閑話休題・「表現の自由」について

ある人が、「表現の自由」について、次のように語っていました。
表現の自由とは、誰もが「自己実現」と「自己統治」のたしなみを持っていることの上に成り立っている。それが「自由な社会」であり、表現の自由にはそういう「ヒモ」がついているということを知らねばならない……と。
そこで僕は、そのブログに、以下のようなコメントをしました。
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自己実現」とか「自己統治」とかといわれても、よくわかりません。
僕のようなだめ人間は、自己実現やら自己統治の能力を持ち合わせていない。
「自由」の何たるかも知らないし、そんなものを味わったこともない。
自己実現や自己統治をするのも別の「自己」であろうし、その「自己」を実現させたり統治したりするものとはいったい誰かといえば、他者や社会の構造に違いない。
言い換えれば、「自己」の上位に、幾重もの「自己」がある。
つまり、われわれの「自己」は、根源的に「自己」から置き去りにされている、ということだ。
僕の「自己」は、僕の手に負えない。僕に「自由」などない。骨の髄まで奴隷根性で生きている。
われわれの意識は、根源的に他者につながれてある。
「自由」て、何なのですか?
自己実現」て、何なのですか?
「自己統治」て、何なのですか?
そんな気味悪いことばと慣れ親しむことなんかできない。
僕は、自分を統治する「自己」など持ち合わせていない。
「自己」とか「自己実現」とか「自己統治」ということばを持ち出されること自体、僕のようなだめ人間に対する差別発言だ。
自分だけ無傷であるような言い方は慎んだほうがいい。
「ふてぶてしい黒人は鰐の餌にしてしまえ」という発言だけが「差別」なのではない。
すべての他者が、自分に対する「差別」として存在している。
自分はこの世でいちばんだめな人間だ、と思ったことはないですか。「自分など生きていてもしょうがない」と思ったことはないですか。
もしも、すべての人にそんな気持ちがどこかしらにあるとしたら、それはつまり、自分もまた他者に対する「差別」として存在している、ということだ。
カミユが「他者というのはどうしてあんなにもはっきりとした存在感を持っているのだろう」といっていたが、まあ、そういうことです。
他人に、「自己実現」やら「自己統治」の能力なんか押し付けるな。それ自体差別発言だ。
何を言おうと他人の勝手だろう。
われわれにできることは、その発言に対してどれだけ深く幻滅できるか、ということだけだ。
言ったらいけないことなど何もない。人が思うことは、誰にも止められない。
言えばみんなから幻滅されるということがわかれば、誰も言えなくなるだろう。
われわれの社会は、それを言った人間に、「幻滅される」という体験をさせてやれる社会になっているか、それが問題だ。
だから、言わせてやれる社会にならなければならない。
そういうことを言わない社会がいい社会なのではなく、そういうことを言った人間が深く幻滅される社会になっているか、と問われなければならない。
「自分は差別していない」とえらそうなことばかりいう人間がのさばる社会なんか、ちっともいいとは思わない。
自分は他者を差別しているし、他者から差別されている……人間存在は、根源的にそういうかたちになっている。僕は、そのことをどれだけ深く自覚できるかが自分の課題だと思っている。
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いまさら、「原爆をつくるな」とはいえない。
「どうして原爆をつくりたがるのだろうか」という問題と「原爆をつくりたがらない社会とはどんな社会だろうか」という問題があるだだろう。
原爆をつくりたがる人間が生まれてくるような社会なのだもの、つくりたがる人間が生まれてくるのは当然のこと。
今はそういう人間がいる、ということを知らなければ、そういう人間がいない社会がくることもない。
「つくるな」といえば、つくらない人間ばかりになるわけではない。そんなことをいっても、つくりたがる人間が生まれてくるような社会であれば、つくられてしまう。
「差別的発言をするな」といっても、差別感情がなくなるわけではない。そういう社会なのだもの。そういう差別感情を持った人間がいるということを知らなければ、差別感情が生まれてこない社会になることもない。
差別感情を持った人間がいるかぎり、差別発言を隠蔽するべきではない。
「そんなことをいってはいけない」といっても、何の解決にもならない。
セックスをするな、といっても、セックスをしない人間ばかりになるわけではない。
セックスをしたがる人間がいるかぎり、セックスはなくならない。
差別発言をしたがる人間がいるかぎり、差別感情はなくならない。
そういう人間がいる、ということは、知っておいたほうがいい。それによってわれわれは、この社会はおかしい、と知ることができる。
いわなければいいってものじゃない。差別感情が渦巻いている人間が、黙っていればいい社会なのか。
差別感情があるのなら、言えばいいさ。それはもう、われわれの社会が引き受けるしかない運命なのだ。
差別発言をしない社会がいい社会であるのではない。差別感情がない社会こそが目指されているのではないのか。
差別発言をしたがる人間がいるのなら、いる、とわかったほうがいいのだ。
差別感情を持っている人間に、差別発言をするな、ということなど、ナンセンスだ。
差別発言をした人間がちゃんと幻滅される社会になっているか、強姦をした人間がちゃんと裁かれる社会になっているか、さし当たってそのことを問うてゆくしかない。
差別発言をするなということも、差別感情を持つなということも、ナンセンスだ。それ自体、他人を上から見下ろす視線だ。
「自由」とか「自己統治」とか「自己実現」とか、アナクロだ。
「自由な社会」などというものはない。自由がないところを、「社会」というのだ。
しかし「社会」が存在することは、受け入れるしかない。なぜなら人間は、「自己」を実現する自由も、「自己」を統治する自由も根源的に持っていないからだ。だから、社会(共同体)というものをつくってしまったのだ。
だから、社会(共同体)の中で、「自己」を統治し実現したつもりになってゆく。
自己実現」とか「自己統治」とか「自由」を叫びたがることなど、ただの制度的な心の動きなのだ。
人間であることと和解できない、ただの悪あがきなのだ。
われわれは、好きで生まれてきたわけではないし、老いてゆくことからも死んでゆくことからも自由にはなれない。
われわれは、この生に幽閉されてある。
われわれは、根っからの奴隷だ。
「自由」なりたいやつはなればいい。
僕は、自分が「奴隷」であることと和解できる道を探ってゆく。なぜなら、そこにこそ生きてあることのカタルシスがあるのであり、それこそが死との和解の道だと思えるからだ。
カタルシスとは、奴隷のときめきであり恍惚のことだと思っている。
「自由な社会」とか「自己実現」とか「自己統治」とか、人格者ぶったそんなけちくさいことは、僕の趣味じゃない。
いやいやしょうがなく生きている者こそもっとも深く他者やこの世界にときめいているのであり、いやいやしょうがなく生きているというタッチで生きていられなくなっているところにこの社会の病理がある。
いやいやしょうがなく生きていてはいけないのではない。そこからカタルシスをくみ上げられなくなっているところに、この社会の病理がある。
僕は、いやいやしょうがなく生きている人と生きてあることのカタルシスを共有していけたらと願っている。
というか、人間なんて、みんないやいやしょうがなく生きているだけじゃないか。
いまさら、「幸せ」だの「自由」だのという薄汚れたスローガンを持つ必要なんかない。そんなものは、おまえらにぜんぶくれてやる。
それでいいのだし、そこにこそ人類の歴史が見つけ出したカタルシスがある、と思っている。