が生まれてくると考えている連中は、人間の見方が薄っぺらで人間をなめている。
17世紀に南米を侵略していったスペイン人たちは、けっきょく原住民のインディオを支配できずに皆殺しにしてしまうしかなかった。政治を知らない人たちを政治で支配することなんかできないのだ。
政治を知らない日本列島の住民が、少しづつ少しづつ政治に気づいていった。そういう「歴史」を、あなたたちは、なぜ考えようとしないのか。大陸からやってきていきなり定着していった……そんな薄っぺらな理屈など、あほでも考えることができる。考えなくてもわかる。
米作りだって同じだ。それは、縄文時代以来、少しづつ少しづつじぶんたちで工夫しながら完成していったのだ。だからこそ愛着もあるのだし、いきなり教えられて、はいそうですかというかたちでそのまま列島を象徴するような文化になる、などということがあるものか。
米作りなど、弥生時代のはじめの日本列島の住民は、みんな知っていた。そんなことは縄文時代から列島中で行われていたことであり、そういう考古学の遺跡がいくらでもあるではないか。それを、なぜ大陸から伝わってきてはじめて知ったということにしようとするのか。あなたたちのの安っぽい「人間観」や「古代のロマン」を満たしたいためだけじゃないか。
古代の歴史は、政治だけで動いていたのではない。
大和朝廷は、「政治」だけでつくられていったのではない。
人間を、なめて考えてくれるな。弥生時代奈良盆地の人々にとっては、色恋の「歌垣」こそが暮らしの中心だった。それは、彼らがすでに食うことだけではすまない実存的な問題を抱えていた、ということを意味する。それが、縄文時代以来続いてきた日本列島の伝統だった。
そしてその伝統は、万葉集にも受け継がれている。
そういう伝統を無視して、安直に誰が侵略しただの大陸から伝わってきただのといってもらっては困る。
いまや日本列島は政治の季節だが、僕は、それどころじゃない。とりあえず日曜日までは、古代人と神話のことのほうが気がかりだ。