祝福論(やまとことばの語源)・「山(やま)」と「岳(たけ)」

「ヤマトコトバの考古学(木村紀子著・平凡社)」という本があります。今年の夏に出たばかりで、二千八百円という少々高価な本だが、興味深いことがたくさん書かれてある。
この本の前書きで、著者はこういっています。
「文献以前、あるいは文献によって蔽い隠された、日本列島上の、今に続くはるか遠い祖(おや)たちの言葉の姿が、いくばくか彷彿できるなら幸いである」と。
つまりこの人は、僕と同じ問題意識を持っていて、僕のライバルであるらしい。
異論・反論はいくらでもあるのだが、いちおう仁義として、この本を紹介させてもらいました。数日前に書いた「泣く」ということばの語源解釈は、じつは、この人の説に対する反論です。
奈良大学の名誉教授であるらしい。
しかし、だからといってべつにおそれることもないし、その人が僕よりも遠くまで考えているとも思わない。
研究者だから、ほんとによく調べ上げているが、考えておられることの内容は、いささか脇が甘い。それだけではまだ「遠い祖(おや)たちの言葉の姿」に推参できているとは思えない。
「泣く」の「な」は泣き声からきている、なんて、僕は納得できない。「泣(な)く」というやまとことばが、泣くことの感慨抜きに成り立っているはずがない。
というわけで、この本に対する異論・反論をときどき書いていこうと思います。
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僕が何よりも気に入らないのは、ことばの問題以前に、言語学者ですら「大和朝廷は、あるときよその土地からやってきた侵略者によって打ち立てられた」という、よくある歴史解釈を当たり前のように信じてしまっていることだ。
それが、宮崎の高千穂からやってきた神武天皇だろうと、九州・出雲・吉備の連合軍だろうと、大陸からの騎馬民族征服王朝説だろうと、ぜんぶ嘘っぱちだと僕は思っている。
大和朝廷は、縄文・弥生いらい奈良盆地に住み着いていった人々の連携し結束してゆくダイナミズムから、自然発生的に生まれてきたのだ。
古墳時代中期に、中国地方から畿内にかけて次々に騎馬民族による大量殺戮が行われていったという考古学的証拠など何もないし、もしそうした王朝ができたのなら、それ以後の日本列島の戦争はぜんぶそういうやり方になっていったはずで、「やあやあわれこそは」と名乗りあう戦(いくさ)の文化など生まれてくるはずがない。
「いくさ」とは、「命のやり取りをする」という感慨から生まれてきたことばであって、一方的に虐殺することがいちばんであるかのような思想から生まれてきたことばではない。
「い」は、「いのち」の「い」。「く」は「組む」の「く」、「複雑」「錯綜」の語義。「さ」は「裂く」の「さ」。「二つに分かれて取っ組み合い命のやり取りをすること」を、「いくさ」といったのだ。
したがって騎馬民族征服王朝説など論外だし、また、弥生後期から古墳時代にかけてのその時代に、大和朝廷ほど大きな共同体をつくることのできる連携と結束のダイナミズムが生まれている地域など、日本列島には、奈良盆地以外のどこにもなかったのだ。
弥生時代の後期において、奈良盆地ほど人口密度が高くて大きな都市集落など、どこにもなかった。
そのころ、奈良盆地の人々なら他の地域と連携する能力はあったが、それほどの能力は九州にも出雲にも吉備にもなかった。
もともと奈良盆地そのものが、ひとかたまりになっているのではなく、小集落間の連携の上になり立っている都市集落だった。
弥生時代から古墳時代にかけての日本列島の住民に、「土地を奪う」という意識などなった。人類の歴史は、農耕を覚えたことによって、土地は有り余るようになった。彼らの頭の中にあったのは、つねに自分たちの土地をどうデザインしてゆくかということだったのであって、よその土地を奪うことにまで手も頭も回らなかった。
そういう時代に、「よその土地からやってきた侵略者が大和朝廷を打ち立てて奈良盆地を支配していった」だなんて、もうそんなゲームみたいな程度の低い思考でつまらない物語をでっち上げるのはやめてくれ、といいたい。
国家をつくったこともなく、国家という事態を体験したこともないものたちが、国家をイメージできるはずがないではないか。
最初の、起源として国家は、自然発生的に生まれてきたのであり、気がついたら国家になっていたのだ。そういうふうにしか、国家は生まれようがないのだ。
