祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」14

弥生時代後期の纏向遺跡は巨大な集落跡だが、そこには祭殿や集会所や鉄器や土器の工房などの集落間の連携のための施設があっただけで、住居の跡は見つかっていない。
これを、巨大な王権が存在した証拠だとほとんどの歴史家はいっているのだが、われわれは、王権がどうとかということはあまり興味はない。
「王権」ということばで古代の歴史を語ろうとするなんて、悪趣味だ。そんな概念が古代の歴史に推参するための切り札になるとは思わない。
纏向遺跡は、朝廷跡ではない。そんな施設の跡は見つかっていない。そこはたぶん、民衆によって運営されていた、民衆が集まってくる場所だったのだ。そういう施設しか、まだ発見されていない。
少なくとも弥生時代は、王権が支配するようになる以前の過渡期の時代だったはずだ。
古代のどんな国家であれ、王権が生まれてくるにいたる過渡期の時代はあったはずだ。まず民衆自身が連携して共同体を形成してゆく、という時代はあったはずだ。
いきなり王が現れて共同体をつくっていったのではない。いきなり王の支配によって民衆の連携がつくられていった、などということがあるものか。まず民衆自身が連携する共同体がつくられ、そこから王が生まれてきたのだ。
歴史のはじめにおいて、「王」は、民衆によって生み出されていったのである。
共同体があったから「王」が生まれてきたのであって、共同体が存在しない時代に、いったい誰が共同体をイメージできたというのか。いったい誰が、共同体をつくって王として君臨しようとイメージできるというのか。
まず、民衆によって共同体が組織されてゆく時代があった。それが、弥生時代だ。王が共同体をつくったのではない。民衆がつくり、民衆が王を祀っていったのだ。
したがって、纏向遺跡が見つかったからといって、王権が存在したという証拠にはならない。
いや、たとえ民衆によってそのとき王の君臨がイメージされていたとしても、王が傍若無人に支配していたとはかぎらない。そんな話は、せめて飛鳥時代大化の改新以後のこととして語っていただきたい。
文字がない時代に、朝廷などという権力機構というかお役所をどんなふうに組織するというのか。
纏向遺跡には、そんな建物は存在しない。
もしかしたらそのとき王は、人里離れた山に住んでいたのかもしれない。
山には神が棲んでいる。神とともに暮らしているその人を、民衆は「王」として崇めていったのかもしれない。
卑弥呼は、山に住む巫女のことだったのかもしれない。
古代には、山の中に巫女が住む里があった、といわれている。それは、縄文時代の延長として、ありうる話だ。縄文時代には、女だけの集落が、山の中にたくさんあって、旅する男たちを迎えるいわば遊里のような機能を果たしていた。そういう場所がきっと弥生時代にも残っていて、弥生時代には占いや加持祈祷もするようになっていったのだろう。
そういう巫女たちのカリスマ的な存在が、卑弥呼だったのかもしれない。
まあ、そういうカリスマが共同体の中心に迎え入れられ、そこで王として暮らすというシステムになっていったのかもしれない。
それが、奈良盆地における「天皇」の発生だったのかもしれない。
王が共同体の中心に住み着けば、権力を手に入れる代わりに、神秘性やカリスマ性を失う。
この国の天皇の神秘性やカリスマ性は、初期の歴史の長い期間、人里離れた山の中で暮らす存在だったことから来ているのかもしれない。
天皇がいったいいつごろから共同体の中心に住まうようになったのかはよくわからないのだが、弥生時代には山に棲むカリスマ的な巫女がいてそれが天皇の起源になった、と推測することもできる。
弥生時代のことを語るのに、かんたんに「王権」ということばで何もかも済ませてもらっては困る。
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原初の「かみ」ということばは、今のような擬人化した「神」という対象のことではなく、たんなるカタルシスの体験のことだった。
これでもう死んでもいい、というほどの体験、それを「かみ」といった。
四方をたおやかな姿をした山なみに囲まれた奈良盆地の景観は、古代人に「これでもう死んでもいい」というカタルシスをもたらした。
古代の奈良盆地は、日本列島中から人が集まってくる場所だった。誰もが、奈良盆地に憧れた。そこには、日本列島の住民の心にカタルシスをもたらす景観があった。
縄文時代以来、日本列島の住民は、山を眺めて暮らしてきた。山を眺めることによって、人々の心は安らいだ。
山は、この世界の果てである。「やま」ということばには、そういう感慨がこめられている。それが、「やま」ということばの語源である。「や」は、たどり着く遠いところのこと、「ヤッホー」の「や」。「ま」は「まったり」の「ま」、「充足」の感慨からこぼれ出る音声。この世界の行き止まり、という感慨から「やま」ということばが生まれてきた。
山の向こうは見えない。「見えない」というそのことが、心を落ち着かせる。ここでもう世界は完結している、もう死んでもいい、という心地にさせてくれる。
啄木は、「故郷の山に向かひて言ふことなし 故郷の山はありがたきかな」と詠った。日本列島の住民にとっての山は、生きてあることの最終的な感慨をもたらす対象だった。
ふとした偶然からこの世に生まれ出てきてしまったわれわれにとって、「もう死んでもいい」という感慨こそ、最終的な感慨である。
逆にいえば、そういう感慨を抱くことによって、生まれ出てきてしまったことと和解してゆくことができるのだ。
奈良盆地は、そういう感慨が、もっとも鮮やかに浮かび上がってくる場所だった。だから、たくさんの人がそこにやってきて、たくさんの人が住み着いていった。
奈良盆地は、弥生時代になってもっとも爆発的に人口が増えた地域だった。それは、縄文時代からいくぶん地球気候が寒冷化して、湿原が干上がり始めたからだった。それまでそこは、ほとんどのスペースが、住みたくても住めない湿原だったのだ。
そこは、けっして住みやすい場所ではなかった。しかし、どこよりも、人々の心を魅了してやまない景観があった。
そこに住めば、いつ死んでもいいという感慨で暮らしてゆくことができた。いつ死んでもいいのだから、暮らしにくいことなんかなんでもなかった。いや、暮らしにくいという「嘆き」を共有することが、人と人の心を結び付けていった。
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その、最終的な感慨(カタルシス)をもたらす体験のことを、古代人は「かみ」といった。
山には「かみ」が宿っている、というとき、その「かみ」は、そうした最終的な感慨をもたらす山という存在の本質のことであって、擬人化された「神」という存在のことではない。
歴史の流れにおいて、「かみ」という体験は、共同体の発生をはさんで、「神」という擬人化された対象になっていった。それはまた、「伝説」が「神話」に変ってゆくことでもあった。
集落間の連携が生まれてくれば、共同の干拓工事や水田の水の管理のことや、さらにはこの次いつどこで歌垣の会を催すかとか、集落間でさまざまな相談をするようになってくる。
男は外をほっつき歩くのが好きで、いつも目が外に向いているから、そのような相談は、主に男たちによってなされたに違いない。ある場所に集まって、一緒に酒を酌み交わしながら語り合う。そうなれば、仕事の相談だけでなく、いろんな噂話などもしたことだろう。そういう話の中から「伝説」が生まれてくる。
その中には、山の巫女のことも大いに語り合われただろう。
大切なことは巫女に占ってもらっただろうし、巫女たちは遊女でもあった。
そうしてカリスマ的存在の巫女の美しさや霊能力について語り合うことは、彼らの結束を高めた。男たちによって、その巫女は伝説化され神格化されてゆき、その巫女は山の神と契りを交わしているというかたちで、「かみ」ということばが擬人化されていった。
西洋の神が擬人化されていったことにしても、伝説化された人間が神になっていったのだろう。
伝説化された人間が語り伝えられるうちにどんどん超越化していって、「神」になる。
そのとき、もう死んでもいいという実存体験としての「かみ」から、共同体の結束の象徴としての「神」に変っていった。
この世界の本質としての「かみ」が、この世界の本質を体現している存在としての「神」になっていった。
稲妻や雷鳴という現象があるだけなのに、そういうことを起こす「存在=もの」を語らずにいられなくなる。そういう超越的な「存在=もの」を共有してゆくことによって、共同体の結束が深まってゆく。
誰かが「虚無にだって触ることができる」といっていたが、「かみ」を触ることのできるものにしてゆくのが「神話」だ。
いや、この問題は、難しい。ぜんぜん説明になっていない。
ぜんぜん説明になっていないが、ひとまず書いておけば、この次いつかもう少しましな考えにたどり着けるかもしれない。
今日のところは、ひとまず「与太話」かな。