世の歴史家たちに、僕はこういいたい。おまえら、もっと人間を信じろよ、「よその土地からやってきた侵略者が大和朝廷を打ち立てて奈良盆地を支配していった」だなんて、自分たちがいかに下品で卑しい発想をしているかということに、少しは気づけよ、と。
まあ、このことは、「神話の起源」というシリーズで何度もいってきたことだから、これ以上いうのはやめておきます。ほとぼりが冷めたら、また言い出すだろうけど。
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とにかく「ヤマトコトバの考古学」の著者も、「よその土地からやってきた侵略者が大和朝廷を打ち立てて奈良盆地を支配していった」という俗説を当然のように信じ込んだ上でいろんなことをいっておられる。
それが、気に入らない。
たとえば、奈良盆地の住民が「山(やま)」と「岳(たけ)」を使い分けていたのは、侵略者のことばと土着のことばが交じり合っていたからだ、とおっしゃる。
つまり、奈良盆地にはもともと「岳(たけ)」ということばはなく、それは侵略者が持ち込んだものだ、というわけです。
たしかに奈良盆地のまわりに「岳」というほどの山はない。だからそれは、外から持ち込まれたことばであろうことはわかる。
しかし、何も「侵略者」のことばだといわなくてもいいではないか。
古代の奈良盆地は、たくさんの旅人がやってきて住み着いてゆく土地だった。そういう人たちが伝えただけのことかもしれない。
だから人口が爆発的に増えて日本列島でいちばん大きな共同体になっていったのであり、べつに奈良盆地の人々がほかの地域より多産系の体をしていたからでも、食料が豊富な住みやすい土地だったからでもない。人口が増えるにしたがって、懸命に土地を耕してそのぶんの食糧をまかなっていっただけだ。
そのころの奈良盆地は、湿地だらけの不毛の土地だった。「豊葦原の大和の国」などという、葦が生える湿原ばかりの土地だったのであれば、こんなところを欲しがる権力者などいるはずがない。
そこに住み着いていった人々が、けんめいに湿地を干拓して耕作地に変えていった。それは、権力者が命じたのではなく、それだけたくさんの人がいて、連携し結束していったことの結果なのだ。
ではなぜそんなにも多くの人が住み着いていったかといえば、まわりをたおやかな姿をした山に囲まれ、古代人にとっては「もうここでも死んでもいい」と思えるような景観を持っていたからだ。
古代は、山には「神」が棲んでいるという信仰があった。そうして奈良盆地に立った人はみな、「自分はいま神に抱かれている」という最終的な感慨を抱いた。
おそらくそれが、古代の奈良盆地で爆発的に人口が増えた契機であり、その感慨を共有しながら人々は連携していった。
べつに侵略者などやってこなくても、奈良盆地にはいろんな地域のことばが入り込んでくる条件があった。そこは、多くの旅人がやってきて住み着いてゆく土地だったのだ。
そして古代においては、神を共有しているものたちこそもっとも豊かに連携し、ダイナミックな語り合いの場も生まれてくる。
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もしも「岳(たけ」ということばが、九州の高千穂や出雲や吉備からの侵略者によって持ち込まれたものであるのなら、そのころ東国には「岳(たけ)」ということばはなかったことになる。
信濃の「乗鞍岳」や「槍ヶ岳」や「常念岳」は、大和朝廷成立以後に付けられた名称なのか。信濃の人々は、「岳(たけ)」ということばは知らなかったのか。
そのことばはむしろ、信濃からもたらされたものである可能性のほうが強いだろう。
まあ、「岳(たけ)」ということばなど、北海道から九州まで、どこにでもある。
日本列島の住民は、もともと旅する民族なのだから、そんなことばなど、侵略者が持ち込まなくても、かんたんに列島中に広まってしまう。
この本の中では、「山(やま」と「岳(たけ)」のニュアンスの違いは語られていない。
しかしたぶん、われわれの解釈と同じではあるまい。
古語辞典では、「岳(たけ)」とは大きな高い山のこと、となっているが、おそらくそうではない。
「富士山」や「阿蘇山」や「岩木山」は、大きくて高い山だ。
「たけ」の「た」は、「立つ」の「た」。山は、そびえ立っている。
「け」は「蹴る」の「け」、「分裂」の語義。
つまり、山の連なりの中で、ほかの山とは一線を画す(=蹴る)ようにそびえ立っている山のことを、「岳(たけ)」といったのだろう。
富士山は孤立していて、ほかの山と連なってはいない。
そして阿蘇山の頂上は広くていくつもの噴火口がありでこぼこしてるが、それらのひとつずつの頂きは、「岳(たけ」という名称になっている。たとえば「阿蘇の中岳」というように、それぞれの小さな頂きが区別されている。
山なみの中のひときわ目立つ山のことを、「岳(たけ)」といったのだろう。
だから、そのことばは、信濃からうまれてきた可能性が高い。そのとき「岳(たけ)」と呼ばずにいられない衝動があったわけで、その衝動は、信濃の人々がいちばん色濃く体験しているに違いない。
あの山だけはまわりのほかの山とは違う……そういうときめきから、「岳(たけ)」ということばが生まれてきた。
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「たけだけしい」とは、うるさく目立ってまわりから浮いているようすのことをいう。
「見るだけ」「聞くだけ」というときの「だけ」は、「乗鞍岳(のりくらだけ)」の「だけ」と同じニュアンスである。
竹(たけ)」は、地面を蹴るように勢いよく伸びてゆく(立ち上がってゆく)からだろうが、それぞれが「一線を画して」立っている、ともいえる。
「丈(たけ)が高い」という。つまり、「高い」ことを「たけ」というのではない。ほかから峻別して立っていることを「たけ」というのだ。
着物の袖の長さのことを「袖丈(そでたけ)」という。着物は、袖だけ別に作るからだ。
いろいろある中の特別なもの、ほかとは違うものを「たけ」という。
日本列島の住民は、なぜ田んぼのことを「た」といったのか。
「立(た)つ」にせよ「足(た)る」にせよ、「た」は、「充足」の感慨の表出である。
「田(た)」ということばには、日本列島の住民の田んぼに対する深い思い入れが込められている。稲が実って一面こがね色になることの充足感、そこから「田(た)」ということばが生まれてきた。
「毛(け)」は、体の表面の「異物」であり、「特別」なものである。だから、「け」という。
「たけ」ということばは、特別なものに対するときめきから生まれてきた。
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つまり、やまとことばを使う民族であるのなら、そういう感慨を体験をすれば自然に「たけ」という音声が口をついて出る。それだけのこと。侵略者なんぞに持ってきていただかなくても、「たけ」ということばくらい、自然にいつのまにか流通してゆくのだ。
「たけ」ということばは、山だけのことを指して使われていたのではない。ほかとは違う特別なものを「たけ」といっっていたのだ。
なるほど奈良盆地には「岳(たけ)」という山はないが、「たけ」ということばはあったのである。したがって、もしそこにとくべつ目立つ山があれば、とうぜん「岳(たけ」といっていたに違いない。
そのたおやかな姿をした山の連なりを、「たたなづく」などともいった。「たたなづく山なみ」とか「たたなづく青垣」とか。彼らは、その山の連なりそのものを、ひとつの「青垣」として眺めていた。
で、そういう景観の風土と、信濃のように「岳」を仰いで暮らす風土では、とうぜん何らかの精神性の違いは生まれてくる。
たとえば、日本列島の住民にとっての「天皇」は、「たおやかな姿をした山=神」であるのか、それとも「屹立する岳=神」であるのか、という問題がある。
天皇」は、信濃からではなく、奈良盆地から生まれてきたのである。それはつまり、その起源における「天皇」は、「侵略者」であったり「支配権力を誇示」したりするような「屹立する岳=神」として生まれてきたのではではない、ということだ。
起源としての天皇は、「屹立する岳=神」であったのではない。古代の奈良盆地の人々の、たおやかな姿をした山なみに囲まれて暮らしている風土の神意識を基礎にして生まれてきたのだ。「ヤマトコトバの考古学」の著者がいうように「日本列島上の、今に続くはるか遠い祖(おや)たちの言葉の姿」を想像するなら、どうしたってそういうことになる。
「山(やま)」と「岳(たけ)ということばの違いは、そういうところまでわれわれの思考を連れてゆく。(つづく)